亡国の王妃
残酷な描写を含みます。
苦手な方はお気をつけ下さい。
その部屋は恐ろしく寒かった。贅を尽くし、様々な宝物に囲まれたその部屋はいつもならもっと輝いて見えた筈なのに、今日だけはどれも無機質に見える。それはこの部屋の主の諦念を汲み取っているようでもあり、私は不意に切なくなった。
ああ、今まさに一つの時代が終わろうとしているのだ。そんな郷愁が私の胸の内に溢れる。それでも私は己が為さなければならないことのために、意を決して口を開いた。
「王妃、お迎えにあがりました」
すると、窓辺で外を眺めていた「彼女」が振り返った。
まさに、美の女神の寵愛を受けし者。そうとまで呼ばれたこの部屋の主たる彼女はこんな時まで見惚れそうになるほど美しかった。豊かに伸びた漆黒の髪。エメラルドを思わせる緑の瞳。スッと通った鼻筋に、熟れた果実のような真っ赤な唇……。どこまでも完成されたその顔立ちには、物憂げな表情が浮かび、仄かな色香を漂わせていた。
彼女は切れ長の瞳をスッと細めて、視線をこちらへ向けると、深いため息をついた。
「遅いわよ。私を待たせるとはどういうつもり?」
彼女の口から放たれたのはいつも通りの高慢な言葉だった。緩くウェーブのかかった髪を後ろに払い退けると、私を責めるように睨みつける。そこには上に立ち続けた者特有の底知れない威圧感があった。私は思わずそれに気圧されて黙り込んでしまう。やはり、いつになっても私は彼女に逆らえないのだった。
「まぁ、いいわ。おかげで思い残すこともないし」
「本当に、よろしいので?」
「そう、言っているわ。何事も終わりというものは来る。私はそれを無意味に引き伸ばすことはしたくないのよ。だって、それは愚か者のすることだから」
彼女はそう言って、再び窓の外へと視線を向けた。私もつられてその視線の先を覗き込んでみると、そこには悲惨な光景が広がっていた。
潰れた眼球に、飛び散る脳漿、そして地面を濡らす血溜まり。
そう。そこにあるのは数え切れないほどの屍だった。この部屋が塔の上の高い位置にあるせいで、細部まで見ることは叶わなかったが、それでもその凄惨さは伺うことが出来る。決して見ていて、気持ちの良いものではなかった。それはこの光景を作り出す一端を担っていた私でさえ、直視するのは辛い。
しかし、彼女といえばそれを見つめたまま、微動だにしなかった。ただ淡々とそこにある事実を刻み込むかのように、厳かな静寂を身に纏っている。
それから、どれほど経っただろうか? 彼女はようやく顔を上げた。
「ねぇ」
「……はい?」
「あなた、まだ迷っているの?」
「ッ!」
おそらく、一向に動こうとしない私に痺れを切らしたのだろう。冷たい眼差しでそう尋ねた。
そこで、私はようやく自らの手に握っていたモノの存在を思い出した。先ほど決意を決めたばかりだというのに、少し気を抜くとコレだ。私はまだ彼女に対する甘い認識を捨てきれていないらしい。握った「剣」の刃先が小刻みに震えていた。
「あなたは己の正義に従ってそちら側……つまりは私の敵となることを選んだのでしょう。なのに今更。いったい何を躊躇っているというの?」
「それは……」
まさに彼女の言う通りだった。私は彼女の横暴極まりない振る舞いに失望し、それを正すためにこの剣を手に取った筈だった。国民から搾り取った税を下らない宝石に費やし、気に入らない者はすぐに殺す彼女の行いは到底許されることではない。当然、私も彼女に対する信用はゼロに堕ちたし、国民からの不満は積もりに積もった。それが原因で今日のクーデターも起こったのだから、彼女の罪は計り知れない。私も少なくともこの部屋に入るまではそれを信じて疑わなかったし、その為に手を血で汚したりもした。
けれど、今はただ。
「不思議でならないんです」
「一体、何のこと?」
「あなたがそんなに変わられてしまった理由。それがわからないのです。あなたは昔はあんなに……」
優しかったのに。と、私は遠い昔を思い出しながら呟いた。
彼女が王妃になる前、私は彼女と幼馴染だった。あの頃は毎日のように共に遊び、よく互いに笑いあったものだ。その輝く日々は今、鮮やかに蘇る。
その時の彼女はまだ、いつも明るい普通の少女だった。気立ても良くて、村の人気者。当然、私も彼女に憧れていた。ある時、王に見初められ、結婚した直後もまだ彼女は私の幼馴染だったのだ。だからこそ、初めは彼女の騎士を務めたし、敬愛していた。
それなのに、いつからこんな風になってしまったのだろう。私はそのことが納得出来なかった。今、私と彼女は革命軍のリーダーと断罪される者として向かい合っている。しかし、このまま終わってしまうのはどうしても嫌だった。
「簡単なことよ」
彼女はさらりと、言い放った。さも当然のように、私が望まない残酷な答えを返す。
「ここでは私が私のままではいられなかった。たった、それだけ。平民でしかない私がここへきてしまったのは全く以ってお門違いだった、というだけなのよ」
彼女は自嘲した。そこにあるのは深い絶望と、諦念だ。疲れきってしまったと言わんばかりに浮かべられた表情に、あの頃の面影は微塵もない。やはり、変わってしまったのだ、と私が確信を抱かざるを得ないほどに。彼女は変わり果てていた。私の知らない世界で、彼女はいつの間にか壊れていたのだ。
「じゃあね、私はもう逝くわ」
彼女はそう言い残した。それから、どこからともなく小瓶を取り出すと、その中身を一気に呷った。あっと叫ぶ間もなかった。彼女は私の視線の先で冷たい地面に崩れ落ちていく。
真っ白な太陽が咲いた冬の日。そうして、革命は成されたのだった。