(4)
「消えろ(リスティンヴェンド)!」
突然聞こえて来た消火呪文にびくりとなり、尻もちをついた。
目の前の炎は、見えない水をかけられたように、じゅっと音を立てて消えてしまい、眩しい炎を見つめていたティルアの目には、薄暗い林の中は闇に閉ざされる。
「誰!」
しかし、叫ぶと同時に、その呪文を唱えた人物が誰であるのかを直感で気付いた。
恐怖に全身が凍り付く。
しかし、相手に背中を向けたままでいる方がよほど恐ろしい。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのはやはり、片眼鏡の臨時講師イグナーツ・リームだった。
左手の人差し指に魔術で灯した青白い光が、片眼鏡に反射していた。何の感情も感じられない、ぞっとするほど冷ややかな人形のように整った顔。
「おや、君はティルア・キーリッツじゃないか。こんな夜中に一人で出歩くなんて、いけない子だね」
彼は口元だけに笑みを乗せて、ゆっくりと近づいてくる。
「い……や……」
「何をこっそり燃やしていたんだい? 木に燃え移りでもしたら危ないだろう?」
石畳を踏みしめる男の足音が、身体を縛っていく。
「……こ、こないで」
喉がからからで、掠れた声でそう言うだけで精一杯だ。後ずさろうとする身体は強ばり、ぎしぎしと軋む。
彼が近づく歩幅に比べて、地べたに座り込んでしまったティルアが後ずさる距離はごくわずか。あっという間に、腕を組んだリームに間近から見下ろされてしまう。
「それにしても不思議だね。昨晩、僕はずいぶん待っていたのに、君は現れなかった。今日は、こんな場所でノートを燃やしている。これは、どういったことだろう」
「やっぱり先生が、あたしを誘い出そうとしていたのね。どういう目的なの!」
「ある生徒を捜しているんだよ。その生徒はこの学院に必ずいるはずなのに、どうしても見つからないんだ。せっかく見つけたと思った二人は、どちらも人違いだったし……ね」
探している生徒というのは、フリーデル・クラッセンに間違いない。人違いだったという二人は、フリーデル・プラネルトとクリスタのことだろう。
やっぱり、この先生が二人を殺したんだ。
ティルアは憎しみを込めた瞳で、リームを睨んだ。
「君、選抜試験のときは超優秀だったんだってね。でも今は、百年に一人の落ちこぼれなんて呼ばれていたから、候補からはずしていたんだけど、あれほど強い呪いをノートに仕込んでおいたのに効かなかったのは、やっぱり秘めた魔力があるってことなのかな。君はどう思う?」
「まさか、リーム先生は、あたしがフリーデル・クラッセンだと思っているの?」
消去呪文さえ使えない自分が、大魔術師の子どもであるはずはない。しかし、リームは明らかにそう疑っている。
つい口から出たフリーデルの名に、リームは驚いたように目を見開いた。
「ヘぇ、君がその名前を知っているとは思わなかった。もしかすると、その名を刻んだ形見でも持っているのかい?」
「そんなものない! あたしがフリーデルのはずがない。何かの間違いよ!」
「そうかな?」
「先生はフリーデル・プラネルトとクリスタを、フリーデル・クラッセンだと間違えて殺した。そうなんでしょ!」
「驚いたな。君は何でも知っているんだね。でも二人を殺しても、魔法統括省の名簿からフリーデルの名前が消えることがなかったんだ。それもそのはずだ。君が本物のフリーデルだったんだからね。やっと見つけたよ」
「あたしをどうするつもり」
その答えは分かっていたが、聞かずにはいられなかった。
相手は超一流の魔術師だ。ティルアには魔術に抗う術はない。魔術など使わなくても、素手で大人の男に敵うはずもない。地面に座り込んでしまったティルアには、もう逃げることさえ不可能だった。
そんな絶体絶命の少女の前に、リームは楽しそうな笑顔を浮かべて屈み込んだ。
「さて、どうしよう? 学院内で強い魔術を使うと、すぐに他の生徒や先生に気付かれるから、あの二人のときは苦労したけど、君の魔術はよく事故を起こすんだろう? だったら、死ぬ前に珍しい魔術でも披露してあげようか。その後は、君の魔術が事故を起こしたと証言するから大丈夫だよ」
彼ははりついた笑顔のまま右手を伸ばすと、なだめるようにティルアの頭を撫でた。
「触わらないで!」
「おっと」
ぞっとする彼の手を振り払おうとすると、振り上げた腕を取られてしまった。力の違いを思い知らせるように、彼の大きな手に掴まれた手首がぎりぎりと締め付けられる。
「くっ……。放して! 放してったら!」
「おやおや、君はずいぶんじゃじゃ馬なんだね。クリスタはおとなしくて従順だったのに。ふふ……彼女は僕の言うことなら、何でもきいてくれたんだ。ここを卒業して魔法統括省に入り、僕と結婚するつもりでいたんだからね。ちょっと甘い言葉を囁いただけで本気になったりして、馬鹿な娘だよね。僕があんな子どもを相手にするはずないのに」
その言葉に、頭にかっと血が上った。
クリスタが急に綺麗になったのは、この男のためだったのか。彼女はこんな男に恋心を利用され、挙げ句の果てに命を奪われたのだ。
「あんたなんて、人間じゃない。地獄に堕ちればいい!」
振り上げたもう一方の手も、彼に届く前に捕らえられる。
「でも、残念ながらそれは、君よりずっと後の話だよ」
目の前の整った薄い唇が、にいと歪んだ。
「いやぁぁ! やめて! あたしがフリーデルのはずないじゃない!」
「それは、君を殺してみればはっきりするよ」
『リーム! 貴様っ、ティルアを放せ!』
突然割って入ってきた少年の声。
リームの肩口から道の奥に視線を向けると、こちらに向かってくる黒い影が見えた。
「ユーリ! 助けて!」
ティルアの視線を追ってリームもはっと振り返る。しかし、彼の目には少年の姿は映らない。
「ユーリというのは、行方不明になっているユーリウス・オスヴァルトのことかい?」
「そうよ」
「彼が助けになんか来るものか。だけど僕の名誉のために言っておくけど、僕は彼の件には関わっていないよ。それに、彼はまだ名簿に名前が残っているから、少なくとも死んではいない」
リームが無駄口を叩いている間に、ユーリウスが二人の元にたどり着いた。