(2)
夕食後も、ユーリウスはいつの間にか、寮に戻ろうとするティルアの前を歩いていた。
時計塔を避けて他の生徒たちより遠回りする上、どういう訳か彼が普段よりゆっくり歩くから、いつしか周囲には誰もいなくなってしまった。
薄い雲に霞んだ月が、辺りの木々や草や、前を歩く彼の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。怒りに任せて部屋を出たから上着を着ていなかったが、ふわりとまとわりつく春の夜風は優しく、寒さは感じなかった。
けれども、二人きりで黙ったまま歩く夜道は、とてつもなく気まずい。
ティルアの怒りはとっくに消えていたから、この状況をなんとかしたかった。
明るい場所で面と向かってでは、きっとうまく話せないだろう。寮に着く前に切り出したい。お守りのペンダントをぎゅっと握りしめてきっかけを探すが、二人とも黙ったままではどうにもならなかった。土を踏む二人の足音が、残り時間を刻んでいた。
もうすぐ寮の裏口。もう、今しかない。
「あ、ありがとう、ユーリ。あの……送ってくれて」
思い切って口を開くと、彼は足を止めてちらりと振り返った。しかし、すぐさま顔を背けると、右手で前髪をぐしゃりと握る。
『ああっ……くそっ』
かすかに聞こえた声は、そんな風に聞こえた。薄暗くて表情がよく見えないが、彼はまだ、怒っているのかもしれない。
それはそうだ。あんなことをしたのだから。
だから、謝らなきゃ。
「枕をぶつけたことは謝るわ」
『…………別に。あんなの、痛くも痒くもなかった』
ずいぶん間を置いてから、ぶっきらぼうな答えが返ってきたが、そこに刺々しさは感じられない。だから、思い切ってもう少し。
「あと、ばかって言ったことも」
『……んなこと、どうでもいい』
ぼそりと低く呟く声。前髪を握って俯いたまま、こっちを見ようともしない。
せっかく人が謝っているのに、この態度はなんだろう。
「でも、それ以外のことでは、謝らないわよ。あたしは何も悪くないもの」
ふて腐れたような彼の様子に腹が立ち、下から顔を覗き込んで言い放つと、ようやく目が合った。
彼は、今度はその視線を外さなかった。
『それは……分かってる』
「え?」
反論されると思って身構えていたから、思いがけない言葉に拍子抜けした。
『分かってんだよ! あれは、ただの八つ当たりなんだ。クリスタが見つけた本を読めなかったことが、悔しかっただけなんだ。彼女が俺の知らないことを得意げに説明していたことに、むかついたんだ。だってそうだろ? この俺が、七年生に何かを教えてもらわなきゃならないなんて、あり得ない!』
「ユーリ……」
ティルアは呆気にとられた。
彼の弁明は、あまりにも正直で、あまりにも傲慢だった。
『でも……だからって、あんたに当たるのは間違ってた。ごめん。俺が悪かった』
そこまで一気に言うと、彼は口を結んだ。
悔しいのか恥ずかしいのか、奥歯をきつく噛み締めているらしく、ほっそりと整った顔の輪郭が歪んでいる。薄暗い中でもはっきりと分かる——彼の顔は真っ赤だ。
あのプライドの高いユーリウス・オスヴァルトが、こんな風に謝るなんて……。
不思議な感動を覚えて、彼の顔を見つめていると、彼はばつが悪そうに顔を背けた。
『なんでティルアが先に言うんだよ。俺が、謝ろうと思ってたのに』
拗ねたような言葉に、ティルアはぷっと吹き出した。
なんて、かわいい。
きっと彼もティルアと同じように、謝罪の言葉を切り出すことができず、ひりひりとした焦りを胸に抱えて、ここまで歩いてきたのだろう。
「こんなことにまで、負けず嫌いなの?」
『……うるさい!』
ちょっと意地悪を言ってみると、彼は払いのけるような言葉を吐いて、裏口の向こうにするりと消えた。
彼を追って扉を開けて寮の中に入ると、廊下を足早に遠ざかっていく彼の姿が見えた。
「ふふ……。これ以上の意地悪はやめておこうかな」
ティルアはあえてゆっくりと自室に向かった。
ちょっと、スキップでもしてみたい気分だった。
部屋の扉を開けると『遅い!』と声が飛んできた。狭い部屋の真ん中で、ユーリウスが腕組みをして立っている。彼は怒ったような顔をしていたが、ティルアがじっと見つめると、ぷいと視線をそらせた。
仲直りはしたものの、その直後というのは、なんとなく気恥ずかしい。きっと彼もそうなのだろう。
ティルアはそそくさと彼の前を横切ると、壁際に落ちていた枕を拾って、ベッドに腰掛けた。手持ち無沙汰に枕を抱きしめてみたものの、沈黙に耐えきれなくなって口を開く。
「ね、ねぇ……」
その一言で、彼の肩からふっと力が抜けた。
「フリードリヒ・クラッセンの子どもは、死んだことになってるはずよね?」
「そうだな。女性と赤ん坊の同時消去が、消去呪文の最大記録とされているからな」
「だったらどうして、ユーリが拾った紙に名前があるのかしら。彼が生きていることを、知っている人がいるってこと?」
その言葉に、彼はポケットを探る。そして、ティルアには見えない紙を開くと、書かれている文字に目を走らせた。
紙のいちばん上にはフリーデル・クラッセン。二番目はユーリウス。以下、この学院きっての成績優秀者の名前が続いている。
『いや、そうじゃない。彼が生きていることは、おそらく誰も知らない』
「どういうこと? だって、名前が……」
『やっぱりこれは、魔術統括省の名簿の写しなんだ。それなら、書かれているのは半年後の事実だから、現在、消息が分からない人間の名前があってもおかしくない』
「あぁ……そっか。ユーリは今、行方不明ってことになっているけど、名簿には名前が残っているらしいもんね」
自分の名前が出て、ユーリウスはむっと眉をひそめた。
いつものように『あんたのせいだ』と言い出すかと、ティルアは枕を抱きしめて身構えたが、彼は冷ややかな視線をちらりと向けただけだった。
『だけど、魔術統括省に入れるのはこの学院の新卒者に限られるのに、フリーデル・クラッセンだと思われる生徒はいない。この秋に卒業できる生徒で、かつ、この俺より優秀じゃなきゃならないんだぜ? そんな奴、どこにいるっていうんだ』
しかも、既に名前が書かれている生徒を除いて考えなければならないのだ。どう考えても、そんな生徒は存在しない。
しいていえば……。
「やっぱり、フリーデル・プラネルトがそうだったのかなぁ」
少なくとも彼は、自分が名簿に載るかもしれないと心配し、両親も魔術統括省入りを期待するほどの成績を納めていた。特に魔術薬の分野においては、ユーリウスもその実力を認めているほどだった。
『単純に成績だけでは決まらないから、あいつの名前が俺の上に書かれていても、それなりに納得…………できるかもしれない。名前も同じフリーデルだしな』
「きっとそうよ。彼しか思いつかないもの」
『だったらあいつは、生きていたとしても魔術薬学者にはなれなかったのか……』
ユーリウスが無念そうに唇を噛んだ。
「でも、魔術統括省に入っても薬草の研究はできるんじゃない? きっと、そういうことだったのよ」
二人の間では、フリーデル・プラネルトがフリーデル・クラッセンであるという結論に落ち着きつつあった。
「だけど、フリーデルは自分の生い立ちのことを知っていたのかしら」
図書館で聞こえた、夫婦の会話を思い返す。息苦しいほどに苦悩に満ちた、そして胸が痛くなるほど子どもへの愛情に溢れた声だった。
彼はそのとき赤ん坊だったから、そのやり取りは知らないはずだ。
彼にも、彼の死を嘆き悲しむ両親がいた。もし、彼がフリーデル・クラッセンであるとすれば、その両親は血の繋がった親ではなかったことになる。
彼が自分の出生の秘密を知らずに育ったのならいいが、もし、本当の父親が犯罪者なのだと告げられていたとしたら、そうではないと教えてあげたかった。子どもを手放したことは苦渋の選択だったのだと、いつか迎えに来るつもりだったのだと、教えてあげたかった。
「でも、死んでしまったら、教えてあげられないわね」
無関係の自分が真実を独り占めしているようで、フリーデルに申し訳なかった。
「教えてあげたかった……な」
ティルアは胸元を探り、ワンピースの上からネックレスを握りしめた。体温で温まった石と、その周囲に巻かれた細い金属の感触を布越しに確かめる。このネックレスが、ティルアにとっては両親との繋がりを表す唯一の品だ。
——愛しているわ。
優しい女性の声が耳の奥に甦る。自分に向けられた言葉でもないのに、母親が子どもに向ける愛情は、こんなにも甘く心地よい。
「わたしの両親も、あんな風に思ってくれたの……かな」
自分を孤児院の前に置き去りにした両親にも、やむにやまれぬ事情があったのだろうか。手放したくないと、少しでも思ってくれたのだろうか。愛してくれていたのだろうか。
そうだといい。そうだと……。
昼間、街まで歩いた疲れもあって、ティルアの意識がふうっと遠くなった。
『おい、ティルア。寝るなよ!』
そんな声も、もう聞こえない。ベッドにくたりと崩れ落ち、あっという間に眠りに引きずり込まれていく。
『ああ、もう……。この後、消去呪文の練習をするつもりだったのに』
取り残されてしまったユーリウスは、面白くない。
腕を組み、ぶつぶつと文句をいいながら、無防備に眠り込むティルアを見下ろしていると、目頭に丸く溜まった透明な雫が目に入った。
そっと指を伸ばすと、なぜかドキドキする。
しかし、涙に触れたように見えた指先には、何の感触もない。そのままもう少し指を差し出すと、第二関節まで彼女の鼻の横に埋もれてしまい、びくりと手を引っ込めた。
すぐ目の前にいるのに、触れられないことがもどかしい。
自分が、とてつもなく遠い場所にいることを思い知らされる。
『頼むから……早く俺を元に戻してくれよ』
両手で頭を抱えて呻くと、その耳に、安らかな寝息が聞こえてきた。
春物のワンピースの袖が短くて、彼女の細い手首がむき出しになっている。その白い肌が寒そうだ。
『ったく、世話の焼ける……』
思わず、ベッドの隅に丸まっていた毛布に手を伸ばしたが、それに触れられるはずもない。
『くそっ』
ベッドを蹴り付けても、足はなんの感触もないままベッドを通り抜け、かすかな音すら起きなかった。
ただただ空しくて、腹立たしくて、寂しかった。
ユーリウスはティルアの耳元に唇を寄せた。
『おいっ、ティルア! 起きろっ!』
「ひあっ!」
心地よくまどろんでいたところに、いきなり聞こえてきた雷のような大声に、ティルアは悲鳴を上げて飛び起きた。
普通なら、思いっきり頭突きをくらわしていただろうが、ユーリウスとそうなることは決してない。寝ぼけた目に一瞬映った奇妙な光景が、彼を突き抜けてしまったせいだと気付かないまま、ティルアはきょろきょろと辺りを見回した。
「な、な……に?」
『寝るんだったら、毛布ぐらい着ろ! 風邪ひくだろ!』
彼はそう言い捨てると、くるりと背を向けた。
「う……ん」
いつもと同じ命令口調で怒鳴られたのに、どこか優しく感じたのは、寝ぼけて感覚が麻痺いるせいだろうか。
ティルアは素直に足元の毛布を引き寄せ、それに丸まった。
「ありがと」
その言葉に、扉へと歩いていくユーリウスの足が止まった。けれど、『ああ』と応えただけで、振り返りもせずにするりと扉を抜けていった。