(2)
図書館三階の北の奥には、禁書の書架がずらりと並んでいる——らしい。「らしい」というのは、その場所に入る資格のない者には壁にしか見えないからだ。
魔術の国として知られるアンスフォルデ王国の、深い闇の側面が記された書物が納められたこの一角は、厳重な結界が張られている。中に足を踏み入れることができるのは教師か、特に成績優秀な生徒だけ。もちろん、禁書を結界から持ち出すことはできない。
多くの生徒は、そこに何があるのかを噂でしか知らないまま、魔術学院を卒業していく。ティルアも、そこに不自然に立ちふさがる大きな壁しか、見たことがなかった。
ユーリウスには当然、禁書のコーナーに入る資格があった。今は資格などなくても、その場所に自由に出入りできるのだが、困ったことに、並んだ本を手にすることができない。せいぜい、怪しげな本の背表紙を眺めるだけだ。
『あぁ、くそっ! あの場所の本なら、きっと、何か手がかりが見つかるのに!』
「そんなこと言われても……ねぇ」
『あんたが俺を元に戻してくれれば、いくらでも調べられるんだよ!』
「そんなこと言われても……ねぇ」
また始まった……と、ティルアは肩をすくめた。
『何か方法はないのかよ』
「残念ながら、あたしは入れないわよ」
『そんなこと言われなくても分かってる!』
あの場所に立ち入ることができる生徒が、お目当ての禁書を開いてくれれば、ユーリウスがこっそり横から覗き込むことができるだろう。だけど、そんな都合の良い話がある訳がない。
彼のいらいらから逃れるように、すっと視線をそらすと、窓際の席で勉強に没頭しているクリスタが目に入った。彼女は魔術の実力がずば抜けている訳ではないが、こつこつと努力を重ねるタイプの秀才だ。総合的な成績は、学年でも上位のはず。
「もしかして、クリスタなら禁書のコーナーに入れるかも?」
『クリスタって……七年生の?』
「うん。ほら、あの窓際に座っているでしょ?」
ティルアが視線を振ると、同じ方向を見たユーリウスが怪訝そうな顔をした。
『……どこ?』
「だから、あの窓際だって! あの、ふわふわな赤毛の」
『あれが、クリスタだって? あの子ってティルアが今朝、南校舎で話していた子じゃないか。何を話していたのかまでは聞き取れなかったけど』
「ユーリったら、そんなところまで盗み見てたの! もぉ、信じられない」
『それは……』
彼はしまったという、表情を見せた。
商店街からの帰り道、ティルアは彼が後をつけてきたことにずいぶん文句を言ったのだが、自分の行為を正当化する言葉を畳み掛けてくる彼に、逆に言いくるめられてしまった。当然、彼からの謝罪の言葉は一切なく、それどころか、ティルアの方が「勝手なことをしてごめん」と謝る羽目になったのだ。
新たな疑惑に怒りが甦る。
腕を組んでじっとりとユーリウスを睨め付けると、彼はその視線と言葉を遮るように右手を挙げた。そして、何事もなかったかのように言葉を続ける。
『だけど、まるで別人だな。クリスタっていったら、いつも髪をおさげにした地味な感じな子だろう。一体、どういう心境の変化なんだ?』
やはり、謝るつもりはこれっぽっちもないようだ。
けれども、言葉では彼に敵わないことは、よく身に染みているから、追求を諦めて話に戻る。
「分からないわ。昨日、夕食の時に見かけたときは、いつものクリスタだったのよ。だから、今朝、会った時にはびっくりしたわ」
『ふうん……。どうせ、男でもできたんだろう』
「え? お、男?」
『それ以外に、何の理由があるんだよ?』
「…………」
女の子が急に綺麗になる理由——。
それは、そんな経験のないティルアでも、一般論として知っている。
恋というやつだ。
実はティルアも、今朝、同じことを感じた。姉妹のように育った彼女が遠くに行ってしまうような気がして、その想像を遠ざけたのだが、二つも年下の男の子にまで指摘されたのでは、認めるしかないかもしれない。
あんなに綺麗になっちゃうなんて、相手は誰なんだろう。あたしにまで隠そうとしているみたいだから、まだ片思いなのか、それとも……。
『おい、ティルア、聞いてるのか!』
「え……?」
クリスタのことをぼんやりと考えていて、彼の話を聞いていなかった。
はっと視線をあげると、いらついた顔が目の前にある。
『だから、クリスタに聞いてみてくれって言ってるんだ。彼女は、結構できる奴だから、禁書のコーナーに入れるかもしれない』
「わかった」
二人は簡単に打ち合わせると、クリスタのいる窓際の席に向かった。
どれだけ集中しているのか、ティルアが近づいても彼女は気付かない様子だ。
「クリスタ……。ねぇ、クリスタったら!」
何度か声をかけると、ようやく彼女はペンを走らせる手を止めた。ゆっくりと、ティルアには見慣れない綺麗な顔を上げる。
「あ……ティルア? どうしたの? こんなところで会うなんて珍しいね」
「あたしだって、図書館で調べ物をすることぐらいあるわよ。でも、ちょっと困っていることがあって……。ねぇ、クリスタって三階の壁の向こうに行ける?」
「禁書の書架のこと? うん。半年ぐらい前に入れるようになったわ」
「ほんと?」
『よしっ!』
ティルアの声に、気合いの入った少年の声が背後から重なった。
「実は、少し興味を持っていることがあるんだけど、ここの本には何も書いてないのよ。禁書の中にはあると思うから、代わりに調べて欲しいんだけど」
真実味をもたせるために本を高く積み上げた机を指差すと、クリスタは目を瞬かせた。
「すごいわね。一体、何を調べているの?」
「あのね、フリードリヒ・クラッセンっていう人のこと……」
フリードリヒは重罪人だとされているから、周囲を気にして耳元に囁くと、彼女も同じことを思ったのか声を潜めた。
「あぁ、前国王を毒殺したっていう人ね。凄腕の魔術師だったらしいけど……。でも、よく彼のことを知ってたわね? わたしでも、最近の授業で習ったばかりなのに」
「た、たまたま……そう、たまたま聞いたの。それで、本物のすごい魔術師って、どれほどの魔術が使えるんだろうって、知りたくなって。本当に前国王を殺したのかとか、どんな毒を使ったのかとかもね」
「そう言えば、前国王を毒殺したことは冤罪にちがいないって、近代魔術史のレルナー先生はおっしゃってたわ」
「そう! だから余計に気になって」
「ふーん。禁書を調べても冤罪は覆らないとは思うけど、犯人の人物像とか、事件の背景なんかはもう少し分かるかもしれないわ。授業の復習にもなるから、ちょっと行ってきてあげる」
「ありがとう! 助かる。わたしはここでクリスタの荷物を見てるから」
「お願いね。じゃあ、後で!」
クリスタは軽く手を振ると、ふわりと髪をなびかせて背を向けた。
『俺も行くから、ティルアは残りの本を調べておけよ』
ユーリウスは、さっき選んだ本の山を指差して命じると、彼女の後を追って行く。
「いってらっしゃい」
彼の相変わらずの命令口調に少々ひきつり気味の笑顔を浮かべながら、ティルアは二人に手を振った。