(2)
『奴に、いつ会ったんだよ』
「ユーリがクリスタの部屋を飛び出していった直後よ。入れ替わりのように来たんだけど、ユーリは先生の姿を見なかったの?」
『ああ。部屋を出た後、すぐ向かいの部屋に飛び込んだから。でも、そういえば、人影を見た気がする。くそっ、なんて真の悪い! それで、何の用だったんだ。奴に何かされなかったか!』
「何か……って、クリスタのノートを持って来てくれただけよ。何をそんなに気にしてるのよ」
『イグナーツ・リームは、フリーデルとクリスタの、両方の事件に関わっているだろ?』
「それはそうだけど……」
リームは、ティルアが時計塔の下に倒れていたフリーデルを発見したとき、最初に駆けつけた教師の一人だった。そして、クリスタが眠るように息を引き取ったのは、彼の授業中だ。
しかし、彼はフリーデルとクリスタの死を悼み、自分が助けられなかったことを悔やんでいた。老齢のザビーネ先生を、優しく気遣う様子も見せていた。
今日だって、クリスタの死後にも関わらず、提出した宿題を丁寧に評価しわざわざ届けてくれたし、「辛かったね」と慰めてくれたのだ。
だから、ユーリウスがリームを吐き捨てるように『奴』呼ばわりしていることが、不思議で仕方がなかった。何をこんなにも気にしているのかも、さっぱり分からない。
ユーリウスはティルアの戸惑いをよそに、低い声で話を続ける。
『それに奴は、魔法統括省の現役官僚だから、フリーデル・クラッセンのことも何か知っているかもしれない。だから、奴を調べようと思って部屋に行ったんだ。だけど、どうしても入れないんだ』
「入れないって、どういうこと? ユーリは、どこにでも入れるんじゃないの?」
別世界にいる彼は壁や床を通り抜けられるから、鍵が掛かった部屋でも簡単に入り込める。しかも、ティルア以外には姿を見られることがないから、今のように男子禁制の女子寮にも堂々と入ってくるし、学院長室に忍び込んだこともある。そんな彼が入れないとはどういうことだろう。
『結界が張ってあるんだ』
「それって、この学校を取り囲んでいる石塀に張られているやつでしょ? でも、ユーリは、あの塀を通り抜けられたんじゃなかったっけ?」
学院の敷地を取り囲む塀に掛けられた魔術は、かなり強固なものだと聞いている。それでも彼は、あの塀をなんなくすり抜けるのだ。
『塀の結界はこっちの世界には全く影響しないから、いくらでも通り抜けられる。だけど、あの先生の術は違う。こっちまで干渉してるんだ』
「干渉って?」
『部屋の壁の向こう側に見えない強固な壁があって、部屋全体が四角い鉄の箱のようになっているんだ。窓にも天井にも、どこにも隙間がない。フリーデルが死んだ時にも、忍び込もうとしたけどダメだったんだ。そのときは、さすが現役の魔法統括省の官僚は違うって、感心していたんだけど……』
「そっち側にも影響する魔術なら、ユーリの魔術で解いたりできないの?」
『今日だって何度もやってみたさ。だけど、どんな術も全く寄せ付けないんだ。中を覗き見ることもできない。あいつ、信じられない力を持った魔術師だぜ』
学院長ですら、自室の扉や窓に魔術で簡易的な鍵をかけるだけだ。学院の臨時講師が、別世界にまで届くほどの強力な魔術で、厳重に部屋を守る必要があるだろうか。
ただの癖でそうしているか、あるいは極端な心配性なだけかもしれない。
けれども、普通に考えると。
「先生の部屋に、秘密が隠されているってこと?」
『俺はそう思う。だけど、どうしても入れない』
侵入者を拒む強力な術をかけてあるのなら、重要な証拠を消去せずに、部屋に置いたままにしている可能性も高い。そう考えると、物に触れられないユーリウスより、自分がリームの部屋に入る方が、得るものがありそうだ。
だったら、なんとしても中に入りたい。
「ねぇ、あたしだったら、入れるんじゃない?」
『はぁ? どうやって』
「クリスタのことで聞きたいことがあるって、先生の部屋に普通に押し掛ければいいのよ。施術者が許可すれば、結界の中に入れるはずでしょ」
その言葉にユーリウスが血相を変えた。
『だめだ! 絶対だめだ!』
「だって、ユーリが入れないんじゃ、それしか方法がないじゃない。じっと待ってるだけなのは嫌なのよ。あたしだって、何かしたい!」
『だめだ! 危険すぎる。リームはフリーデルとクリスタを殺したかもしれないんだ!』
「——え?」
あまりにも衝撃的な言葉に息を飲む。
「まさか、リーム先生が関わっているって、そういう意味……なの?」
ユーリウスは最初から、フリーデルの死を他殺ではないかと疑っていたが、まさかリームを犯人だと疑っていたとは。しかも、原因不明の病で亡くなったとされているクリスタまで殺したというのか。
だけど。
「どうして、リーム先生があの二人を殺さなきゃならないの?」
ティルアにはその動機が全く分からなかった。
本当にフリーデルとクリスタが彼に殺されたのなら、二人には何かしらの共通点がありそうだが、思い当たるものもない。だいたい、ついさっきまで良い先生だと思っていたから、彼が人を殺したなどと言われても信じられない。
『理由は……今は言えない。何の証拠もないし、まだ俺の推測に過ぎないから』
「証拠だったら、あたしが!」
『だめだって言ってるだろう! もしかするとあんたは……』
言いかけて言葉を濁したユーリウスに、食って掛かる。
「もしかするとって、なによ! どうせ失敗するって思っているんでしょ!」
『い、いや、そういう意味じゃ……。それより、奴に自分が疑われていることを悟られたらまずい。二人を殺した男が、三人目を躊躇うと思うかよ。あの密室の中でなら、誰にも知られずに、邪魔者を始末することだってできるんだ』
三人目——それは、あたし?
背中がぞくりと寒くなり、ティルアは毛布を首もとに引き寄せた。
「…………あたしに、強い魔力があったら」
十歳の頃、百年に一人の逸材かもしれないと言われた身だ。今もその実力あれば、今の行き詰まった状況をきっと何とかできるのに。
実際には、リームに対抗するどころか、自分の身を守る術すらないのだ。
いじいじと膝に顔を伏せると、追い打ちをかけるように、現実を思い知らされる声がした。
『何かをしたいんなら、まず俺を元に戻せ。そうしたら、フリーデルのことを聞きたいと言って、あんたの代わりに奴の部屋に乗り込んでやる』
「そんなの……無理」
そう。今のあたしは、ユーリを元に戻すどころか、紙くずを消去する簡単な呪文すら使えない。そんな自分が、何かをできるはずがない。
『とにかく、あんたは絶対リームに近づくな。俺に任せろ。いいな?』
返事をするのも悔しくて顔を伏せたまま黙っていると、彼の気配が急に近くなった。
『じゃあ、もう寝な。明日から授業に出るんだろ? 遅刻しないように、朝になったら起こしに来てやる』
——え?
膝から顔を上げると、彼が立ち上がったところだった。彼はそのまま音も立てずに歩いていくと、すっと扉の向こう側に消えていく。
まさか……ね?
いくら姿が見えても、言葉を交わせても、彼とはお互い触れることはできない。
けれども一瞬、抱きしめられたような気がした。