(5)
ノックの音に返事を返す前に、ドアが開かれた。「荷物を置いてくる」と、一度自室に戻ったクリスタが、ひょこりと顔をのぞかせる。
「あ……」
彼女を一目見て、ティルアは小さく息を飲んだ。
今のクリスタは昨日までの彼女と同じ。きっちりとした二本のお下げを胸の前に下ろし、頬に散らばったそばかすもはっきり分かる、昔から知っているおとなしい雰囲気の少女だった。制服から古ぼけた茶色のドレスに着替えたせいで、より地味に見える。
『……すげぇな、女って。まるで別人』
彼女のあまりの変わりように、ユーリウスもぽかんとしていた。
「急がないと、すぐに夕食の時間になっちゃうわよね」
クリスタは、ティルアのとまどいに気付いたのか、一瞬眉をひそめたが、すぐに笑顔を作ると部屋の中に入ってきた。胸には二冊の教科書を抱えている。
「あの……クリスタ?」
「ええとね、ティルアが知りたがっていたフリードリヒ・クラッセンなんだけど、禁書の棚のどの本でも、彼が犯人っていうことになっていたわ」
ティルアが遠慮がちに声をかけてみたが、彼女も何を聞かれるのか分かっているのだろう。すうっと視線をそらせ、強引に話を進めながら、ベッドに腰掛けた。
彼女の無言の拒絶を感じ、寂しさを感じつつも隣に座る。
「事件の経緯は、この教科書に載っているものと同じだったわ。禁書でも、これより少し詳しく書いてあるくらいで、とくに目新しいことはなかったの」
彼女が膝の上で開いたのは、緑色の表紙の『アンスフォルデ王国史 近代編』の後半、先代国王ヴィンツェンツの章だ。クラッセン事件との見出しがある。
「真犯人が別にいるとか、何かの陰謀に巻き込まれたとか、解明されていない謎があるとか、そんなことは書いてなかったの?」
「ないわ。少なくとも、禁書の中にはね。彼が犯人だということが国の公式見解で、処刑もされたんだから、他の説を書いた本を出版することはできないんだと思うわ」
「そっか……」
彼女の言葉を確認するように、部屋の隅に佇むユーリウスにちらりと視線を送ると、彼も頷いた。彼女と同じ本を横から覗いた彼も、同じことを思ったのだろう。
「でもね、レルナー先生は信じていないっておっしゃってたわ。ほら、ここ……」
教科書には、生真面目なクリスタらしく、記述の所々に下線が引かれ、細かな文字でたくさんの書き込みがされている。
彼女が指差した書き込みには、「逃亡中に妻子を殺害し消去した」との文章。その後には大きな疑問符が付けられていた。
「これは、レルナー先生が教えてくれたことよ。教科書には書いてないけど、禁書には同じような記述があったわ。先生は、彼が妻子を殺すはずがないとおっしゃっていたけど、消去したのは事実みたい。消去呪文の最大記録は、教科書ではかぼちゃなんだけど、禁書では女性と赤ん坊の死体の同時消去で、術者はフリードリヒ・クラッセンってしっかり書かれてた」
「女性と赤ん坊……ね」
嫌でも午前中の出来事を思い出す。そして、図書館で聞こえた夫婦の声も。
記録が「女性と赤ん坊の死体」となっているのだから、フリードリヒが妻の抱えていた包みに掛けた身代わり呪文は、見破られていないはず。彼らの息子、フリーデル・クラッセンは、その名も存在もこの世から消されたのだ。
「ティルア? どうしたの黙り込んじゃって」
「え? あ……うん。人間を消去するなんて、すごい人がいるもんだなーって」
適当にごまかしながら、自分でも白々しいと思いつつ視線を泳がせると、案の定『お前が言うな!』とユーリウスにつっこまれた。
もちろん、彼の声はクリスタには聞こえないから、彼女はティルアに相づちを打つ。
「そうよね。わたしなんか、林檎半分でもやっとなのに」
「あたしは、種でも無理だわ。あはは……」
『笑ってる場合かよ!』
重い話題で息苦しくなった空気を和らげようと、自虐的に言ってみただけなのに、今度はこんな台詞が飛んでくる。かなりむっとしたが、言い返すことはできないから、睨み返すだけで我慢する。
すぐ隣でこんな殺伐としたやり取りがされていることなど、全く気付かないクリスタは、話を進めていく。
「あと、分かったのは、どんな魔術薬で国王を毒殺したかっていうことね。これは、『高貴なる魔術の一匙』っていう、一見、関係なさそうな本に書かれていたわ」
『……え?』
ユーリウスの顔色が変わった。
「前国王は、最初は病死だって思われていたんでしょ?」
「そう。側近と話をしている最中に、すうっと意識がなくなって、そのまま眠るように息を引き取ったんだって。特に苦しむ様子もなかったし、毒物も検出されなかったから、最初は病気だと診断されたらしいけど、実際には、呪詛系の魔術薬が使われたらしいわ」
「呪詛系……って?」
『そんな馬鹿な! 呪詛だって?』
ユーリウスの驚いたような大声に、おもわず身体がびくりとなった。
それに気付いたクリスタが怪訝な顔をする。
「どうしたの?」
「え……と、なんでもない。呪詛系って知らない言葉だったから……あの、ちょっと……」
ティルアがしどろもどろに言い訳している間にも、彼は『ありえない!』『どれだけ常識はずれの薬なんだよ』と喚きながら、荒々しい足取りで近づいてくる。そして、腕を組むと、ベッドに腰掛けている二人を見下ろすように目の前に立った。
彼はクリスタと同じ本を横から覗き込んでいたはずなのに、この魔術薬の話を全く知らないようだ。ぐいと顎をしゃくったのは、話の続きを促しているのだろう。
「呪詛系って、どんな魔術薬なの?」
改めてクリスタに問うと、彼女は紺色の表紙の教科書『上級魔術薬』を開いた。
『ああ、もう! そんな説明はいいから』
彼の頭の中には完璧に入っている内容だから、教科書の説明はじれったくてしょうがないのだろう。しかしそんなことを知らないクリスタは、一年生のティルアにも分かるように、丁寧に解説を始めた。
「呪詛系の薬は、弱い毒に呪いを封じ込んだものよ。かなり厄介で危険な毒物だから、一般には知られていないし、学院でも上級生にならないと教えてもらえないの。わたしも六年生になってから、初めて知ったわ」
『早く、先に進め!』
すぐ真上から、いらつく声が降ってきた。教科書を覗き込む目の端に、じれたようにせわしなく上下する靴のつま先が映る。彼に間近から睨み下ろされているのかと思うと、つむじのあたりがひりひりして、どうにも落ちつかない。さっさと終わらせようと、先を急がせる。
「そうなの? それで?」
「その毒を口にすると、時間を追う毎に身体の中で呪いが増殖していって、いつか発狂して死に至るの。薬の量と呪いの強さ、増殖の速さによって発症する時期が変わってくるから、いつ毒が盛られたのかを特定することが難しいし、ごく弱い毒を呪いの拠り所にしているから、毒物も検出されにくいのよ」
『体内で増殖した呪いが一定量を超えたときに発症するんだよ。だから、ほんの僅かでも致死量で、いつ死ぬかが違うだけだ。薬と呪いのさじ加減で一年後に発症する場合もあるし、数分後のときもある』
「発狂すれば呪詛系の毒を盛られたと推測できるから、呪詛に強い魔術師がすぐに対処すれば、助かることもあるみたいだけど」
『進行が速いから、発症したらほとんど助からないんだ』
クリスタの落ちついた口調の説明に、ユーリウスの不機嫌そうな早口の補足がついて、なんだか頭がごちゃごちゃする。それでも、前国王がその薬で毒殺されたとしたら、つじつまが合わないことに気付く。
「でも、さっき、国王は眠るように亡くなったって言ってたじゃない?」
『それが、使われた薬の信じられない点なんだよ!』
「そう。だから、なかなか毒殺だと気付かれなかったのよ。毒物が検出されなかったし、発狂もしなかったから」
「それなのに、よく毒殺だって気付いたわね」
「病死と片付けるには、亡くなり方が美しすぎたのよね。だから、不審に思った魔術統括省が調査に乗り出したの。そして、フリードリヒ・クラッセンがその薬を研究していた証拠を発見した」
『どんな証拠だ!』
「どんな証拠なの?」
偶然、同じ言葉を同時に言ってしまい、二人は思わず顔を見合わせた。なぜか気まずい思いがして、すぐに目をそらせる。
「実験記録なんかだろうけど、詳しくは書いてなかったわ」
『魔術薬の作り方は分かっているのか』
「その魔術薬の作り方は残ってないの? 材料は?」
今度は言葉は違えど、同じ質問だ。
「ううん。フリードリヒが、逃亡する前に証拠を処分したみたいだから、調薬方法は闇の中よ」
「本当に彼が、そんな恐ろしい魔術薬の研究をしていたの? 本当に国王を殺したの?」
「本にはそう書いてあったわ。というか、そう書いてある本しかないのよ」
『だからといって、それが真実とは限らない!』
「だからといって、それが真実とは限らないわ!」
フリードリヒはおそらく……いや、間違いなく無実なのだ。
禁書にどう書かれていようと、ティルアもユーリウスもそれを信じている。だから、思わずかっとなって叫ぶと、クリスタは困った顔をして膝の上に広げていた教科書をぱたりと閉じた。
「どうして、そんなにこだわるの?」
「だって、彼は無実なのよ! 真犯人は他にいるはずなの!」
「そんなにムキにならなくったって……。レルナー先生も、そう信じていらっしゃるみたいだけど、なんの証拠もないわ。それに、フリードリヒ・クラッセンは十五年以上も昔に処刑された人よ。わたしたちには全然関係のないことじゃない?」
「それは、そうだけど……」
クリスタは、前国王を殺害したとされる罪人に、ティルアがこれほど執着していることが、不思議でならないのだろう。
しかしフリードリヒ・クラッセンの問題は、絡み合った奇妙な出来事の一つの要素に過ぎないから、この部分だけを説明するのは難しい。ユーリウスを消去してしまったという、ことの発端から全部話さないことには、理解してもらえないだろう。
だけど、クリスタになら、話してもいいかも?
そうすれば、禁書を調べてもらえるし、ティルアとは接点のない、レルナー先生のような高学年の担当教師とも話を聞きやすい。彼女の協力が得られれば、調査が簡単になるはずだ。
生真面目な彼女の事だから、ユーリウスの秘密を他にばらす事もないだろう。
お伺いをたてるように、ユーリウスをちらりと見る。
『ダメだ! 話したら承知しないからな!』
しかし、視線の意味を察して、あっさりと拒否されてしまった。
どうしてもダメ?
声に出さずに口の動きだけで問いかけると、相手も声を出さずに、怖い顔で首を横に振った。