さらなる悲劇(1)
翌朝。大勢の女の子たちの楽しそうな話し声と、軽やかな足音で目が覚めた。カーテンが開けっ放しになっているからか、いやに明るい。
今日はいいお天気なのね——などと、ぼんやりと思いながら、身体を丸めて毛布に包まったところに、時計塔の鐘の音が聞こえてきた。
「わ……っ!」
ティルアは慌てて飛び起きた。
二回づつ強く打ち鳴らす今の鐘のリズムは、起床の鐘ではなかった。朝食を知らせる鐘の音だ。
良いお天気だと思ったのも、いつもより遅い時間だから太陽が高くなっていたせいだった。昨晩、あのまま眠ってしまったのだが、疲れすぎていたせいか、最初の鐘が全く聞こえなかったらしい。
「もぉ、ユーリったら、どうしてこんな朝に限って来ないのよ!」
慌ててワンピースを脱ぎ捨てて、制服に着替える。真っすぐな黒髪は、さっと櫛を通すだけでまとまるから、こういうときには便利だ。
もうすっかり人気のなくなった寮の廊下を走り抜け、食堂に向かった。
座席はほとんど埋まっており、生徒たちはすでに半分ほど食事を進めていた。休日明けということもあって、普段より騒がしい。
「今朝はゆっくりだねぇ」
「ちょっと、寝坊しちゃって……」
食堂のおばちゃんから、パンやスープなどが乗ったトレーを受け取ると、空いた席を探した。昨日から、クリスタへのもやもやが溜まっていたから、彼女の隣に座りたかったが、こんなに出遅れてしまっては無理かもしれない。
「あ……」
きょろきょろと食堂内を見回すと、女の子たちの声がひときわ響く一角に、クリスタの姿があった。
彼女は昨日のように、華やかなウエーブがついた髪を下ろし、別人のような顔で朝食をとっている。その変身ぶりに、同じテーブルについた女の子たちから、はしゃいだ詮索が入るのだろう。大人びた容姿とは少々ちぐはぐな印象のはにかんだ笑顔で、何か話している。その会話の内容が気になるが、この騒がしさの中では全く聞こえてこない。
周囲の男子生徒たちが、彼女にちらちらと視線を送っている。
あの子はこれまで、そんな視線とは無縁だったのに……。
複雑な思いで立ち尽くしていると、三つほど離れたテーブルから、声が掛けられた。
「ティルア。こっち、こっち!」
「おはよう、イレーネ。みんな」
笑顔を作って、自分を慕ってくれる十歳の同級生たちの間に座った。みんな、まだまだ幼くて可愛らしく、彼らの中にいると、ついつい世話を焼きたくなってくる。
「また、豆をこぼしてるわよ。ハンス」
好き嫌いが激しい彼は、いつも、豆をわざとテーブルにこぼしている。
「落ちたんだから、もう食べられないね。デイレ」
ティルアに指摘されると、以前はしぶしぶ豆を拾っていた彼だったが、今朝はあっさりと消去してしまった。
毎年、繰り返し見せつけられる光景だから、すっかり慣れっこになっていたはずなのに、今は、ひりひりとした焦りを感じる。
「デイレ」
誰にも気付かれないように、小声でスープに浮かぶパン屑に呪文を掛けてみた。
しかし、液体を吸ったパンが僅かに沈んだだけだった。
三時間目は、初級魔術薬学の授業だ。
前回までの授業は、薬草を煎じたり、混ぜ合わせたりする物理的な作業だったから、同じ授業を七回受けているティルアは優等生だった。しかし、今日から、呪文を使って薬を混合する段階に入った。ティルアは毎年、ここから盛大に落ちこぼれていく。
「わぁ。わたしのは赤くなった」
「うえーっ、なんだよこれ。臭いっ!」
初日だからほとんど成功しないが、年下の同級生たちは、呪文が起こした反応にきゃっきゃと騒いでいる。しかしティルアは、一人だけ何の変化も見せないガラス瓶の中身を見つめて、ため息をつくしかなかった。
毎年のことだから、担当の教師もティルアのことは放置している。
ああ、ユーリがいなくて良かった。彼がいたら、嫌味を言われるに決まってるんだから……。
そう思いながらも、後ろから口を挟んでくる邪魔者がいないせいで、平和すぎて退屈だった。
あくびをかみ殺しながら窓の外を眺めていると、焦ったように廊下を走る足音が聞こえてきた。
教室のドアが勢いよく開かれる。
そこに真っ青な顔をした、一年生の担任のザビーネが立っていた。
「ティルア! ティルア・キーリッツ、いますか? 今すぐ来てください」
「はい? なんですか? ザビーネ先生」
「いいから、早く来るのよ!」
ふくよかな見た目で、のんびりとした雰囲気の優しいおばあちゃん先生が、ただならぬ様子だ。一瞬、「あたし、何かやらかしたっけ?」と思ったが、どうも違う。
嫌な予感がした。
ティルアは慌てて席を立つと、他の生徒たちの好奇の視線の間を抜けて、教室の外に出た。
廊下にはザビーネだけでなく、硬い表情をしたユーリウスの姿もあった。
「一体、何があったの?」
せかすように廊下を歩き始めたザビーネを横目に、ユーリウスに小声で訊ねると、彼は辛そうに俯き、小さく首を横に振るだけだった。
良くないことが起きたことは間違いない。
ざわざわする胸を押さえて、今度は足早に先を行くザビーネに声を掛けた。
「先生、何があったんですか?」
立ち止まって肩を落としたザビーネに駆け寄ると、彼女はゆっくりと振り返り、ティルアの両肩に手を置いた。
「いいですか? 落ちついて聞いてください。……クリスタ・キーリッツが、つい先程、亡くなりました」
「……え?」
ザビーネの声はちゃんと聞こえたはずだが、何を言っているのか理解できなかった。
「あなたと仲が良かったクリスタが、死んでしまったのよ」
目を見開いたまま凍り付いたティルアに、ザビーネが言葉を変えてゆっくりと言い直した。その言葉の衝撃が、ティルアを頭の上から叩き潰す。
「う……そ」
『ティルアっ!』
ユーリウスがとっさに手を伸ばしたが、その腕は崩れ落ちる身体を捕らえられなかった。
ティルアは冷たい石の床に、がくりと膝をついた。
「嘘よ……そんなの嘘だわ」
代わりにティルアを抱きしめたのは、ふわふわと柔らかで温かな腕だった。
「おお……ティルア」
「だって昨日、クリスタとたくさん話をしたのよ。今朝だって、食堂で見かけたわ。とっても元気だったのよ。死んだなんて……そんな、はず……ない」
「わたくしも、今朝、廊下で会ったのよ。ずいぶん、綺麗になったから、好きな男の子ができたのだろうと思って、微笑ましく眺めていたの。なのに、どうしてこんな……」
抱きしめてくれるザビーネの身体も震え、声が詰まる。長年、一年生の担任を務めてきた彼女にとっては、生徒全員が孫のような存在なのだ。
「嫌よ。どうして……クリスタが……」
「かわいそうに……ティルア」
ユーリウスは、廊下の真ん中で抱き合って涙に暮れる二人を、ただ見下ろすことしかできなかった。