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愛より金

 幼いころ、大人になったら好きな人と結婚するのだと当たり前のように思っていた。それが当然なのだと思い込んでいた。

 お父様とお母様は恋愛結婚で、他の親戚もみんなそう。だったら私もって思うのがごく自然のことであろう。例え私の家が代々国から『貴族』という役職をたまわっていようが関係のないことだと思っていた。だって私が生まれ育った、サンドレア領はお世辞にも少しとは言えないほどに王都から離れた場所に位置している。王都へ行くためにはどんなに条件が良い日であっても馬車を走らせて三日以上はかかる。

 そんなサンドレア領は緑が豊かで夏にはたくさんの作物が実るのが自慢であった。それに周りには六つの山があり、秋にはたくさんの木の実や山菜が収穫できる、というのも他の領地に誇れるものである。

 広さは実に王都の面積の六倍以上はあるものの、人口密度は低く、ご近所づきあいは盛んに行われ、貴族や平民なんて地位の境はほとんどなく心の温かい住民たちに囲まれて育った。

 お父様やお母様が頬を赤らめて話す『恋』なんてまだ一度もしたことはなかったけれど、それでも私は幸せに暮らしていた。


 そんなある年にサンドレア領では、日照りが続いた。

 人の皮膚すら焼いてしまうほどの日差しは身体中の皮膚を覆い隠さなければ皮膚がはがれてしまうほど。山の間を流れる川は例年と比べてグンと水位は低くなり、畑には何度水をかけようがすぐに蒸発してしまった。

 結果として秋になっても多くの作物は実をつけることはないままだった。実になれたものですら形は小さく、とてもではないが売りには出せなかった。主な収入源が野菜、それも夏に育つ野菜だった領地のこの年の収入は半分以下。それでも、住民同士支えあって何とかその年を越すことができた。

 その翌年は前年とは真逆のことが起きた。

 大雨が続いたせいで植物が根腐れを起こしまったのだ。それに近くの川の一つが氾濫してしまい、その川の近くに住んでいた住民の畑の野菜は全て流され、家の一部も壊れてしまった。

 その翌年はハリケーンが来て、被害を受けなかった家などないほどに大きな被害を受けた。

 もちろん私の家、サンドレア家の屋敷も例外ではなかった。家の半分は飛ばされて無くなり、父の書斎にあった本は全て水びだしになった。

 日照り、大雨。

 私たちの領地は大きな被害を受け、ついには他の領地から借金をするまでになってしまった。

 そしてハリケーンでの被害によってその額は瞬く間に下級貴族、サンドレア家では返せないほどに膨大な額になった。

 そこでそれを肩代わりしてくれた、カリバーン家はお父様に言った。


 借金の片に娘をよこせ――と。


 お父様は強く拒否したが、もともと収入は多くない領地。そんな大金、返す当てなどどこにもなかった。

 それを、私を差し出せばなかったことにしてくれるのであれば安いものだろう。私は家族と使用人達の反対を押し切り、カリバーン家に引き取られることになった。

 ひどい扱いを受けることなんて覚悟していた。気分は出荷される牡牛のような気分だった。それでも家族や領地の住民が苦しまなくて済むのであれば、私にとっては苦にはならない――そう、覚悟していたはずなのに。

 なのに、なぜ私は今こんなところにいるのだろうか?

 私の頭上では絵の中の天使様が微笑みを浮かべていて、壁には宝石のようなものが埋め込まれている。それらは様々な角度から照らされる光に反射して輝きを増していた。


 私が王都に来た経験があるのは二度。

 近所のおじさんに頼み込んで、大きな競りに連れてもらった時が一回。そして一回はお父様に連れて行かれた、お父様すら行くのを嫌がった半ば強制参加の社交界。

 一家揃っての外出だったが皆一様に表情筋が凝り固まっており、帰宅後は疲労で一日中机に突っ伏していた。もちろん詳細な記憶はない。ただ無礼を働かないようにとだけ頭に強く残っていた。

 ただそれだけだ。

 正確にいえば、下級貴族とはいえ二十年近く生きていれば数回ほど王都への招集もとい王都での社交界にお呼ばれすることもあったが、それを何かにつけて断り続けた。

 やれ体調が優れないだの、飼っていたネコが死んでしまっただの……。

 王都の近くに家を持つ貴族の地位は高く、そんな社交界に頻繁に呼ばれるわけでもないので、こんな嘘丸出しの理由でも断ることは出来た。

 仲のいい友人にはこんな嘘、バレていただろうけど、彼女たちは何も言わないでそっとして置いてくれた。

 これで他のお茶会や夜会にも断りを入れていれば怪しまれることはあるが、王都以外、下級貴族同士の社交界などは一度も欠席することはなかった。むしろ積極的に参加した。

 集まるのは皆、顔見知りばかりで友人も多い。なかには私のように農作業を手伝っている子もいて、頻繁に手紙でやり取りをすることもあった。

 そんな王都をここぞとばかりに避けていた私は今、王都にいる。

 人生で三度目となる王都訪問は、大規模な競りでもなく、ましてや野獣のような視線飛び交う夜会でもなく、王都で有数の服飾店として知られる、王家御用達の店だった。

 そんな明らかに私とは不釣り合いの店に手をひかれた私は無意識に店とは反対側に引っ張ったほどだった。

 私は断じてこんなキラキラとした店に来るような人間じゃない。

 同じキラキラなら出来のいい作物を太陽に照らした時もしくは川でキンキンに冷やした時に見られる、雫が滴り落ちてくるキラキラがいい。

 あの食欲をそそるような、今にもかぶりつきたくなるようなキラキラ。

 それが私に似合うもので、こんな光だとか宝石だとかそんなもので作られたキラキラは私じゃなくて、もっと社交界にいるような、飢えた野獣さながらの目つきをしたご令嬢のほうが似合う。

 指にはめては光にかざして眺めてみたり、首元に飾ってみたり。はたまた頭に乗せてみたり。彼女たちならこれらを上手く生かす方法を知っているのだろう。


 目の前の女性が持つレースなんかはつけられるよりも作り手のほうが向いていると、女性の手元をじいっと見つめてしまう。

 きっと編めないことはない。難しそうではあるけれど、手先は不器用な方ではないので練習次第でなんとでもなるだろう。

「ルーナス様、もう少しで終わりますので」「はあ……」

 そう意識を逸らしているうちにドレスを作るための採寸は仕上げ段階へと入っていく。

 どうやら私はカリバーン家へと引き取られていくらしい。元々今回の取引はサンドレア家とカリバーン家の間で行われていることは知っていた。

 そしてここに運ばれてくる馬車の中で同席した、おそらくカリバーン家の執事であろう、銀のフレームのよく似合う妙年の男性が追加情報ともいえる『引き取られる先』もとい『滞在先』を教えてくれた。

 途中途中ハンカチを目に当てたり、涙声になっていたりで詳しくは聞こえなかったものの、家名だけはハッキリと聞こえた。

 それでも正直信じられない。

 カリバーン家といえば、公爵の位を国王様から賜っており、当主様は国王様の右腕として宰相の職に就いており、ご長男はサポートをしている。いわゆるエリート中のエリートだ。

 そこに仕える使用人達も皆、教養深く、武芸に長けているのだと耳に挟んだ事がある。そんな家がなぜわざわざ借金の片に下級貴族の娘なんかを要求するのだからどこかに売られるなり何なりするのだろうと予測をつけていたのだがどうやらそうではないらしい。

 私の滞在先はカリバーン家なのだ。

 これがせめて四十過ぎのぶくぶくに太ったどこぞのおじさんで、借金のカタでもなければ妻を娶れないような男であれば理由は簡単に想像できるというのに……。

 全くもって何のために連れてこられたのかわからない。この採寸だって何のためにされているのかもわからない。


 自慢ではないが、私の日課は領民と一緒に農作業することだった。

 雨の降った日にはおばさまたちの家に行ってはお茶をごちそうしてもらったり、おじさまたちには籠などの工芸品の作り方を教えてもらったりしていた。

 それは貴族のすることではないと昔、貴族の友人に言われたことがある。それでも日課なのだからやめられずに今まで続けてきた。けれどそれらが貴族として普通ではないことくらいわかってはいる。

 けれど私はそういう人間で、家族や領民の皆さんはそんな私を止めようとはしなかったからだ。

 だからもし畑を耕す役目とか工芸品を作る役目とかだったら役に立てそうな気がしなくもない。

 もしそうならこんな煌びやかな店でわざわざ採寸して作った服じゃなくて、量産型の動きやすさ重視の服がいい。

 任されるかもわからない作業に頭をこねくり回していると一人の女性から「終わりました」と声をかけられる。

「ありがとうございます」

 何のために採寸していたのかは不明であるが一応お礼の言葉を返すと複数人いた女性達は三歩ほど後ろへと下がった。

 そうして私は二時間にも及ぶ採寸を終え、やっと解放された。

「終わりましたか?」

「あの、お待たせしてしまい申し訳ありません」

「いえ、お気になさらないでください。あなたを待っている時間は有意義なものでしたので」

 私が採寸をしてもらっている間、ずっとカーテンの向こう側で待っていてくれたらしいラウス様が顔を出した。

 城勤めで忙しいであろうに時間を割いてしまって申し訳ない。こんなに優しい彼が今後の雇い主になると思うと初めから好調な滑り出しだといえよう。

 カリバーン家の中でもラウス様に引き取られるとわかっていれば、『結婚』なんて恥ずかしいこと一瞬であれ考えなかった。

 社交界の最良物件として令嬢の中で噂の的となっているラウス様に並び、同じくらい顔が整っているが、社交界の問題児として名を 馳せるダイナス様という公爵家の次男がいる。彼は社交界にデビューする女性に端から声をかけて、気に入った子がいれば連れて帰ってしまうらしい。噂では社交界に出たことのある女性は皆、声をかけられると聞いたのだけど私は一回も声をかけていただいたことがない。きっと彼の目にはお父様とお母様の秀でた箇所を根こそぎ持って行ったお姉様ならともかく、残りカスだけを取ってこの世に生まれ落ちた地味な私なんて入る隙もないのだろう。

 そんな私がよりにもよってラウス様と結婚なんておこがましいにもほどがある。

 だがもし、いや万が一にもありえないが、ラウス様ならきっと結婚したら好意なんてものはなくとも、一応娶ったのだからという義務感から優しく接してくださるのだろう。

 なんかそれはそれで想像してしまうことすら申し訳ない気がする。

「ああ、結婚くらいはしたかったな……」

 借金の片にと自分からここに来ることを選択したというのに最後の足掻きのような言葉が出る。

 いったところでどうにもならないのだけど、私だって一応婚期ど真ん中の女の子で、幸せな家庭というものに少しながら憧れは抱いているのだ。

 そう広くはない馬車で隣に座る、顔形の整ったラウス様を眺める。ただ前を見据えるその姿はやはり美しい。こんな近距離で見ることなどもうこれを逃したらないだろうからと存分に網膜に焼き付けることにした。

「……どうかしましたか?」

「あ、ラウス様。お初にお目にかかります。私、モリア=サンドリアと申します」

 あんまりにも見つめていたせいか不快感を感じたのか、綺麗に整った顔を崩して私の方に顔を向ける。

 すると今度は私の方が居心地が悪くなり、視線を逸らしてまくし立てるように自己紹介をした。

「あ、ああ、モリア。私はラウス。ラウス=カリバーンだ。これからどうぞよろしく」「ラウス様のお役に立てますよう頑張りますのでどうぞよろしくお願いいたします」

「頑張るって……そんな……」

 今後の意気込みを話すとラウス様の顔はほのかに赤らんだ。まるで求婚された少女のようだ。同じ貴族という枠組み内にいるとは言え、やはり身分の高い人の行動はよくわからない。

「それで、私はカリバーン家で何をすればいいのでしょう? 一通り家事などはこなせますが……」

「家事? それは使用人の仕事だから君がすることはない」

「では私は何を……」

「君はただ俺の隣にいてくれればそれで……」

 次第に小さくなる声に比例してどんどんラウス様の顔は赤くなる。

「あの……大丈夫、ですか?」

「あ、ああ。大丈夫だ、心配はいらない」「そうですか?」

「ああ!」

 力強く発したラウス様の声で再び馬車には静寂が訪れる。

 警護、ということでいいのだろうか。農作業や工芸品づくりと平民に交じって行ってきたが、さすがに腕っぷしには自信がないのだが……。今はそれを伝えられるような雰囲気でもない。

 手持ち無沙汰で外を眺めようにも窓にはカーテンがかかっていて何も見えない。町の乗り合い馬車とは勝手が違って窮屈に感じる。だが極たまに町で見かける家紋入りの馬車のほとんどがやはり目隠しがかかっていた。身分が高い人の乗る馬車だとこんなものなのかもしれない。もう二度と乗ることのないのだからこの窮屈ささえも楽しんでおくべきかと気をそらす他ない。


 それからしばらく走り続けていた馬車は少しずつ速度を落としていき、そしてピタリと止まった。

 ラウス様側の扉は使用人によって開かれ、そしてゆっくりと地上へ降りていく。彼に続いて外へ出ようとするとラウス様の手が差し出される。

 いつもは使用人かお父様が差し伸べてくれるから、他の男性に、それもこれから私の雇い主となるであろうラウス様の手を取るのは気がひける。

「手を……」

 けれどたくさんの使用人が見ている前で恥をかかせるわけにもいかず、心の中でこっそりと夜会で見かけたラウス様狙いのご令嬢たちに詫びて手を乗せた。

 いつもは慣れないヒールを履いていることを知っている使用人やお父様の手に遠慮なく体重をかけてしまっていた。けれど今日はそんなことできるはずもなく、むしろ手を中途半端に乗せているぶんバランスが取りにくく、グラつく足に全神経を向けた。

「モリア?大丈夫か?」

 わずか三段ほどしかない段差を降り、地面に足がつくと一気に落ち着く。額にはうっすらと汗がにじんでいた。そんな私の顔を心配そうにラウス様は覗き込む。極度の緊張状態にあった私の顔はきっと心配に値するものだったのだろう。

「ええ、ご心配をおかけして申し訳ありません」

「そうか? 無理はしないでくれ」

「ええ、大丈夫です」

「そうか……」

 理由は明らかではあるが、そんな情けないことをこれからの雇い主に言えるわけもない。

 微笑んで心配ないことを表すとラウス様は屋敷の方へと顔を向けた。手は未だに私の手と繋がっている。口では心配ないことを理解してくれたようではあったが、私の言葉を事実として受け取ってはくれていないようだ。

 心配性なのか、はたまた私への信頼がないのか……。どちらにせよこれ以上気を使わせるわけにもいかない。

「おかえりなさいませ。ラウス様、モリア様」

「ハーヴェイ、今帰った」

 ラウス様は出迎えに来ていた使用人に言葉をかける。ハーヴェイと声をかけられた男は私を店まで連れて行った男だった。彼の手には先ほどのようにハンカチが握られてはいない。だが相変わらず背筋はピシッとまっすぐに空に向かって伸びている。

 周りを見回すと彼を先頭に並んでいる。どうやら彼がカリバーン家の使用人の中で一番偉いらしい。

「私、モリア=サンドレアと申します。これからどうぞよろしくお願いいたします」

 緊張しながらも名前を告げ、深々と頭を下げる。

 彼らはこれから共に働く仲間だ。私では到底彼らの技量には及ばないがそれでも借金のため、必死で働かなくてはいけないのだ。それにはまず、第一印象が重要だ。

 馬車の中で会った彼の私に対する第一印象が良かったのかは分からないが、他の使用人に悪印象を与えてはいけない。

「モリア様、お顔をあげてください」

 ハーヴェイと呼ばれた使用人は顔が見えずともひどく焦っているのが容易にわかった。彼をこれ以上困らせるわけにもいかずゆっくりと顔を上げる。すると彼はホッとしたように胸をなでおろしていた。

 きっと一応とはいえ貴族の娘だから気を使っているのだろう。だが私は客人ではないのだから、そんな扱いを受ける権利などはない。

「モリア様などとんでもない。どうかモリアとお呼びください」

 そう懇願するとハーヴェイの顔は次第に血が抜けたように白くなっていった。



「モリア。君の部屋に案内するよ」

 私とハーヴェイのやり取りをしばらく見ていたラウス様であったが、これ以上私たちのやり取りを見ているのにも飽きたのか再び私の手を取って屋敷の方へと進みだした。

 目の前にそびえ立つのは、同じ『貴族』という役職を持っていようが、階級の違いを見せつけられるほどにサンドレア家の古ぼけた屋敷とは比べ物にならないほど豪華な屋敷。近づいても屋敷の壁に泥が付着していたり、塗装が剥げているなんてこともない。

 ラウス様のために開かれた扉を通過していくと、やはり内装も立派であった。

 進むたびに、高価そうな絵であったり、ツボであったりが飾られている。ツボの横を通る度に割ってしまわないかと冷や冷やする。

「モリア、ここが君の部屋だ」

 ラウス様の手によって直々に開かれたドアの先にあったのは天蓋付きのベッドや傷一つないクローゼット。元付けの家具は多くはないものの、一つ一つ、丹精込めて作られたのだろうと簡単に予想できる品物ばかりだ。

 これが使用人の、しかもよりにもよって借金を背負ってやってきた、役に立つかもわからない下級貴族の娘に与えられる部屋なんてやはりお金持ちはスケールが違うのだと感心する。

 先ほど採寸し、注文していたドレスもラウス様ほど上級の貴族ともなると使用人にもそれくらいのものを与えているのかもしれない。万年お金のやりくりに気を配るサンドレア家では到底理解できないことではあるが……。


「では早速で悪いのだが、その、食事にしないか?」

「え……」

 私がこの屋敷に到着してから一時間も経過していない。部屋の配置はもちろんのこと、キッチンの場所は教えられていないし、制服すら支給されていない。こんな状況で食事の準備なんて……。


「あ、いやモリアがまだ食事という気分ではないならもう少し後でも構わないのだが……」

「いえそんなことは……」

 いや、だが借金返済のためにこの場所に来た以上、『やらない』『できない』という選択肢はない。今からでも屋敷のどこかにいる使用人を探して、せめて食堂の場所を教えてもらうしかない。

 ドアに手を伸ばして足を踏み出そうとするとドアノブに伸ばしたはずの手はラウス様の手によって包み込まれた。

「では行こうか。みんな待っている」

 なぜラウス様は私の手を握るのだろう? この年になってさすがに迷子になったりはしない。


「あの、ラウス様……」

「どうかしたのか?」

「手……」

「え、あ、その……すまない……」

 私が指摘するとラウス様は弾くように手を引いて顔を真っ赤に染めた。もしかしたらカリバーン家は、上級の貴族は使用人にも紳士的に接するのかもしれない。私の屋敷では使用人はどちらかといえば『家族』の枠組みに近いけれど……。そう思うとわざわざ指摘してしまったことを恥ずかしく思った。

 俯きながら、ラウス様の足元を追いかけるようにして進んでいく。つむじにはラウス様の視線が当たる。

 これではまたもう一度説明してもらう羽目になるかもしれない。それでは二度手間だ。申し訳なくなり、顔をあげ、しっかりと部屋の配置を覚えることに専念する。

 右手にある、花瓶には見覚えがあるので少なくともこの場所までの道順は問題ない。


「モリアは……」

「はい、なんでしょう、ラウス様」

「花瓶に興味があるのか?」

 どうやら熱心に目印を確認していた様子がラウス様の目には花瓶に興味のあるように見えていたらしい。

「いえ」

 短く否定の言葉を返すとラウス様は私に訝しげな顔を向けた。

 もしかしたら何か勘違いをさせてしまったかもしれない。これでは万が一盗難でもあったら確実に初めに疑われるのは私になってしまう。


「いえ、その目印に……と思いまして」

 慌てて付け足すとその顔は柔らかいものへと変わる。


「ああ、そうか。わからなくなったらいつでも遠慮しないで聞けばいい。この屋敷のものは皆優しいものばかりだから」

「そうさせていただきます……」

 これ以上疑われるような真似をすれば追い出されたり、すぐにでも借金全額返金するように言われでもしたら困る。

 何かを狙っていないことを表すためにも、キョロキョロとせずにまっすぐにラウス様の背中だけを見つめることにした。

 すると安心したのか、それからダイニングルームにつくまで一度も振り返ることはなかった。

 部屋へと入ると「席に案内する」とラウス様に再び手を取られる。カリバーン家は使用人と一緒にご飯を食べるのか。サンドレア家は収穫祭や結婚式などの祝いごとがある日は使用人も全員で同じ食卓を囲むものだ。今日はそうではないようだが、新しい使用人ができたことは祝い事に相当すると言われればそうであるともいえる。

 思いがけず実家との共通点を見つけ、ほっとして案内されるがままに引かれた椅子に腰かける。

 空のグラスにはワインが注がれ、この場に座るのも今日限りなのだと実感させられる。

 目の前に広がる大量の食事も。

 六つある椅子のうちの唯一の空席につかせてもらうのも。


 私以外の、ラウス様を含めた四人はいずれも高価そうな服を着ている。実家にあるうちの一番高い服を着てきたつもりではあるが、やはり隣に並べば違和感を醸し出している。


「ようこそカリバーン家へ。私たちはあなたを歓迎するわ」


 彼らは明るく迎え入れてくれているが、美味しいはずの料理は緊張で味がしない。

 昔行った王都の舞踏会のようだ。

 いつ終わるのか、そればかりが気になってしまって仕方がない。

 時折投げかけられる質問に、上の空状態で答えていく。何を聞かれたのかは覚えていない。


 気が付けばそこは真っ白なシーツの上だった。


「さすがにその……初日から無理をさせるわけにはいかないから」


 なぜか私の隣で、背を向けながら弁明をするラウス様の声が次第に遠くなっていく。



 薄れる記憶の中で『明日こそは制服を貰おう』と決意して眠りにつくのであった。


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