(2)
どれくらいたったのか、向こうから足音が近づいてきた。
それに最初に気付いたユーリウスが顔を上げると、ちょうど廊下の角を曲がった男の顔が目に入った。銀色の髪の片眼鏡の若い臨時講師、イグナーツ・リームだ。
リームは廊下にうずくまる二つの人影を認めると、慌てて駆け寄ってきた。
「ザビーネ先生! 大丈夫ですか」
「おお、イグナーツ」
彼は高齢の教師を、大事そうに助け起こした。
魔術学院の卒業生である彼も、ザビーネにとっては孫同然。しかも、魔術統括省から出向してきている超優秀な孫だ。そんな彼に気遣ってもらえたことで、悲しみに暮れていたザビーネの表情が少し緩んだ。
「ずいぶん遅いので、探しに来たのです。おや、君は……?」
続いて、ザビーネと一緒にいた生徒を助け起こそうとした彼は、差し出した手を止めた。ティルアが顔を上げると、美しく整えられた眉を寄せる。
「フリーデルの時の……」
彼の顔は、あの痛ましい事件をどうしても思い起こさせる。倒れていたフリーデルを発見した時、最初に駆けつけたのが彼だったのだ。
息苦しくなったティルアは、リームから視線をそらせた。
「ああ、リーム先生はティルアをご存知でしたね。彼女は、クリスタとは身内同然だったのですよ」
「そうか……。かわいそうに。君はまた、こんな辛い思いをすることになってしまったんだね。どうだい、立てそうかい?」
「……はい」
リームが屈み込んで顔を覗き込む。そして、ティルアの手を取るとゆっくりと立たせてくれた。その後、ザビーネを支えて歩き出したが、ティルアの様子を気にしてか、視線をよこしてくる。
「悪いね。ザビーネ先生に手を貸してあげなきゃならないから。一人で歩けないようなら、僕の腕につかまってくれていいからね」
「大丈夫です。一人で歩けますから、ザビーネ先生をお願いします」
「そうか。でも、辛かったら言うんだよ」
フリーデルが亡くなったときのてきぱきとした対応や、整いすぎた容姿が冷たそうに感じて、彼にはいい印象がなかったが、想像と違って優しく穏やかな人らしい。
先を行く教師たちは、管理棟にある医務室に向かっているようだ。
彼らにおいていかれないように、一歩を踏み出すと、足元がぐらりと揺れた。
言葉だけでは信じきれないクリスタの死を、この目で確認することになるのだと思うと、現実へと向かう一歩一歩が、怖くて仕方がなかった。
「くっ……」
立ち止まってしまわないように、涙が落ちないように、歯を食いしばる。
『あんまり、無理するな』
耳元で聞こえた声に顔を向けると、ユーリウスがすぐ左側に寄り添うように立っていた。
肩口から気遣うような瞳を向けてくる彼は、触れることができない腕で背中を支えてくれているらしい。その証拠に、ちらりと右肩を見ると、自分の二の腕から彼の指が見え隠れしていた。
「ありがとう」
ユーリウスが支えてくれている。
何の感触もなくても、そう思うだけで心強かった。
「あの……。クリスタは、どうして死んでしまったんですか?」
ティルアは腹に力を込めて話を切り出した。何も知らないまま、彼女に会うことはできない。心の準備が必要だ。
前を歩くリームがちらりと振り返った後、低い声で話し始めた。
「彼女は……クリスタは、僕の授業中に倒れたんだよ。いや……倒れたと言っていいのか、分からない。すぐ直前まで手を挙げて発言していたのに、気がつくと、机の上につっぷしていたんだ。真面目な彼女が居眠りなんて、珍しいと思っていたんだが……」
授業が終わっても動かないクリスタを不思議に思った同級生が、彼女を起こそうとして異常に気付いた。リームはその場で魔術での蘇生を試みたが、すでに息を引き取っていた彼女をどうすることもできなかったのだという。
「あまりにも静かに亡くなったから、誰一人そのことに気付かなかったんだ。少しでも声を上げてくれれば、気付いてあげられたのに。助けてあげることもできたかもしれないのに。僕は……そばにいたのに、何も……何も、できなかった」
老教師を支えながら歩いていた彼の肩が、無念そうに落ちた。
彼はフリーデルが亡くなったときも、その死を確認したのだ。二度目だったからこそ、クリスタを助けられなかったことに、より無力感を覚えているのかもしれない。
『俺はたまたま、教室の前を通りかかったんだ。一体何を騒いでいるんだと思ってのぞいてみたら、リーム先生が懸命に蘇生術を施していたところだった。でも……もう、手遅れだった……』
ユーリウスの声も震えていた。
「原因は……?」
「校医にも診てもらったんだが、まだ、分からない。彼女には、何か持病があったのかい? 急に発作を起こしたとしか思えないんだが」
「持病なんて……。小さい頃は熱を出すことも多かったけど、この学院に入学してからはそんなこともなかったんです」
高熱にうなされ、苦しさと心細さにティルアの手をぎゅっと握っていた、クリスタのあどけない顔を思い出す。彼女には自分がついていてあげなくちゃいう強い想いは、きっと、そんなところから来ているのだろう。
なのに昨日、急に自分の元から離れていく寂しさを味わわされたかと思ったら、今日は完全に手の届かない遠くに行ってしまった。
看病すら、させてもらえないまま。
「あぁ、クリスタ。どうして……」
『ティルア、しっかり』
絶望に立ち止まると、耳元で囁く声がする。男子の紺色の制服を纏った二本の腕が、首の前に回り込んでくる。
『俺が、ついているから』
ああ、抱きしめてくれるんだ。
相変わらず何の感触もないが、視覚と聴覚がティルアを慰める。
頬を伝った涙が、彼の腕を通り抜けて足元にぱたりと落ちた。
『大丈夫か? ゆっくりでいいからな』
ユーリウスに励まされ、何度も足を止めながら、ティルアたちは校舎を出て魔法円が描かれた中庭を通り、医務室のある管理棟へと向かった。
医務室に入ると、校医がいちばん奥のベッドに案内してくれた。
美しく巻かれた赤毛をシーツに広げ、軽く目を閉じてベッドに横たわる少女は、幸せな夢にまどろんでいるような微笑みを口元に浮かべていた。血の気が引いた透き通るような青白い顔をしているが、眠っているようにしか見えない。
『綺麗すぎる』
ユーリウスが思わず言葉を漏らした。
「クリスタ! クリスタっ!」
足をもつれさせながらベッドに駆け寄ったティルアは、彼女の両肩に手を掛けた。
「起きて、クリスタ! 起きて、起きてよ!」
しかし、どんなに叫んでも、肩を揺すっても、ふわりと閉じられた瞼が動くことはなかった。淡い笑みを浮かべたまま時間を止めた唇は紫色に染まり、吐息を漏らすこともない。掌に伝わってくる低すぎる体温が辛い。
「嫌よ! クリスタ。死んじゃ嫌! 起きてよぉ……いやあぁぁぁ」
ティルアはベッド脇の床に崩れ落ちた。
『ティルア。ティルア』
どれくらい泣いたのか分からない。その間ずっと、慰めるように自分の名を呼ぶ声が、耳元で聞こえていた。
クリスタ・キーリッツは、何らかの原因で発作を起こした突然死であると、生徒たちに伝えられた。その直前まで、全く普通に生活していたことを多くの生徒たちが知っていたし、その瞬間にはクラスメイトが同じ教室で授業を受けていたのだ。彼女のあまりにも突然で静かな死は、原因不明の病と考える他なかった。
彼女の葬儀のために、ティルアは六年ぶりにキーリッツ孤児院の門をくぐった。長い月日の間に、院の子どもたちの顔ぶれは大部分が入れ替わっており、院長の髪には白いものが目立つようになっていた。
それでも、幼い頃を過ごした場所は、温かくティルアを迎え入れ、妹分を亡くした深い悲しみを和らげてくれた。そして、孤児院に滞在した五日間、ユーリウスはずっとティルアのそばにつきそっていた。