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『俺はっ……』

 勢い良く振り向いた彼の顔面に、ティルアの右手がぶすりと突き刺さった。

『うわあぁっ!』

「ひゃあ!」

 ユーリウスは悲鳴を上げて後ろに飛び退り、ティルアは慌てて手を引き抜いた。

 もちろん、お互い痛みは感じないが、視覚での衝撃は強烈だ。

『な、な、なにするんだよ! いきなり』

 どれほど驚いたのか、両手で顔を押さえて叫ぶ彼に向かって、ティルアは何でもないことのようにひらひらと手を振り、引きつった笑いを浮かべた。

「ご、ごめん。あの、えーと、そうだ。か、肩に羽がついてたから、取ってあげようと思ったんだけど、急にこっちを向くんだもん」

 頭を撫でてあげたくなったなんて本当のことを言ったら、彼はどれほど怒るだろう。

 そう思って必死に言い訳するが、こんな見えすいた嘘に気付かないはずはなく、彼の表情がひやりと凍った。彼はゆっくりと右手で足元をすくい、その手をぐいとティルアの目の前に突き出す。

『羽なんて……あんたには、見えないだろうが!』

 彼の手には、たくさんの羽が握られているはずだ。もちろん、一枚も見えない。

「あれ? おかしいなぁ。見えたような気がしたんだけどなぁ」

『デイレ!』

 そのとたん、彼の手の甲を突き抜けて、たくさんの羽がふわふわと床へと舞い落ちる。

『アスペクトゥース!』

 立て続けの呪文で、今度はティルアの手から名前が書かれた紙が消えた。

 彼は、見えなくなった紙を拾って厳重にポケットにしまうと、凍り付いた瞳でティルアを見た。

『今から消去呪文の特訓する。今日中に、俺を元に戻すんだ』

「えっ? 今日はいいじゃない。ユーリだって疲れているでしょ。少し休んだら?」

『そんな必要はない。こっち側にいたら、疲れることはないんだって言っただろう。俺は一刻も早く元に戻りたいんだ』

 いくら肉体的な疲れはないとしても、ライバルの死の真相を昨晩から追い続けてきたのだ。今の彼には、気持ちを休める時間が必要だ。

 けれど、そんなことを言ったところで彼が聞くはずがない。同情なんかするなと憤慨し、逆効果になりそうだ。

 そういえば……。

 ふと、クリスタから聞いた話を思い出す。

「そんなに焦らなくったって大丈夫よ。ユーリの名前は、まだ魔術統括省の名簿の原本に残っているって聞いたわ。だから、卒業前までには、元に戻れるはずよ」

『え……? 本当か?』

「うん。リーム先生が言ってたんだって。あの人、魔術統括省の人なんでしょ?」

『そうか。あの先生が言うんだったら、間違いないな』

 思った通り、彼の顔に安堵の表情が浮かんだ。しかし、それは次の瞬間にかき消され、厳しい顔つきに逆戻りする。

『だけど、いつかじゃダメだ。今すぐ元に戻せ!』

「だからぁ、そんなに焦らなくったって……」

『どうしても納得がいかないんだ。こっち側にいれば、誰にも知られずにどこにでも入り込めるけど、何にも触れられない。昨晩だって、生徒の名簿や極秘資料が目の前にあったのに、中を見ることができなかったんだ』

「でも、元に戻ったら、そもそもそんな資料に近づけないじゃない?」

『それは俺がなんとかしてみせる。とにかく、こっちにいたんじゃ、これ以上何もできないんだよ』

「……分かったわよ。練習すればいいんでしょ。今日中にっていうご要望に、お応えできる保証はしないけど」

 保証どころか、絶対無理だと分かっていた。それでも、呪文の練習につき合っている間、彼はフリーデルの事件を少しは忘れていられるだろう。先日のように自分の魔術で突拍子もない効果が現れたら、笑ってくれるかもしれない。

 ティルアは床に散らばっている羽を拾い集め、机の端に乗せた。その中から、いちばん小さくて軽そうな、明るいグリーンの羽を選び出す。椅子に座り、呼吸を整える。

「デイレ!」

 しかし、狙って笑いが取れる効果が得られる訳もなく、もちろん正常な反応も起こらない。ティルアのため息で、軽い羽が何度か吹き飛ばされただけだ。

 無言で背後に立つ彼の機嫌が、どんどん悪化していくのを痛いほどに感じる。あまりにも重苦しい時間が延々と続く。

 もう耐えられないと思った時、時計塔の鐘の音が聞こえてきた。

「あ、もうこんな時間? 夕ご飯、食べに行かなくちゃ!」

 救いの鐘にほっとしながら席を立とうとしたが、ユーリウスに即座に拒否される。

『だめだ。もう少しやってみろ!』

「えーっ! すっごくお腹が空いてるんだけど」

『だったら、さっさと成功させろ! 無理でも、あと最低三十回は練習するんだ』

 しぶしぶ彼の言葉に従ったが、結果はやはり出なかった。

「もう……いい?」

 肩をすくめ、恐る恐る振り返ってお伺いをたててみる。

『夜も練習するからな』

「う、うん」

 腕を組み、睨むように見下ろしてくる彼の威圧感は凄まじい。

 ティルアは机の上の羽を手早く集めてポケットに押し込むと、逃げるように教室を後にした。

 食堂にいる間だけは彼から解放される。中庭に走り出て、ティルアはようやく一息ついた。しかし、東寮と南校舎との間の角にそびえ立つ黒い影が目に飛び込んできたとき、ぎくりと足が止まった。

 昨日と同じ時刻。同じ藍色に染まった風景。

 行く手を阻むように立つ、蔦に鬱蒼と覆われた不気味な時計塔の下で、事件は起きたのだ。

 怖い——!

 恐ろしさにぎゅっと目をつぶると、真っ暗になった目の裏に、倒れた人影が浮かび上がってきた。

「や……めて」

 いつもの癖で、ネックレスの飾りを両手で上から押さえる。しかし、恐ろしく早い心臓の鼓動が手に伝わり、恐怖心を煽るだけだった。

 もうどうやっても、自分一人では昨日の恐ろしい光景を振り払うことはできなかった。

「い……やっ! ユーリ! ユーリ!」

 頼れるのは、昨日の事件を知っている彼だけだ。

 ティルアは身を翻すと、校舎の中に取って返した。もつれる足で階段を駆け上がり、さっきまでいた教室に飛び込む。

『なんだよ。飯に行ったんじゃなかったのか』

「き……てっ!」

 驚いて振り返った彼に駆け寄り、必死に手を伸ばした。

 しかし、彼の腕を掴もうとした両手は彼をすり抜け、自分の反対の手とぶつかってしまう。バランスを崩したティルアを慌てて支えようとした彼の腕も、何の引っかかりもないまますり抜ける。

「ああぁぁ……」

 ティルアは前に伸ばした自分の手と手をつないだ間抜けな体勢で、ぺたりと床に座り込んだ。

『大丈夫か、ティルア』

 ユーリウスはティルアを助け起こそうと手を伸ばしかけ、途中でやめた。

 ティルアもまた、彼の手を取ろうとして思いとどまる。

 お互い、相手が全く普通に見えるから訳が悪い。触れられないことは頭では分かっているのに、とっさのときには手が出てしまうのだ。

『何があったんだよ』

「お……お願い、食堂まで一緒についてきて!」

『は? 食堂には行きたくないって知ってるだろう』

「知ってる。知ってるけど……時計塔が……もう、暗くて……だから」

『時計塔?』

「一緒に来て。お願いだからぁぁぁ……」

 ティルアの必死の訴えに、彼は一瞬、困惑した表情を見せた。それから、無言のまま薄暗くなった窓の外に目を向ける。

 まだ少年っぽさが残る整った横顔を見て、ティルアは急に恥ずかしくなってきた。

 彼は最上級生ではあるが、二つも年下の男の子なのだ。まだ成長途中にある身体は線が細く、身長もティルアとさほど変わらない。この数日の間に、年相応に子どもっぽい面にもたくさん触れた。だから、彼がこの学院一の秀才であろうが、どれほど尊大な態度を取ろうが、自分の方がお姉さんだという意識はいつもあった。

 なのに、こんな風に頼ってしまうなんて——。

 彼の性格から考えると、冷たく拒否されるか、小馬鹿にされるのが関の山だ。

 ティルアは妙な羞恥と緊張感に逃げ出したくなったが、一人きりでは食堂に行くどころか、校舎から出ることもできないだろう。ペンダントを握りしめて息をつめ、彼の反応を待つ。

『行くぞ』

「へ?」

 予想と全く違った言葉に目を瞬かせていると、窓から離れた彼が、ちらりと視線を向けてきた。ふっと細められた瞳に馬鹿にするような色はない。心なしか優しい眼差しに感じる。

『飯に行くんだろ?』

 声まで柔らかに聞こえるのは、気のせいだろうか。

「う……うん」

 ティルアは慌てて立ち上がると、そのまますたすたと先を行く彼を追っていった。

 無言のまま振り返ることなく目の前を歩く彼は、すぐ近くにいるように見えて、触れることすらできない別世界にいる。もし今、何かが起こったとしても、彼はこちら側に手出しすることができない。

 それでも、彼が近くにいてくれるだけで、ずいぶん心強かった。

 少年っぽい華奢な背中が、頼もしく見えた。

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