(4)
「何が……って、これ」
また誤作動が起きると困るから、書いてある呪文を口に出したりはしない。
『身代わり呪文? フリードリヒ・クラッセンが使ったやつだな。これが、どうかしたのか』
「ここに書いてある呪文をちょっと口にしたら、どういうわけか魔術が発動しちゃったのよ。もちろん、誤作動だけど」
周囲に怪しまれないように、立てた本で口元を隠しながら、ひそひそと説明する。
『そんなばかなことが……』
ユーリウスは言いかけて、やめた。
身代わり魔術は、髪の毛と名前と呪文の三つが揃ってはじめて発動する術だ。しかも、難易度が高いから、使える魔術師はほどんどいない。だから、呪文をその気もないのに口にしただけで、何かが起きるはずがないのだが……思いもよらないことを起こしてしまうのがティルアだ。彼自身、それを身をもって知っている。
『で、何が起きたんだ』
ティルアは本に視線を落としたまま、さらに声を潜めて話を続けた。
「頭が割れるように痛くなって、それから声が聞こえた」
『どんな?』
「赤ちゃんの泣き声と、その両親の会話。多分……ううん、絶対、フリードリヒ・クラッセンが、自分の子どもに身代わり魔術を使ったときの会話だわ」
『!』
絶句する彼の顔をちらりと見て頷いてから、また本に視線を戻す。
「フリードリヒは、誰かを告発しようとしていたみたい。でも、それを阻止したい者たちに追われていたんだわ。だから彼は、自分たちの子どもが危険にさらされないように、身代わりを作ったの。必ず迎えにくると約束して」
『ちょっと待てよ。フリードリヒを捕らえたのは魔術統括省なんだぜ。ってことは、彼が告発しようとしていた人物は、省の中にいるっていうことなのか』
「うーん、ごめん。理解が追いついてないけど……そうなの?」
『そうとしか考えられないな。それも、省の中でもかなり地位のある人物に違いない。そうでなければ、魔術統括省を外から動かせる人物か』
アンスフォルデ王国の最高機関を外側から動かせる人物は、限られている。当時、前国王は既に死去しており、現国王はまだ五歳かそこらの子どもだった。となると、残るは前国王の従兄弟で、現国王の摂政となったオイレンベルク卿だけだ。卿は現在も摂政として国の実権を握っており、その名は国民の誰もが知っている。
「まさか!」
『いや、可能性はある』
意外すぎてティルアが口にできなかった人物を察して、ユーリウスが頷いた。
「じゃあフリードリヒは、その人をどういう理由で告発しようとしていたの」
『そりゃ、決まっているだろ? 彼は、前国王の暗殺の容疑で追われていたんだから』
つまり、前国王を毒殺したのは魔術統括省の大物か、前国王の従兄弟。両者が共謀していた可能性もあるだろう。そして、その事実を告発しようとしたフリードリヒ・クラッセンは、逆にその罪を着せられて捕らえられた。
この国の最高権力の座にある者たちを大罪に問う、あまりにも大それた仮説が、ユーリウスの説明を聞かなくても成り立ってしまう。
「そんなことが、あり得るの?」
『あんたが聞いたという声が本当に本人のものなら、いちばん納得がいく答えだ』
「ああ、もう……そんな風に言われたら、なんだか自信がなくなってきた。もしかしたら、寝ぼけて夢を見たのかも?」
『寝ぼけただけで、あんな強烈な波動が起きるかよ!』
「たしかに、あたしが何かやらかしたんだとは思うけど……」
ティルアは開いた本の上に突っ伏せると、両手で頭を抱えた。
『……しっ! クリスタが戻ってきた』
ユーリウウスの声でのろのろと顔を横向けると、視界を遮る彼の背後に、制服とふわふわの赤毛がちらりと見えた。
「ティルア。遅くなって、ごめんね。もしかして眠ってた?」
「う……うん。この席って、ぽかぽか暖かかったから」
「ねぇ、さっき強い魔術の波動を感じたんだけど、ティルアは気づいた?」
「さ、さぁ……。あたしは眠っていたから知らないわ」
クリスタの誤解をいいことに、嘘をつく。
「そんなことより、何か分かったことはあった?」
「あることはあったけど、ここでは話しづらいわ」
クリスタが声を潜め、周囲を窺うように視線を走らせた。罪人とされている男の話なのだから当然だ。あまり他人に聞かれたくはない。
「じゃあ、これからクリスタの部屋に行ってもいい?」
無関係の女の子の部屋なら、さすがにユーリウスも遠慮するだろう。二人きりになったら、他にも聞きたいことがいろいろあるのだ。
しかし、彼女は眉間にしわを寄せた。
「わたしの部屋はやめた方がいいわ。今、次の魔術薬学の授業で使うあれを、たくさん干してあるから」
「あれ?」
「あれよ、あれ。ほら、ティルアの嫌いな、緑色の細長い生き……」
「ああああ……もう、いい。分かった。やっぱりあたしの部屋にしよう。早く、この本を片付けないと……」
彼女の言葉を遮って、椅子から立ち上がった。
緑色の細長いあれは、昔から大の苦手だった。今、後ろにいる人物を消去してしまうような大事故を起こしたのも、あれが原因だ。たとえ、日干しにされてひからびていても、見たくはない。
頭の中に浮かびかけた蛍光色の姿を追い払おうと、広げていた本を閉じ、机の上を片付け始める。
「クリスタの荷物はこれで全部? ……あっ!」
まだ、動揺が残っていたのか、机の隅に置いてあった教科書やノートを彼女に手渡そうとして、うっかり落としてしまった。
「ごめん。落としちゃった」
「ううん。大丈夫」
慌てて落ちたものをかき集めようとしたとき、繊細な緑の蔦模様が入った、銀色の美しい長方形の紙片を見つけた。手に取ると、ふわりと甘いチョコレートの香り。よく見ると、細かな皺や折り目が入っている。どうやら、チョコレートの包み紙を丁寧に伸ばして二つ折りにし、しおり代わりに使っているようだ。ジャムのクッキーが好きなクリスタには珍しい。しかも、とっても高級そうな包み紙だ。
誰かにもらったのかしら……?
拾った一枚の紙に想像力を働かせていると、横からすっと手が伸びてきて、それを取り上げられた。
「早く片付けないと、話をする時間がなくなっちゃうわね」
クリスタはなんでもない顔をして、しかし大事そうに、包み紙を教科書に挟み込んだ。
「あ……の……」
「この本、半分、持って行くわ」
質問する時間も与えずに、彼女は本の山を半分抱え書架に向かって足早に歩いていった。多分、触れられたくない話題なのだ。
『どうした?』
「ううん、何でもない。わたしも残りの本を片付けてくる」
遠ざかっていく妹分の背中を見ていたくなくて、ティルアもそそくさと本を抱え上げた。