暗闇の向こうから呼ぶ声(1)
なに?
かすかに聞こえた声に耳を疑う。
『ティルア、ティルア、助けて!』
今度ははっきりと聞こえた。
もう一度、聞きたいと思っていたあの声。
「クリスタなの? どうしたの! どこにいるの」
『お願い、助けて。早く来て!』
「今すぐ行くわ! どこにいるの!」
どういう訳か、あたりは真っ暗で何も見えない。自分の指先すら確認できない闇の中で、伸ばした両手を彷徨わせ、周囲を探る。
『ここよ。早く、早く私を助けて! ここに来て!』
「待ってて! 今すぐ行くから」
必死で助けを求める声に向かって、おぼつかない足取りで前に出る。
しかしすぐに、伸ばした右手が、ひやりとした固いものにぶつかった。手で握れる太さの、表面が滑らかな丸い棒だ。棒を握ったまま手を滑らせてみると、こつりと別の棒にぶつかる。周囲を探ってみると、くねくねと複雑に絡み合う金属製の棒が、鳥かごのようにぐるりと自分の周囲を取り囲んでいた。
「なんなの? これ!」
どこかに出られる場所はないかと、手探りで探してみたが、身体が通り抜けられそうな穴はどこにも見つからなかった。両手で掴んで思い切り揺さぶってみても、びくともしない。
そうしている間にも、どこからともなく自分を呼ぶ悲壮な声が聞こえてくる。
『ティルア、早く来て!』
早く行かないと、クリスタが死んでしまう——。
唐突に、そんな脅迫観念に取り憑かれた。
怖い。怖い怖い。
あの子を失くしてしまうことが怖い。
「いやぁぁぁ! お願い! あたしは行かなきゃならないの! だから、ここから出して! 出してったら! 誰かっ!」
行く手を阻む障害を揺さぶりながら、半狂乱で鳥かごの内側をぐるぐると回る。
もう何周したのかも分からない。疲労と絶望で思わず座り込んでしまったとき。
『おい! ティルア。しっかりしろ!』
突然、すぐ近くで聞こえた少年の声が、クリスタの悲鳴をかき消した。同時に、自分を捕らえていた入り組んだ鉄格子が、ふっと消え失せる。
『どうした。大丈夫か』
「あたし、行かなきゃ!」
がばりと身を起こし足を踏み出すと、足元に何もなかった。
『危ないっ!』
「ひゃああっ!」
ユーリウスがとっさに手を差し伸べたが、なんの役にも立たない。
ティルアは彼の手も頭も胴体をもすり抜けて、ベッドから落下した。
「……ったたた…………あれ?」
そこは、自分を拘束していた闇の中ではなかった。ようやく取り戻した視界に映ったのは、濃紺に染まった狭い空間にある見慣れた机と椅子、クローゼット。そして、心配そうに顔を覗き込むユーリウス。
『悪い夢でも見たのか?』
「そう……なの? 夢だったの?」
『この状況じゃ、そうだろ? 俺がここに来た時、あんた、すごくうなされていたんだよ。だから、起こしたんだけど』
「そっか……ありがと。夢だったんだ……」
彼のおかげで悪夢から解放されたのか。
ティルアは大きく息を吐き出すと、自分と一緒にベッドから落ちた毛布を身体に巻き付けた。首にかけていたお守りのネックレスを両手で握りしめ、首をすくめ身を縮め、自分を呼ぶ声の残響を追い払う。
『クリスタの夢だったのか? 名前を呼んでた』
彼の声が近くなった。おそらく隣に腰を下ろしたのだろう。
「うん。暗闇の中で、クリスタが助けてって叫んでいたの。あたしは、早く行かなきゃって思うんだけど、絡まり合った金属の棒のようなものに周囲を取り囲まれていて、そこから出られなくて……必死で……」
『昼間、遺品を片付けていたから、そんな夢を見たんだろう』
「……そうかもしれない」
『だから、まだ無理だって言ったんだ。なのに、あんたが強情をはるから……』
文句を言われているはずだが、呆れ口調の彼の声は不思議と穏やかで、悪夢の恐怖で強ばっていた身体と心をほぐしていく。
『ばかだな』
そんな言葉すら優しくて、嬉しい。
「ねぇ、ユーリ」
少し落ちついたティルアが膝に伏せていた顔を上げると、薄暗い中に見えたのは、彼の掌だった。
「え?」
『うわっ!』
彼の驚いた声と共にびくりと震えた後、すぐに視界から消えた手を目で追うと、彼は逃げるようにティルアと距離を取り、くるりと背中を向けた。
『き、急に顔を上げるなよ! びっくりするじゃないかっ!』
「あ……ごめん。でも、何をしていたの? 今、目の前にユーリの手が……」
『べ、べつに。何もしてない』
焦ったように否定するこちらを向いたままの背中は、悪戯が見つかってしまった子どものように小さくなっている。彼がこんな態度を取る理由が、さっぱり分からない。
「でも……」
『なんだよ!』
これ以上、問い詰めない方が良いだろうか?
いらついた声に、何かしらとばっちりを喰らいそうな気がして、話題を変える。
「ええと……。こんな時間にどうしたの? 何か分かったことでもあった?」
彼は昼間、クリスタの部屋から立ち去った後、夕食時に食堂への送り迎えをしてくれた以外は、ずっと何かを調べに行っていたのだ。
『いや……何も』
むすっとした声だ。
思うような成果が得られなかったから、こんな妙な態度だったのかと、一人納得する。本当に面倒くさい性格だ。
『今までずっと、イグナーツ・リームを探っていたんだ』
彼の口から予想外の名前が出てきた。
「どうしてリーム先生を? リーム先生はいい人よ。今日だって……」
『えっ? 今日、リーム先生に会ったのか! いつ、どこで? 大丈夫だったか? 何もされなかったか?』
驚いた顔をしていきなり膝立ちになったユーリウスが、質問責めにしながらティルアの肩に両手を伸ばした。
「ま、待って! だめよっ! 来ないで!」
迫ってくる彼を押しとどめようと、つっぱるように伸ばした両手は、なんの抵抗もなく彼の胸に突き刺さる。ティルアはその次に起こることを覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。
『う……わぁぁぁっ!』
彼の声が、自分の前から背後へと移動していく。最後の『くそっ』という罵りの言葉は、ベッド下の随分低い場所から聞こえてきた。
おそらく彼の両足が自分の身体から生えたように見えるだろうから、ティルアは目をつぶったまま文句を言う。
「何度同じことをやったら分かるの! もぉ、いいかげんにして」
『あんたが、リームに会ったなんて言うからだろ!』
相変わらずの言い草が背後から左側に移動したのを確認してから、ようやく目を開けた。彼はいつも以上に不機嫌な顔をして、隣で膝を抱えていた。