表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

彼女の過去



平穏な日々が続いていた。

如月から事件の電話もしばらく掛かって来ないし、光平が夢を見たと騒ぐ事もない。

喜一がいつものように、入荷した本を並べていると、後ろから声がした。

「日向…喜一くん?」

喜一が振り返ると、そこに同じ年頃の女が立っていた。

「…そうですけど」

喜一が答えると、女はパッと笑顔になった。

「やっぱり。私、浅倉です。浅倉翔子。同じ高校にいたんだけど…覚えてないかな?」

喜一は自分の記憶をフルスピードで遡る。

「…クラス、一緒になった?」

「ううん。それに、私、二年に転校して来たから…解らないかな?」

全然解らない。

とは、言えず、

「なんとなくは覚えてるよ」

と、曖昧な返事をした。

「ここで働いてるのね。なんか、懐かしくて嬉しいな」

翔子が微笑んだ。


その夜の日向家では、陽二と光平が物珍しそうに喜一を見つめていた。

「ねぇ、陽二くん…兄貴、どうしちゃったんだろ…」

「うん…いつも何かは読んでるけど…」

喜一がソファで手にしていたのは、卒業アルバムだった。

「普段、活字見すぎて頭やられちゃったんじゃねぇか?」

「まさか。陽二くんじゃあるまいし」

二人がそんな会話をしていると、

「ねぇ、二人とも」

陽二と光平が、ピタリと動きを止めて喜一を見る。

「同級生全員って、覚えてる?」

「顔くらいは解るかも」

光平が答える。

「言われりゃ思い出すかもしれないけど…どうかな?」

「陽二くんは、あんまり学校に行ってなかったからでしょ?」

陽二が、いつものように光平の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱した。

「今日、同級生だっていう人に会ったんだけど…覚えてなくて」

「それでアルバム?」

「どんな子?」

背後からアルバムを覗き込んだ陽二が、喜一の指した写真を見た途端

「うわ、結構可愛いじゃん。兄貴、覚えてないのか?」

「…同じクラスじゃなかったし」

「このレベルだったら、別のクラスでもチェック対象でしょ、普通」

陽二が、有り得ないと言いたげに喜一を見た。

「なんとなく存在は思い出したけど…思い出は無いし」

喜一は、興味なさそうに言うと、アルバムを閉じた。

「それに、この当時と今じゃ、雰囲気も違うから余計解らなかった」

「確かに女は化けるからな…て、事は、今は更にレベルアップしてるのか」

陽二はニヤリと笑うと、

「もしかして、兄貴も恋の予感が…」

「ないよ」

食いぎみに即答され、陽二は溜め息をついた。

「兄貴も、そろそろ現状打破した方がいいんじゃないの?初美ちゃんには偉そうな事言って、自分は臆病なままなんて、ずるいぞ」

「陽二くん、言い過ぎ」

光平が割って入る。

「僕は今のままで充分幸せだし、恋愛なんて頑張ってするもんじゃない」

喜一が、珍しく食い下がる。

「あっそ」

陽二が面白くない顔をすると、喜一が立ち上がって、

「お前こそ、自分の事をちゃんと考えた方がいい。お前がしてるのは、恋愛と言えるようなもんじゃないだろ」

そう言うと、リビングを出て行った。

「…二人が合体すれば、ちょうどなのに」

光平は、二人の様子を見ながら、ポツリと呟いた。


数日後。

喜一は再び、店内で翔子と遭遇していた。

喜一は、満面の笑みで、自分を見つめる翔子に、少し戸惑っていた。

相手にしてみると、同級生なのだから、親しみを込めてくれているのだろうが、喜一にしてみると対処に悩む状況だ。

「何かオススメの本ある?日向くんって、高校生の時も、よく本を読んでたものね」

「…知ってるの?」

「うん。日向くん、人気あったし」

「は?」

空耳?と、喜一は思ってしまうほどだった。

自分では、暗くて影の薄いキャラクターを通していたつもりだったからだ。

「日向くんって、知的な感じして、上品で…なんか綺麗な男の子だったから。それで、声をかけにくいのもあったんだけど」

思えば、あの頃から自分に自信など無かった。

周りに変な奴だと思われないように、神経を使って生活していた。

「ねぇ、日向くん。良かったら、今度ランチでも行かない?」

「え?…あ、うん…いいけど…」

喜一は、気持ちとは裏腹にそう答えた。

親しくなるのが苦手で、相手を傷付ける事を恐れるあまり、はっきり断るという事が、女性に対しては上手く言えない。

自分でも、そこは治したい癖だった。

「また、お店に寄るね」

翔子は嬉しそうに微笑むと、手を振った。

喜一もつられて、胸まであげた手を、ハッとして、慌てて引っ込めた。



店を閉めて外へ出ると、陽二は夜空を見上げた。

最近、家に帰らない事が多かった。

ただし、泊まる先は女ばかりではないが。

喧嘩とか、顔が見たくないとか、そんな事ではなかったが、また喜一と話すと余計な事を言ってしまいそうで、そんな自分が嫌だったのだ。

今日はどうしようか考えていると、携帯が鳴った。

光平である。

「ねぇ、今日は帰って来る?」

電話に出るなり、光平が聞いてきた。

「何だよ。俺がいないのなんて日常茶飯事だろ」

「そうだけど…陽二くんじゃないと解らない事を相談したいんだよね」

「…また、夢の話?」

陽二は、それもいつもの事で、わざわざ呼び戻してまで聞く話か?と思った。

「でも、今回はちょっと変なんだよ」

光平が続ける。

「うちの店に来たの。夢で見た人が」

「…はぁ?」

陽二は少し考えて、

「見間違いじゃねぇの?」

「…違うと思う。よく解らないけど、普通とは違うっていう確信があるんだ」

光平は、ひどく不安そうな声だった。

「…解ったよ」

陽二は小さく肩で息を吐くと、

「これから帰るから」

「うん。今、俺に誰か憑いてるか確認して欲しい」

「了解」

陽二は電話を切ると、足早に歩き出した。

光平があんなに困った声で、自分を頼りにしてると思うと、喜一との仲が気まずいなんて事は、二の次だった。

なんて弟思いなんだろう、俺。

陽二は心の中で、そう呟いた。


リビングで、陽二はじーっと光平を見つめていた。

光平が、恐る恐る、

「…誰か…憑いてる?」

と、尋ねる。

「…いや」

陽二が首を振る。

「本当に?…今は、いないのかな…」

光平は、自分が見える訳でもないのに、辺りをキョロキョロ見回した。

「夢に出て来たのは女だったんだろ?おっさんは三人くらい憑いてるけどな」

「えぇっ!」

光平がバタバタし始める。

「落ち着け。ただ、なんとなく来ちゃっただけみたいだから」

陽二はそう言うと、光平の両肩を叩いた。

光平は、ハァーっと息をつくと、

「なんか、重い気はしてたんだ」

と言った。

「その夢の女、如月さんからも特に連絡はないし…事件って訳じゃないなら、気にしなくていいんじゃねぇの?」

陽二はそう言って、冷蔵庫からビールを取り出した。

「そうなのかなぁ…俺としては、結構引っ掛かってるんだけど」

光平が納得いかない顔をする。

「しばらく初美ちゃんの顔も見てないなぁ。元気にしてるかな」

陽二がビールを飲みながらソファに座る。

「兄貴の所に来ないって事は、警察が頑張って事件解決してるって事だから、いいんじゃないの?」

「そうだけど…なんか初美ちゃんって気になる存在なんだよね。頑張れてるかなぁ、って心配になる」

「あれ?やだなぁ、陽二くん、マジ恋?」

光平が、ひやかすように言う。

「どうだろ。よく解んねぇ」

「新しい展開だねっ」

光平がワクワクした顔になる。

確かに。

適当に遊んでみたいという感覚とは違う。

だからと言って、それがなんなのか、今は考えても答えが出る気はしなかった。

「そういえば、兄貴は?」

「自分の部屋だよ。今日は帰ってから、ずっと部屋にいるみたい」

「ふぅーん」

「別に、陽二くんが早く帰ってきたから、って訳じゃないみたいだよ?念のため言っておくけど」

光平は、チラッと陽二の顔を伺った。

「ふぅーん」

陽二は、わざと興味のない返事をした。

すると光平が、陽二の肩に手を置いて、

「言ってくれば?ごめん、って」

「はぁ!?」

「素直になりなよ」

光平は、ニッコリ微笑んだ。

陽二はその手を振り払うと、噛みつきそうな顔をして、リビングを出て言った。

別に喧嘩なんかしてないし。

俺だって悪くねえ。

陽二は、二階の喜一の部屋を横目で見ると、自分の部屋へ入って行った。

光平が、やれやれ、とソファに座る。

その時、光平に陽二からメールが届いた。

『明日カラー予約しといて』

「…ったく、天邪鬼なんだから」

光平は、フッと微笑んだ。


翌日。

休みだった陽二は、予定通りに光平の店で髪を染めた。

光平が朝一番に予約を入れたおかげで、早起きをした陽二は何度も椅子の上で眠り込みそうになった。

「昼飯、行かない?」

「陽二くんとランチなんて、初めてじゃない?」

「お前のせいで、一日が長く使えそうだからな」

陽二は、そう言って微笑んだ。

「ちょっと待ってて。今用意する」

その言葉に、陽二は外へ出て待つ事にした。

ふと、見覚えのある人物が歩いて来るのが見えた。

「…あ?…初美ちゃん?」

陽二が声を掛けると、少しぼんやりしながら歩いていた初美は、ハッと顔を上げた。

「久しぶり、仕事中?」

それが陽二だと気付くと、初美は頭を下げた。

「はい。ちょっと聞き込みで…」

初美が、どことなく翳りのある顔で答える。

「…どしたの?元気ない?」

「え…いえ、そんな事は…」

明らかに、少し動揺しているふうに見える。

その時、店から光平が出て来た。

「あれ?初美ちゃんだ。こんにちは」

光平は、ニッコリと笑顔で挨拶をした。

そして、初美の様子が普通じゃない事も、すぐに解った。

「あ、初美ちゃんも一緒にどうですか?これから陽二くんとランチなんだよ」

すると初美は少し迷って、

「でも…皆さんで待ち合わせなら、邪魔じゃないですか?」

「皆さん?」

陽二が聞くと、初美が慌てて、

「あ、違うんですか?あ、私、また余計な事を…」

「どうしたの?」

光平が不思議そうに尋ねると、初美は小さな声で、

「さっき…喜一さんも見掛けたので…皆さんと約束してるのかと…」

「兄貴が?…確か、今日は休みじゃなかった?近くで見た?」

陽二が尋ねながら、辺りを見回す。

「ええ。近くで…」

「兄貴と喋った?」

光平の言葉に、初美がおどおどして、

「お邪魔になると申し訳ないので、お話はしてません」

「邪魔って、兄貴、なんか忙しそうだった?」

そう言って振り向いた先に、突然喜一の姿があって、陽二は飛び上がりそうになった。

「あ…」

喜一も気付いて立ち止まる。

「こんにちは」

喜一の横にいた女が、笑顔で頭を下げる。

まさかの、女連れ。

陽二は驚きのあまり、言葉を失っていた。

「あっ!」

光平が妙な声を出す。

すると女が光平を見て、

「先日はお世話になりました」

と、明るく言った。

「知り合い?」

喜一が尋ねる。

「この前、ここの美容室に来たの」

「す、すみません、お客様に向かって、今のリアクションは失礼ですよね」

光平が、慌てて頭を下げた。

「…さっき話してた、弟だよ。こっちが光平で、こっちが陽二。で…」

喜一がそう言いながら、初美を見る。

「…なんだか縁のある、警察官の藤野さん」

不思議な紹介だったが、とりあえず初美も頭を下げる。

「警察の方と知り合いなの?喜一くん」

「ひょんな事からそうなって」

今までの経緯を、ひょんな事で片付けてしまうのか。

と、陽二と光平は思った。

「浅倉翔子です」

浅倉?

この前言ってた、例の同級生か。

やっぱり数段レベルアップしている。

卒業アルバムで見たより、ずっと可愛くなってるじゃないか。

陽二は会釈しながら、そんな事を考えていた。

「弟さんの美容室だったなんて、すごい偶然」

翔子が楽しそうに言った。

が、光平は少し笑顔をひきつらせていた。

それに気付いた陽二が、

「これから光平と飯行くんだけど、良かったら一緒する?兄貴」

「え?」

喜一が、ちょっと嫌そうな声を出す。

「面白そうじゃん?初美ちゃんも行こうよ」

陽二の誘いに、

「わ、私は…まだ仕事の途中なので…し、失礼します」

初美はそう言うと、くるりと向きを変えて、足早にその場を離れて行ってしまった。

「楽しそうね」

翔子は、かなり乗り気のようだ。

「じゃあ、決まりだな」

陽二が光平を促して、先に歩き出す。

喜一も諦めて、それに続いた。

歩きながら陽二が小声で光平に尋ねる。

「あの子なんだ?お前の夢に出て来たの」

光平が、微かに頷く。

「どう見ても生きてる」

陽二はそう呟くと、この状況を楽しんでいるかのように、口の端で微笑んだ。


食事の間も、主に会話の主導権は陽二にあった。

社交的で人見知りをしない。

おまけに相手が女性だと、尚更その威力を発揮する。

それでも翔子は、喜一に向かって話を振る事が多かった。

当の喜一は、まだ慣れていない相手な上に、予期していなかった弟達との合流で、益々戸惑っていた。

光平は、あまり口数は多くなかったが、翔子の様子を探りながら、ほどよく会話に参加していた。

陽二は、光平の休憩時間のリミットを気にして、切り出した。

「それにしても…兄貴は鈍いよね。翔子さんみたいな人が同級生にいた事を覚えてないなんて。俺なら、絶対覚えてるよ」

「そんな事ないわ。私、目立つ方じゃなかったし」

「きっと翔子さんなら美少女だったはずだよ。もし、姉さんとか妹がいるなら、紹介して欲しいくらい」

翔子は、一瞬、陽二の目を見て止まった。

そして、すぐに

「ねぇ、それって、私本人じゃダメって意味?」

と微笑んだ。

「そうじゃないよ。だって翔子さんには兄貴が―」

「陽二っ」

喜一が少し強い口調で、陽二を見た。

陽二はお構いなしに、少しだけ翔子に向かって身を乗り出すと、

「ねぇ…いるんじゃない?本当に。お姉さんか妹」

翔子は笑顔を止めると、陽二を見つめ返した。

「…どうして?」

「俺、実はね…そういうの解っちゃう不思議な力があるんだ」

まるで心理を見透かすように、陽二はじっと翔子の目を見つめると、

「なーんちゃって」

と、微笑んだ。

しかし、翔子に笑顔は戻っていなかった。

翔子は、視線を落とすと、

「…いたわよ。妹」

「…いた?」

陽二が聞き返すと、翔子は曇った空気を払うかのように、

「死んだの。三年前に」

と、明るく答えた。

「あ…ごめん、辛い事言わせちゃって…」

陽二が申し訳なさそうな顔をする。

「いいのよ。知らなかったんだし。いつまでも落ち込んでいられないから大丈夫」

「翔子さんに似て、可愛い妹さんだったんだろうな」

陽二がそう言うと、翔子は少し照れ臭そうに、

「可愛いかどうかは解らないけど…確かに似てはいたかもね。双子だったから」

と、言った。

光平は、その言葉に、思わず陽二を見た。

陽二も、何かを含んだ眼差しで応える。

そんな二人を見ていた喜一が、

「光平、そろそろ時間じゃないの?」

「え?あ、そうだね。俺行かなくちゃ」

「じゃ、出ようか」

陽二はそう言って、伝票を取った。

「二人の邪魔したお詫びに、ここは俺が」

陽二は立ち上がると、さっさと会計に向かった。

店の外へ出ると、翔子が陽二の前に来て、

「ごちそうさま」

と、頭を下げた。

「また機会があれば、会いましょう」

陽二が笑顔を返す。

喜一の視線が、何か言いたげに陽二に向けられている。

それに気付くと、陽二は近付いて、

「解ってるって。ちゃんと帰ったら話すよ」

と、囁いた。

二人の姿を見送ると、喜一は翔子に向き直って、

「弟がデリカシーのない事を聞いてごめん…悪気はないんだけど、あいつは調子に乗りやすくて」

と、詫びた。

翔子は笑顔になると、

「解ってる。いいのよ。知らなかったんだもん。でも…」

翔子は少しの間をあけて、

「もし、喜一くんが本当に申し訳ないと思ってくれるなら、お願いがある」

と、言った。


帰宅した陽二が最初に見たのは、思いきり不機嫌な喜一の顔だった。

時間が経てば、多少はクールダウンするかと思い、あちこち時間を潰して来たのだが、無駄だったようだ。

「あれ?まだ怒ってる?」

陽二がそう聞くと、喜一は溜め息をついて、

「お前のおかげで、ひとつ約束させられた」

と、面白くない顔で答えた。

「何?それ」

「お前が失礼な事を言ったから…悪いと思ってるならディナーに行けってさ」

陽二は少しポカンとして、次にクスクス笑いだした。

「なんだよ。彼女の計画に協力した形になっただけじゃん」

「とんだペナルティだ」

喜一はチラリと陽二を睨み付けると、

「それに…お前達が何か企んでるのも、すぐに解った」

陽二は、バレたかとでも言うように、肩をすくめた。

「実は、光平が夢で見た人間が、実際に生きてて店に来た、って言うからさ」

「…それが浅倉さんなのか?」

「察しがいいね、さすが兄貴」

陽二はわざとらしいくらいの言い方で、賞賛してみせた。

「何かの間違いじゃないのか?」

「俺も最初はそう思ったよ。でも…今日の話で案外当たってるかも、って思った」

「双子の妹の事か?」

「またまた、さすがだね、兄貴」

陽二が手を叩く。

「…今回は、事件性は無いんじゃないのか?三年も前の話だし」

喜一が言うと、陽二が少し真面目な顔をした。

「三年前は、事件だったかもしれないじゃん」

喜一が陽二を見つめる。

「死因を聞いた訳じゃないだろ?だったら、どんな死に方をしたのか解らない」

「だとしても…」

喜一は、ハッとした。

「まさか、お前…」

「ああ。兄貴なら、妹の気持ちを伝えてやる事が出来るだろ。」

「…そんな事」

「何か…偶然じゃない気がする。光平が夢を見たのも事実だし。これって、母さんの言う…全てに意味がある、ってやつなんじゃないのかな?」

「…僕が妙な力を持ってるって、打ち明けろって言うのか?」

「構わないんじゃない?彼女は兄貴を否定しないよ」

「なぜ言い切れる?」

「だって、彼女は兄貴に好意的だ」

沈黙が訪れる。

喜一は、彼女に関しては、なんと返したら良いのか解らなかった。

陽二は、ただ喜一の言葉を待った。

しばらくその状態でいると、帰宅した光平が入ってきた。

「ただい…ま」

異様な空気に光平は、動きを止めると、見つめあったままの二人に、

「…仲がいいの?悪いの?」

と、尋ねた。

「喧嘩じゃねえよ?」

陽二が答える 。

「おかえり。今、夢の事を聞いたところだ」

喜一が光平を見る。

「そっか…」

光平はソファに腰を下ろすと、

「で、どう思う?俺が夢で見たのって、やっぱり妹さんかな?」

「じゃねえの?死んでるって言うんだから、妹が」

「疲れたから、部屋にいるよ」

喜一が立ち上がると、リビングを出て行く。

光平はその姿を見送ると、

「…喧嘩じゃないのに、兄貴どうしたの?なんか様子が変じゃない?」

「うーん…愛される事に慣れていないのか、愛するという事に臆病なのか」

「なに?それ」

光平がクスッと笑う。

「なぁ、光平。俺達が会った時、初美ちゃんの様子がおかしかったろ?あれって、やっぱり翔子さんのせいだよな?」

「女の人の扱いが得意な陽二くんがそう感じるなら…そうなのかも」

「まさか、初美ちゃんは兄貴の事…」

陽二はつまらなさそうな顔をして、

「だとしたら…なんか最近兄貴ばっかりモテてる気がして…なんで兄貴が…」

「それは仕方ないよ」

光平は得意げに、

「陽二くんに好みのタイプがあるのと一緒だよ」

と、言った。


翔子と約束するはめになったディナーは、すぐに決行された。

最初に比べれば、会話をしていても苦ではなくなったが、気持ちの上で無防備でいるには、まだ時間が必要だった。

そのうえ、時々翔子が腕を掴んだり、喜一を誘導するために手を引いたりするスキンシップのせいで、益々自分のペースを失っていく。

それでも、なんとかスケジュールをこなして、夕食を終えると、喜一は少しホッとした。

「ねぇ、喜一くん」

駅へ向かって歩きながら、翔子が呟く。

「ちょっとだけ、本当だったらいいのに、って思ったの」

喜一は、不思議そうな顔をした。

「…ほら、この前…陽二くんが言ったでしょ?私に妹がいるって事が解る力があるって」

喜一は心の中で、本当は僕がそうなんだけど、と訂正した。

「…妹の気持ち、解ったらいいなぁ、って思うのよね」

「…そうなの?何か、心残りな事でもある?」

喜一の問い掛けに、翔子は足を止めた。

「妹は…事故で死んだの」

翔子の目が、少し悲しげに曇った。

「妹は…三年前に、海外旅行に行った先で、事故に巻き込まれたの」

喜一は、黙って耳を傾けていた。

「…日本に帰ってきた妹は…血だらけのパスポートと、お気に入りの服と…初めてのお給料で買ってから大切にしてた、指環をつけた指だけだったの」

その言葉に、喜一は胸が痛んだ。

「ごめん…弟のせいで、また辛い瞬間を思い出させた…」

「ううん…忘れるなんて出来ない事だから」

翔子は、少しだけ微笑むと、

「私、小さい頃に両親を亡くしてるから…妹と一緒に叔母に育てられたの。だから、本当の家族は妹だけで…」

「あの…」

喜一は思わず口を開いた。

「…辛いなら…話さなくていいよ…無理、しないで」

喜一は、どうしたらいいのか解らなかった。

正直、そんな翔子を慰める言葉を、見つけられないと思った。

次の瞬間、翔子が突然、喜一に抱きついた。

唖然として固まっていると、翔子が囁くように言った。

「…ごめん…少しだけ、頼らせて…」

喜一は動揺していたが、ここで翔子を振りほどくのは、さすがに違うだろうと、じっと動かずにいた。

悲しみに押し潰されそうに、肩を震わせている翔子は、ひどく弱々しかった。

こういう時、陽二ならどうするんだろう。

いや、陽二の規準で考えない方がいいかもしれない。

あいつは人並みじゃないだろうから。

試行錯誤している喜一にとって、それはとてつもなく長い時間に思えた。


「で?どういう事?」

陽二がテーブルに置かれた封筒を手にして喜一に尋ねた。

「兄貴、その気は無いんじゃなかったのかよ」

陽二の追及に、喜一は重い口を開いた。

「…なんか、気の毒になっちゃって」

「だからって、俺に本当にそんな力があるなんて言う?しかも、嘘だし」

「つい」

陽二は大きく溜め息をついた。

「まあまあ、兄貴が実は優しくて情があるなんて、最初から解ってる事だし。いいんじゃない?」

横で聞いていた光平が口を挟む。

「だったら、自分がそうだって言えばいいじゃん。実際に見るのは兄貴なんだから」

「いつも兄貴に迷惑かけてるんだから、たまには言う事きいてあげたら?」

「迷惑なんか、かけてねえし」

陽二が面白くない顔をする。

「とりあえず」

喜一が封筒を奪い返すと、

「陽二が見た、って事で伝えるから」

「…ったく。どういう心境の変化だよ。キスでもされたか?」

キスはされていないが。

確かに、抱きつかれたのは予期していない事で、動揺はした。

「…おい、光平。今、兄貴の視線が泳いだよな?まさか本当に…」

「陽二くん、野暮な事は言わないの。たとえキスしたとしても、それ以上だったとしても、兄貴にとっては大きな進歩だから、喜んであげないと」

光平はニコニコしながら、そう言った。

「それ以上って…」

陽二は一瞬想像してしまって、首を振った。

「ね、兄貴。見てみたら?」

光平が身を乗り出す。

喜一は、封筒の中身をテーブルに空けた。

妹と二人で写っている写真と、ネックレスが出て来た。

喜一は、事故死とだけ聞いていたが、どんな光景が見えるのか、覚悟を決めた。

そして大きく息を吐くと、

「また気絶したら頼むよ」

と言って、目を閉じた。

じっと動かずに集中している喜一の目元が、少し歪む。

「…大丈夫?」

光平が、心配そうに言った次の瞬間、喜一が目を開けた。

「大丈夫だったみたい。どうだった?」

陽二が尋ねると、喜一は悩んだような顔で、ネックレスを見つめた。

「…酷かったの?」

光平も、顔を覗き込む。

喜一は二人の顔を交互に見ると、

「…何も、見えない」

と、呟いた。

「え?何も?」

光平の問い掛けに、喜一が頷く。

「なんか…雑念でも入ってるんじゃないの?」

陽二がそう言った時、喜一の中に再び翔子の感触が蘇ってきた。

「もう少し、時間を空けてからチャレンジしたら?俺、その事故の事、調べてみる。名前、なんだっけ?」

光平が喜一を見て聞いた。

「確か…浅倉…舞子」

「了解っ」

光平はそう言って、リビングを出て行った。

納得のいかない顔で、ネックレスを見つめる喜一に、陽二が、

「…兄貴も、実は翔子さんの事、気になり始めてんじゃないの?」

「は?」

「ほら、恋した時の人間って、変なテンションになったりするじゃん」

しばらく恋なんて感覚を忘れている喜一にとって、果たして今の自分がそうなのか判断するのは、至難の技だった。

「まあ…光平の言う通り、もう少し時間を空けてみたら?」

陽二はそう言って、光平の部屋に向かった。

一人残された喜一は、ネックレスを置くと、ソファに寝転んだ。

確かに翔子に同情はした。

なんとか力になりたいとも思った。

でも、それが恋なのか?

喜一は両手で顔を覆って、深い溜め息をついた。

部屋に入ると、光平がパソコンに向かっていた。

「どう?」

陽二がベッドに腰掛ける。

「うん。意外とすぐに出てきたよ」

光平はそう言うと、プリントアウトしたニュースの記事を陽二に差し出した。

「被害者の中に、名前あるでしょ?年も兄貴と一緒だし」

「うわ…観光バスの爆発事故か」

目を通していた陽二が、嫌な顔をする。

「うん。翔子さんは強いんだなぁ、って思った。三年しか経ってないのに、ちゃんと普通にしてるもん」

「だな。俺が最初に姉妹がいたら紹介してくれ、って言った時の事覚えてるか?一発目は上手く交わしてただろ?あんなふうに言えないよな」

「防衛本能かもしれないけどね。妹さんの話題には、どう対処したらいいか、ずっと考えて生きてきたんだろうね。自分も傷つかないために」

そう言った光平を、陽二はじっと見つめて、

「さっき、写真見たろ?夢に出て来たの、妹だったか?」

「うん。あの雰囲気そのままだったし」

「そっか…でもさ、一応、如月さんに相談してみない?」

光平はきょとんとして、

「なんで?初美ちゃんに会いたくなったの?」

「バカ。それもなくはないけど」

陽二は記事に視線を向けて、

「ちょっと府に落ちてないんだよなぁ」

「なにが?」

「だって…俺にも見えないんだもん。お前から聞いただけで、憑いてるのは見えてない。兄貴にも何も見えなかった、って事は…」

陽二は、光平に詰め寄ると、

「妹、本当に死んでると思う?」

「え!?」

光平が目を丸くする。

「だ、だって…俺の夢には出てきたし、その事故だって…被害者の名前にあるし…」

「…じゃあ、兄貴が預かった物は、他の人間の物か」

「間違えた可能性はあるよ?仲のいい姉妹なら、お揃いの物を持ってたり、貸し借りしてる間に入れ替わってたり…」

「入れ替わる?」

陽二の言葉に、光平がハッとして黙る。

そして、しばらくの沈黙の後、

「まさか陽二くん…本気でそんな事思ってる?」

「だって…写真で見ても二人はそっくりだし…実際に死んだのが、もしかしたら翔子で…」

「じ、じゃあ…俺達が会ったのが、舞子さん…って事?」

「バカげてる」

いきなり喜一が入ってきて、二人は同時に飛び上がった。

「びっくりした!」

「立ち聞きかよ、兄貴っ」

「お前達の声が大きくて聞こえた」

喜一は冷静にそう言うと、陽二が持っていた記事を手に取った。

そして、ざっと目を通すと、

「もし、彼女が妹と入れ替わってるとして…だったら、なんで気持ちを知りたいなんて言う必要がある?」

「そりゃあ…どういう経緯で入れ替わったか知らないけど…恨んでないか、とか…文句言ってんじゃないかとか、そういうんじゃねえの?」

「違うな」

陽二の言葉を喜一が否定する。

「僕は、陽二がどこまで見えるか具体的な話はしていない。もしかしたら、自分が入れ替わっている事も見破られる程の能力かもしれない…そんなリスクがあるのに依頼なんかしないだろ」

うーん、と光平が悩んだ後に、

「じゃあ、兄貴に見えないのはどうして?もしかして、力無くなっちゃったの?」

喜一は、それも悪くないと思った。

あの力のせいで、どれだけ嫌な思いをしてきた事か。

「やっぱり如月さんに話してみようぜ。何か解るかもしれないし」

陽二が言う。

喜一は、光平の部屋にある母の写真を見た。

写真の前に、形見のブローチがある。

喜一は、それを手に取ると、

「…無くなってない」

と、言った。

「母さんの記憶は見える」

「じゃあ、翔子さんに限ってか…マジに色ボケのせいだったりして」

そう言った陽二を、喜一が睨み付ける。

「冗談だよ。俺、明日にでも如月さんに連絡してみるよ。兄貴や光平がどう思おうと、俺の気が済まないからな」

陽二の言葉に、喜一が諦めたように息をついた。

「ねぇ、ちょっと聞いていい?」

光平が遠慮がちに口を開く。

「…母さんの記憶って、どんなものが見えるの?」

「そういえば、聞いた事無かったな」

陽二もそう言って喜一を見る。

喜一は少し穏やかさを取り戻した顔で二人を見ると、

「ほとんどが僕達の姿だよ」

と言った。

それを聞いた陽二と光平は、顔を見合わせて微笑んだ。



翌日。

連絡をすると、如月は初美を伴って、昼休みの陽二に会いに来た。

近くのハンバーガーショップで落ち合うと、陽二はまず空腹を満たしてから、これまでの経緯を説明した。

「だから、翔子さんは兄貴の恋人って訳じゃないみたい」

陽二が初美に向かってそう言った。

「え…そ、そうですか…」

初美が動揺しながら答える。

ちょっとホッとした顔になっちゃって。

陽二は少し面白くなかった。

「でもなぁ」

如月が腕組をして、

「バスの中は密室状態だし、誰も助からないような爆発だった訳だから…運良く逃げられる可能性なんて、ほぼゼロだろう」

「じゃあ、なんで兄貴や俺には何も見えないんだと思う?俺だって、本気で兄貴が色ボケしてるせいだなんて思ってない」

「しかし…人間が入れ替わって生きるなんて…」

「普通なら難しいかもしれない。でも、翔子さんは双子だし、家族もいないんだぜ?」

「でも…お友達や、仕事の関係の方はいますよね?仲良しの人なら、気づくんじゃないでしょうか」

初美の言葉に、それもそうか、と陽二が悩み出す。

「警察として捜査を許されるとは思えないけど、個人的には彼女の事を気にとめておくよ。何か引っ掛かる事があれば、連絡する」

如月はそう言うと、

「ところで…元気?皆」

と、尋ねた。

陽二は、如月の言わんとしている事にすぐ気づくと、

「光平は頑張って母さんの店を守ってるよ。今度、プライベートで家にも顔出せばいいんじゃない?父親なんだから遠慮しないで」

その言葉に、如月は微笑んだ。

「ありがとう。そのうちお邪魔するよ」

すると陽二は初美に向いて、

「もちろん、初美ちゃんも大歓迎」

と、ニッコリ笑った。

「は、はい」

初美は明らかに最初より明るい顔で返事をした。

これも、喜一と翔子が恋人じゃないと解った効果なのか。

やっぱり、ちょっと面白くないな。

陽二は顔に出さずに、そう思った。


仕事を終えて、喜一はとあるカフェで翔子と向かい合っていた。

「…ごめん。何も解らなかった」

喜一はそう言って、預かっていた封筒を、テーブルの上に置いた。

翔子が、じっとそれを見つめる。

「解らなかったというか…何も見えなかった」

「どういう事?」

翔子は封筒の中から、ネックレスを取り出すと、

「舞子は、何も思っていなかったのかしら」

「そうじゃないと思うけど…」

喜一は意を決して、

「本当は、その力があるのは陽二じゃなく…僕なんだ」

翔子が驚いて顔を上げる。

「嘘をついてごめん…信じられないかもしれないけど…でも、僕もこんな事は初めてで…見ようとして何も見えないなんて…」

「…大変だったでしょうね、今まで」

翔子の言葉に、喜一も少し驚いた顔をした。

「…本気で信じるの?」

「だって…私が見て欲しいって言ったのよ?信じてなきゃ、お願いなんてしないわ」

翔子が笑顔になった。

喜一もホッとした時、カフェに陽二が入ってきた。

「お待たせ」

陽二は翔子に向かって、微笑むと会釈した。

「あ、ごめん、陽二。今、本当の事を打ち明けたところで…」

「は?そうなの?じゃあ、俺は芝居しなくていいのか?」

陽二は安心したように言うと、

「それなら遠慮なく話せるな。今日は無理言って同席させて貰ってすみません。どうしても聞きたい事があって」

「構いません。どうぞ」

翔子も穏やかな笑顔で、受け入れる。

喜一は内心ハラハラしていた。

頼むから、面と向かって、入れ替わっていないか聞くような真似はしないでくれ。

「舞子さんって、旅行には一人で?」

「ええ…元々、一人で色んな所に行くのが好きな子で」

「そっか」

陽二は、さっきから自分に向けられている喜一の視線に気づくと、まるで、解ってるよ、とでも言うように、口の端で笑った。

「ねぇ、翔子さん。もう一度だけ、チャンスくれる?」

「…チャンス?」

「うん。舞子さんが亡くなった時に身に付けてた物…良かったら、それを兄貴に見させて欲しい」

「えっ!?」

声を上げたのは、喜一だった。

「お前っ…」

「いいじゃん。一度は何が見えてもいいって覚悟したんだろ?倒れたら俺が介抱してやるから」

「倒れる!?」

今度は翔子が声を上げた。

「あ、こっちの話です」

陽二がニッコリ笑う。

「翔子さんの家に行くのがマズイなら、また貸して貰えればいいんだけど」

「陽二、いくらなんでも家はまずいだろ」

「いいわよ」

翔子があっさり言った。

「喜一くんと、弟さんだもん。信用してるし」

翔子が微笑む。

参ったな、と喜一は思った。

殺害現場の血痕もヘビーだったが、爆発事故も相当ヘビーなはずだ。

自分を頼ってくれている翔子の前で、あの時のような醜態を晒すかもしれないと思うと、喜一は気が重くなった。

「じゃ、早い方がいいよね?俺、車で来たから、送るついでに寄っていいかな?」

彼女にだって、心の準備とか部屋の準備とか…。

そう思った喜一と裏腹に、気づけばこのまま翔子の家に向かうという結論に、いつの間にか達していた。

この展開の早さが、陽二が普段、女の部屋に上がり込める秘訣なのだろうか。


翔子の部屋は、割りと新しいマンションの三階にあった。

室内は、きちんと整頓されていて、部屋の片隅にあるチェストの上に、舞子の写真があった。

それは、彼女の物らしきアクセサリー、花瓶の花、そして小さな骨壷と共に並べられていた。

「これが…そうなの」

翔子が小さい巾着から取り出したのは、指環だった。

少し変形していて、傷もついていた。

喜一は、やけに生々しく感じて、少しだけ緊張した。

「これで見えるのかな…なんだか、少し怖いな」

翔子が胸に手を当てて、大きく息を吐いた。

「兄貴、頼む」

陽二がそう言って、指環を差し出す。

喜一は、ゆっくりと深呼吸すると、それを受け取った。

二人は、精神を集中させている喜一を、黙って見守った。

少しすると、喜一の体が、フラリと揺れた。

咄嗟に陽二が、支えの腕を伸ばす。

「喜一くん?」

「兄貴、大丈夫か?」

喜一は、倒れはしなかったものの、ひどい目眩のような感覚に襲われていた。

翔子に促されてソファに座った喜一は、落ち着きを取り戻すと、呟いた。

「…見えた」

翔子が動揺して、思わず自分の口を両手で覆った。

「聞ける?翔子さん」

陽二が優しく問い掛けると、翔子はぎこちなく頷いた。

喜一は、口にするのを躊躇っていた。

真実が、必ずしも良い結果とは限らない。

しかし、自分の見た事が事実なら、明らかにしなければ。

「…最期は…衝撃がすごくて…映像らしき物はよく解らない」

喜一はそう言ってから、

「でも…舞子さんの姿が見えた。すごく、楽しそうに笑って…」

妹の幸せな記憶。

妹は人生を楽しんでいたという事か。

翔子はそんな事を思い、少しホッとした。

しかし、それはすぐに陽二の言葉で掻き消された。

「…なんで?なんで、舞子さんの姿が見えるんだよ」

翔子は、訳の解らない顔をしている。

「…兄貴が見たのは、舞子さんの記憶のはずだろ?」

「…どういう、事…?」

翔子が頼りない声を出す。

喜一は心配そうに翔子を見つめた。

そんな気持ちを察しているのか、陽二がそっと翔子の肩に手を添えて、喜一に頷いて見せた。

喜一は視線を舞子の写真に向けると、

「鏡の前で…舞子さんの服に着替えてる女性が見えた。指環も、最後に所有してたのは舞子さんじゃない。見えるのは、その女性の記憶だ」

「死んでないかも。舞子さん」

陽二の言葉に、翔子の体が小さく震え始める。

「…待って…じゃあ、あれは一体…」

翔子が上擦った声で呟きながら、小さな骨壷を振り返る。

「…調べてみないと、なんとも言えないけど…多分、舞子さんじゃない」

喜一がそう言うと、翔子は涙が溢れそうな目で、

「生きてるなら…どうして…どうして、戻って来ないの?」

「それは…」

喜一は少し考えて、

「出て来られない事情があるか、出て来たくない理由があるって事だ」

訳が解らなくなった翔子は、耐えきれずに泣き出してしまった。

陽二は、なだめるように翔子の肩を撫でると、

「兄貴…如月さんに連絡した方がいい」

その陽二の言葉に、喜一も頷いた。




「俺の疑いは、まだ晴れてないぜ」

翌日、自宅で如月を待ちながら陽二が言った。

「は?」

「双子入れ替わり疑惑」

その答えに、喜一は溜め息をついた。

「まだそんな事言ってるのか。だとしたら、僕達に妹が生きてる事を知らせる必要はないだろ」

「いーや、人なんて、何を考えてるか解らないからな」

「浅倉さんが悪い人間とは思えないけど…」

「そりゃあ、兄貴には印象悪くなるようなところは見せないだろうけど」

「お前ね」

「まあまあ」

光平が割って入る。

「そろそろ来る時間でしょ?落ち着いて、二人ともっ」

やがて自宅の前に、一台の車が停まる気配がした。

光平はコーヒーの準備をしにキッチンへ向かう。

如月は、初美を伴ってやって来た。

「初美ちゃんだ!」

陽二が子供のように、はしゃいだ声を出した。

「妙な事になったらしいね」

光平がいれてくれたコーヒーを飲みながら、如月が尋ねる。

「やっぱり、事故で死んだのは、舞子じゃなかった」

陽二が真剣な顔をして切り出す。

「指の遺骨を預かってきました」

喜一が袋に入った小さな骨壷をテーブルに置く。

「彼女も、誰の物か解らない遺骨を、今までのように置いておくのは抵抗があるようだったので…」

だからと言って、我が家に置いておくのも抵抗があるけど。

と、聞いていた光平は思った。

「でも…」

喜一は少し悩んだ顔で、

「僕も半信半疑なんです。もし本当に舞子さんが生きているとしたら…どうして光平の夢に出てきたのか」

「だから〜、翔子が舞子で、出てきたのは死んだ翔子の方かもしれないじゃん」

陽二が言う。

「翔子が舞子じゃない、って確証も無いんだからさ」

「…陽二はそうやって、やけに浅倉さんを疑うんですけど…」

すると、傍で聞いていた光平が、

「それはきっと、翔子さんが自分より兄貴に関心を持ってるから、面白くないせいでしょ?」

と言った。

「バカ。俺だって誰でもオッケーな訳じゃねえよ。そんな事で逆恨みするような小さい男でもねえし」

この二人が加わると、よく話が脱線する。

喜一は話を戻すべく、

「それはそうと…」

と、切り替えた。

「僕が見た全く知らない女性が誰なのか…なぜ、舞子さんに成りすます必要があったのか…」

「確かに…複雑な事情はありそうだ」

如月も頷く。

「浅倉舞子の環境を、もう一度調べる必要がありそうだ」

「…成りすましの別人だったなんて」

初美は骨壷を見つめて、

「生きているとしたら…出て来られない理由はなんなんでしょう。それとも、あの爆発事故とは関係なく、別の場所で殺されているのかも…」

「いや…」

喜一が顔を上げる。

「僕が最初に預かったネックレスが、本当に舞子さんの物だとしたら…何も見えなかったので、生きている可能性大です」

「…一体、何が起きてるんだろうね」

光平も神妙な顔つきで、呟く。

その時、陽二が喜一に向かって、

「兄貴の見た女って、髪が長くて…当時の舞子さんより少し年上な感じ?」

と、尋ねた。

「…ああ、確かそうだ」

次の瞬間、全員が自分の背後を気にし始める。

「ちょっと、陽二くん、また俺!?」

光平が誰よりもうろたえながら聞いた。

「いや」

陽二が首を振って、

「初美ちゃんの後ろに」

「えっ!?」

初美が思わず立ち上がる。

「でも、如月さんを見てる。」

陽二の言葉に、如月が固まった。

すると喜一が息をついて、

「もう一度…見ます」

と呟いた。

「大丈夫か?兄貴、さっきも具合悪そうだったじゃん」

陽二が少し心配そうな顔をすると、喜一は、

「今度は倒れるかもしれないから、その時はよろしく」

そう言って、テーブルの袋に手を伸ばした。

「兄貴っ…それ…」

光平が息を飲む。

喜一は中から骨壷を取り出すと、そっと蓋を外した。

中には、小さな骨の欠片。

喜一の指が、静かにそれに触れる。

静寂の中で、陽二は、さっきの女が不敵に笑みを浮かべたように見えた。

そしてそのまま、女の姿は見えなくなった。

喜一が、ピクッと体を震わせると、目を開いた。

「兄貴っ」

光平が傍に寄ると、喜一は気分の悪そうな弱々しい声で、

「如月さんが捕まえた…麻薬の前科が…」

そう言って、フッと意識を失った。


喜一が気を失っていたのは、数分だった。

さすがに二度目となると、体にも免疫がついたのだろうか。

「なんか…力を使うたびに寿命が縮まってるって展開だったら嫌だよね」

光平が本気とも冗談ともつかない雰囲気で言った。

「そんな…ダメですっ!」

初美が悲痛な声を上げると、陽二が小さく息をついて、

「大丈夫だって。兄貴はガキの頃からそんな経験してるんだから、今頃はもう死んでてもおかしくないよ」

「縁起でもない話、やめてくれる?」

喜一が冷静に言った。

いつの間にか、如月の姿がない。

「あれ?如月さんは?」

「署に戻りました。薬物で逮捕歴がある女性を調べに」

初美がまだ少し心配そうな顔のまま、答える。

「そうか…きっと、如月さんが逮捕した人物なんだ…僕の見た映像に、如月さんもいた」

「だから、あんな恨めしい顔で如月さんを睨んでたのか」

陽二が納得したように頷く。

「あとは…覚醒剤らしき麻薬の映像。舞子さん、知らない男…クラブのような店内…」

「元々、舞子さんの知り合いだった、って事でしょうか?」

初美の問いに、喜一は少し迷って、

「かもしれません。楽しそうな舞子さんの姿が、やっぱり見えました」

「あの指環にも、そんな映像が残ってたしな」

陽二も頷く。

喜一は、ふと初美を見て、

「ところで…藤野さんは如月さんと一緒に行かなくて良かったんですか?」

陽二と光平は、顔を見合わせた。

そりゃあ、喜一の事が心配だろうから、気がつくまで傍にいても良いと、気を利かせたに決まっている。

「皆さんの話を、最後まで聞くように残されたんだと思います」

多少、それはあるだろうが、初美も鈍感らしかった。


「お腹すいた」

しばらく時間が経過して、ほどよく解けた緊張感を、更に緩めるような事を光平が言った。

「冷凍ピザでも食べる?」

喜一が冷凍庫を探りながら言った。

そして、全員が空腹を満たした頃、如月が日向家へ戻って来た。

如月の分のピザは残っていなかったため、喜一は立ち上がってキッチンへ移動すると、

「如月さん、パスタ作りましょうか?」

「ありがとう、頼むよ。喜一くんは料理が得意なんだね」

「兄貴と光平は上手いよ」

「陽二くんも、料理練習したら?」

光平がそう言って陽二をつついた。

その視線の先に、明らかにポッと喜一を見つめる初美の姿があった。

「俺は作ってもらった物を、絶賛しながら食べるのが趣味なのっ」

陽二は光平の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。

「陽二くん、この中に君が見た人はいる?」

如月が資料の束を取り出した。

「俺が逮捕した若い女をチョイスしてきた」

「持って来ちゃったのが、いいか悪いか別にして…見てみるよ」

陽二はそれを受けとると、丁寧に目を通し始める。

パスタを運んで来た喜一が、横に座って一緒に覗き込む。

「…一口、食うか?」

じっとパスタを見つめる初美に如月が皿を差し出すと、初美は満面の笑みを浮かべて頷いた。

「兄貴、この人だった?」

陽二がある写真を差し出す。

「…そうだな、この人だ」

喜一も頷く。

口いっぱいにパスタを頬張りながら、如月も横から確認すると、

「あー、覚えてるな」

そう言ってパスタを飲み込んで、

「その女、逮捕された時は大学生だったから。よく覚えてる」

「覚醒剤、ですか?」

「ああ。同じ大学の生徒にも売っていた」

「その女と舞子さんが知り合いだったのか」

陽二の言葉に、喜一が顔を上げる。

「僕に見えた、クラブの客同士だったのかも」

「ねぇ…」

光平が口を挟む。

「よく、薬関係で捕まった人は再犯するって言うじゃない?その女が、逮捕後も売人みたいな事を続けてたとしたら、舞子さんが客だった、って事も考えられない?」

「…なくは、ない。そうじゃない事を願うけど」

陽二が、気の重そうな声で答える。

それが真実だったら、翔子はどれほどショックを受けるだろう。

「あー、旨かった!」

如月がパスタを平らげて、

「今日はもう遅いし、失礼するよ。麻薬がらみの事件だとしたら、捜査も大規模になるだろうし。そのためには、もう少し、証拠を固めなきゃ」

「俺も、ちょっと探り入れてみる。そういう噂のクラブ、結構あるみたいだから」

陽二がそう言うと、

「そんなの探れる人脈があるのか?」

と、喜一が冷ややかに尋ねる。

「変な誤解すんなよ?近寄らないための情報として持ってんだからな」

陽二が、喜一の疑いの眼差しを察して言った。

「ありがとう。くれぐれも危険な事は避けてくれよ?妙な事になりそうなら、こっちに任せて」

如月が心配そうな顔をする。

「大丈夫。無茶すると、兄弟にもとばっちりが来るかもしれないし。解ってる」

陽二は光平をチラリと見て言った。

親父はちゃんと息子を心配してくれてるぞ、とでも言いたげな視線に、光平は思わず下を向いた。



数日後。

喜一は翔子を伴って、警察署を訪れていた。

会議室に通されると、如月と初美が待っていた。

「お呼び立てして申し訳ありません。如月です。こっちが藤野」

初美が頭を下げる。

「以前、お会いしましたね」

翔子は初美の顔を見て、少し安心したように言った。

「喜一くんとは、なんと言うか…遠い親戚みたいなもので…今までの事はだいたい伺っています」

如月が翔子に向き直って、

「妹の舞子さんの件ですが…こちらとしても捜査に着手しようと判断しました。ご協力願えますか?」

「舞子は見つかりますか?だったら、ぜひ協力させて下さい」

そう言った翔子を、喜一がチラリと見て、

「…それが、どんな結果になっても?想像と違う事が真実な時もあるよ」

と、小さく呟いた。

翔子は迷ったように視線を泳がせたが、

「大丈夫。いつか解る事かもしれないし。それが現実なら、構わないわ」

と、力強く言った。

「…早速ですが、この女に見覚えは?」

如月が例の女の写真を取り出す。

じっと見つめた後、翔子は首を振った。

「この女は、桑田奈津美。覚醒剤の前科があります」

如月の言葉に、翔子の顔がこわばった。

「恐らく…舞子さんと入れ替わって死んだのは、この女です」

「あの…」

翔子が震える声で、

「舞子も…覚醒剤を?」

「それは解りません…当時、お二人は別々に生活を?」

「はい…私も今と別の仕事をしていたので、お互いが会社に近い場所に部屋を借りて…時々は一緒に出掛けたり、泊まったり…」

「ちなみに、翔子さんの現在のお仕事は?」

「翻訳の仕事です。主に在宅で」

「そうですか」

時間の調整が自由に出来るから今日の呼び出しにもすぐ応じられたのだろう。

「当時、舞子さんに変わった様子はありませんでしたか?」

「…特に、思い当たりません…舞子は元々、私と違って社交的で…よく遊びにも出掛けていましたし。旅行にも一人で行く子でした。友人全てを、私も把握出来ませんでしたし…」

「あの、如月さん…」

喜一が尋ねる。

「舞子さんは、遺体の確認をしてないんですか?」

「したよ。宿泊先に残されていた私物や毛髪…使ったカップやアメニティ用品で」

「じゃあ…ホテルに入った時には、もうすでに入れ替わっていたんですか…」

その時、喜一の携帯が鳴った。

「すみません、陽二からなんですけど、いいですか?」

「ああ、構わないよ」

喜一は静かに会議室の外へ出て行った。

「…舞子は、生きているんですよね?きっと、どこかで…」

翔子が不安そうな声を出す。

「そう思っています。きっと見つけますから」

如月は微笑むと、そう答えた。

もし死んでいたら、喜一や陽二には解っているはずだ。

警察官という立場上、それが確信の元だとは言えなかったが。

電話を終えて戻って来ると、喜一が、

「如月さん、陽二からクラブの情報が何軒か…メモ、ありますか?」

「ああ、藤野」

初美が喜一に、持っていた紙とペンを差し出す。

喜一は隅の机に移動すると、何やら書き出し始めた。

「じゃあ、お願いします」

喜一は紙を如月に差し出すと、

「僕、午後から仕事があるんですけど…まだ、かかりますか?」

「あ、いや、とりあえず今日はもう結構だよ。また、連絡をすると思うけど」

「…行こうか、浅倉さん」

喜一が促すと、翔子も立ち上がった。

「よろしくお願いします」

翔子は二人に深々と頭を下げると、喜一の後に続いた。

「…なんですか?」

初美が喜一の書いたメモを、横から覗き込む。

いくつか、店名らしきものが書かれていて、その中のひとつに、大きな丸がしてあった。

そして横には、こう書かれていた。

『売人が女』


思ったより、厄介な事件かもしれないな。

如月は、繁華街に停めた車の中で、そう思っていた。

陽二から教えられたクラブは、ある暴力団組織の息が掛かっていると噂の店だった。

そこで麻薬の取り引きがされていたとしても、不思議はない。

「今日から、しばらく張り込みでしょうか」

初美が店に視線を向けながら言う。

「仕方ないだろ。足で稼ぐ情報が一番だからな」

「でも…事件になりそうだと判断しなければ動けないのも、考えものですね」

「お?やけに厳しい意見だな、同業者に対して」

「だって…何のために、警察署や交番があちこちにあるんですか?」

初美は外に視線を向けたまま、

「これじゃあ、一般市民の人達の方が、よっぽど動いてくれてますよ」

「喜一くんの事か?」

初美は黙った。

「…藤野。解ってると思うが、喜一くん達と俺達は特殊な関係で、全ての事件を彼らに委ねている訳でもないし…」

「でも…彼らは、身を削って捜査に協力してくれてます…私なんかより、ずっと」

「喜一くんの事が心配なのは解るが…」

如月は考えた。

確かに、体力を消耗する彼を見るのは心配だ。

もし、一人でいる時に、あんな状態になったら、本当に命の危険にさらされる事があるかもしれない。

「みんな、頼りすぎですっ」

みんな、とは?

自分達もそうだが、あの翔子さんの事も入っているのだろうか。

だとしたら、それは充分私情を挟んでいるのでは?

本人は、気づいているだろうか?

「そんなに喜一くんの事が…」

「何言い出すんですか!」

初美の声に、如月がびっくりして固まる。

「そんなんじゃないって言ってるじゃないですかっ」

初美がプイッと横を向く。

いや、まだ最後まで言ってないが。

図星か…。

如月は、小さく溜め息をついた。

「…如月さんっ」

初美が、如月の腕をバシバシと叩く。

「何だよっ、悪かったよ」

「違いますっ、陽二さんですよっ」

「え!?」

如月が慌てて身を乗り出す。

陽二が、店の方向へ歩いて来るのが見える。

「どうして…」

如月が急いで車を降りる。

初美も一歩遅れて、後を追い掛けた。

駆け寄って来る二人に気付くと、陽二はニッと笑った。

「あれ?どうも。お仕事中?」

「どうも、じゃないよ、陽二くん。情報提供はありがたいが、一人で動こうとするのは感心しないな」

「何言ってんの?俺、普通に客で来たんだけど?」

陽二は笑顔でそう言うと、

「ま、俺も、自分の目で確かめたい方だからさ。ちょっとだけ様子見に」

「陽二くん…ここは危ない店なんだから、無茶はしない方がいい」

「んー…だったら、一緒に行く?」

陽二はそう言って二人を眺めると、

「如月さんは…あまりにも刑事です、って感じだからなぁ。初美ちゃん、一緒に行って」

「え!?わ、私ですかっ!?」

「そ。俺のボディガードとして。もちろん、捜査の一環だよ?」

「…仕方ない、行って来い」

如月がそう言うと、陽二は初美に腕を差し出した。

「せっかくだから、恋人風に。その方が自然だし」

思わぬ役得だと思った陽二と裏腹に、初美は如月を恨めしい顔で見た。

「藤野、仕事だぞ」

そう言われて、初美は覚悟を決めると、少しだけ指の先を陽二の腕にかけて、一緒に歩き出した。

仕事とはいえ、男と腕を組んでいるなんて、初美はどうにかなりそうだった。

初美は、何度も頭の中で、大丈夫と自分に言い聞かせていた。

店内は、話し声も届かない程の大音量と、人々のざわめきで満ちていた。

嫌でも、誰かと会話をする時は、至近距離にならなければいけない。

初美は、勇気を振り絞って、陽二の耳元に近付いた。

「陽二さんっ、売人がいるかどうか、どうやって解るんですか!?」

陽二は店内を見渡して、

「きっと解る。彼女は自分の代わりに生きてる舞子さんを恨んでるはずだから、教えてくれるさ」

そう言うと、初美にウインクをした。

全く自分には無い世界の空間で、どうする事も出来ずにキョロキョロしている初美にとって、普段は苦手だと思う陽二の事も、少々頼もしく見えた。

店内を見渡していた陽二が、フッと笑った。

「ビンゴ」

車の中で連絡を待っている如月の携帯に、メールが届いた。

初美からである。

『売人らしき女を見つけました。陽二さんと尾行します』

如月は、慌てて車の外に目を凝らした。

一人の女が、店から出て来る。

それは、舞子とは別人のようだが、少しの間隔を空けて、陽二と初美がついて行くのも確認できた。

無茶はするなと言ったのに。

如月は溜め息をついた。

しばらくすると、再び初美からメールが来た。

『電車に乗るようです。着いたらまた連絡します』

「…頼むから、気づかれんなよ」

如月は、独り言を呟いた。


翌日。

如月と初美は、再び張り込みの最中だった。

ただし、現場は昨夜見た売人の女が、姿を消したとあるマンションの前だった。

「ここも、あの店と同じで、暴力団が仕切ってる物件のひとつだ」

如月が、じっとマンションを見つめる。

「それにしても…昨日の陽二さん、すごかったんですよ?尾行のコツを知ってるというか、慣れてるというか…少し、尊敬しちゃいました」

元々の陽二の素質なのか。

複数の女と付き合ううちに、身を隠すコツを習得したのか。

如月が、そんな事を思っていると、

「如月さん、あの人っ」

マンションから、一人の女が出て来た。

如月は、持って来た舞子の写真と見比べて、

「嘘。本当にいた」

と、呟いた。

如月は車を降りて、足早に女に追い付くと、

「すみません」

と、声を掛けた。

女が迷惑そうに振り向く。

間違いない。

「浅倉舞子さん?」

如月の言葉に、女は驚きの表情を見せると、次の瞬間、全速力で駆け出した。

「待ちなさい!」

如月も慌てて追い掛ける。

すると、後方からけたたましくヒールの音が近付いて来て、如月を追い抜いた。

呆気にとられている如月の目の前で、初美が女に追い付き襟元を掴んで足払いをすると、あっという間に地面に組み敷いた。

「署まで…ご同行願います…浅倉舞子さんっ」

やっと追い付いた如月は、息を切らしながら、舞子の腕を掴んでそう言った。

そして、袖を捲り、注射の痕跡を見つけると、

「残念だ…」

と、呟いた。

「…それにしても…藤野…すごいな」

「はい」

初美は少しだけ得意気に言った。

「昔から、陸上と柔術は好きだったので」


取調室でも、その女、舞子は無駄な抵抗をしなかった。

すぐに自分が浅倉舞子である事も認めた。

「三年前…君に何があった?」

如月の言葉に、舞子は小さく深呼吸をすると、

「…奈津美さんとは、クラブのお客同士で…何度か会うたびに話すようになって…彼女は、ある時、手伝って欲しい事があると言ってきました」

舞子は、じっと机の上を見つめたまま、

「奈津美さんの彼の家に…届け物をして欲しいと。交通費は払うから、との事だったので…私はそれを引き受けました」

「…もしかして、それが覚醒剤だった?」

舞子は、ギュッと目を閉じて頷いた。

「騙された、と気付いた時には、もう遅くて…私が覚醒剤を運んで報酬を受け取っている所を…正確には、彼に交通費を貰っただけのつもりだったのに…その場面を、仲間に写真で撮られました。知らなかったとはいえ、バレたら罪になると脅されて…でも、ひとつだけ約束を守れたら、解放してやると言われました…」

「約束?」

「海外から…覚醒剤を持ち込む手伝いをする事…それが出来たら、逃がしてやると…」

「逆らわなかったんですか?」

初美が尋ねる。

すると、舞子の顔が恐怖に満ちた。

「逃げた人を…見ました…」

舞子は震えながら、

「…死んでしまうんじゃないかと思うくらい…暴行を受けて…怖くて…」

「でも…」

如月が、舞子の腕を指差す。

「君も使うようになったんだろ?」

舞子は自分の腕を押さえて、今にも泣き出しそうになった。

「…向こうに着いて、私が逃げ出さないように、私物やパスポートを奈津美さんに没収されて…何かまずい事が起きた時に、少しでも自分達の素性がバレないようにするためか…奈津美さんは、ずっと私の振りをして行動していました」

「それで、あの爆発事故に…?」

「あれは…本当に予期していなかった事で…私はずっと奈津美さんの彼…実際には、組織の仲間というだけでしたが…その人とホテルに缶詰め状態で見張られていたんです。事故で奈津美さんが亡くなったと知って…私は彼女の分まで働く事になりました…それで…」

舞子は、震える手で、腕を撫でた。

「無理矢理、ですか」

如月がそう言うと、舞子の目から涙が溢れた。

「もう…私の人生は終わったと…絶望しました。全てが信じられなくて…自分のしてしまった事も、しようとしている事も…自分が常習者になっていく事も…」

舞子は、次々に流れ落ちる涙を拭いながら、

「向こうで…偽造パスポートが用意されました…名前も生年月日も私とは全く別人で…余計に、今までの私は死んだんだ、と思いました…」

「もう、逃げようとは思わなかったのかい?」

「何度も思いました」

舞子が即答する。

しかし、すぐに首を振って、

「でも私は…犯罪者なんです…自分でもどうしたらいいか解らなかったし、こんな姿を…翔子に…」

舞子が声を詰まらせる。

初美が、そっとハンカチを手渡した。

「…翔子に…こんな私を見せられない…翔子を傷付けるなら…死んだ事にしておいた方が、幸せな人生だと…」

舞子は、ハンカチで顔を覆った。

「…家族は、そんなものではないですよ」

初美が口を開く。

「翔子さんは、あなたが生きている可能性を知って、喜んだはずです。もちろん、今どんな状態か解らずに、不安だらけだったでしょうけど…翔子さんは、どんな真実にも向き合おうと覚悟をしていました。だから、信じてあげて下さい」

舞子は、嗚咽を漏らしながら、

「本当はっ…会いたかったんですっ…翔子のところに、戻りたかったっ…」

そう言って頭を上げると、如月と初美を見つめた。

「私はっ…私として…もう一度、生きられますかっ…?」

如月は少し微笑むと、頷いた。

「大丈夫です。あなたの中で、浅倉舞子は、ずっと失われていなかったでしょう?」

舞子は泣きじゃくりながら、やっとの思いで告げた。

「見つけてくれて…ありがとうございました…」


「それは、君達へのお礼だと思ったから、どうしても伝えたくてね」

全てを説明し終えた後、如月がそう言った。

日向家のリビングは、重い空気に包まれていた。

「翔子さん、面会出来るの?」

陽二が尋ねると、如月は首を振った。

「今すぐは難しい」

「そっか。辛いね、翔子さん」

光平がそう言って、全員のコーヒーにおかわりを注ぎ始める。

そして、喜一のコーヒーが全く減っていない事に気づいて、手を止めた。

「…兄貴?」

喜一は、難しい顔をしていた。

「兄貴、大丈夫?」

光平が再び声を掛けると、喜一は顔を上げた。

「如月さん…僕は、また解らなくなりました」

「何がだい?」

「…母さんが望んだ事だと思って、この力を使ってきましたけど…本当に残酷な結末や、解決したとしても先には棘の道が待っていたり…これで、人の役に立ててると言えますか?」

如月は、少し考えて、

「しかし、浅倉舞子は、確実に救われた」

と、強く言った。

「翔子さんも同じだよ。あのまま妹が死んだと思い込んで、他人の遺骨を弔う人生でいい訳がない」

「そうだよ、兄貴。実際に舞子さんはありがとうって言ってんだし」

陽二の言葉に、光平も頷いた。

「あ、そういえば」

陽二が光平を振り向いて、

「お前が見たのって、結局は生き霊だった、って事?」

「え?…うーん…」

光平が悩み始める。

「実際に生きてたわけだし、すげぇな、お前。新しい力、発揮しちゃった、って事だろ?」

「だけど、いつも見れるとは限らないし…」

「それほど、舞子が強く思っていたって事だろ」

如月が言う。

「戻りたくて、見つけて欲しくて…それが本心。心底願った事だった。だから喜一くん…」

如月は、未だ納得していない顔の喜一を見つめて、

「君の力は役に立ったんだよ」

と、言った。

「ところで如月さん、今日は初美ちゃんいないんだね」

陽二がつまらなさそうに聞いた。

「ああ。藤野も職務に燃えてるからな」

「でも、見たかったな、初美ちゃんの華麗な技」

「そのうち、自分が掛けられる時が来るかもよ」

光平がからかうと、陽二が光平の頬を思いきり引っ張った。

いつもの日向家の空気が、少しだけ戻った。

「あの爆発事故が無かったら…舞子さんは解放されていたんでしょうか?」

喜一の問い掛けに、如月が即答した。

「いや、連中はそんなに甘くないさ」

「でも、あの事故のおかげで、桑田奈津美に色々教えて貰えた事もあったし」

陽二が口を挟む。

「あの人、協力的だったから、もしかしたら自分も後悔してたのかもね。自分がしてきた事を。あ、如月さんの事だけは嫌いみたいだったけど」

陽二はそう言って、プッと吹き出した。

「ねぇ、あの骨壷、どうなるの?」

光平が尋ねる。

「こっちで預かって、親族を探すよ」

如月が答えた時、喜一が静かに立ち上がった。

全員が、その動きを目で追う。

「少し休むよ。おやすみ…」

喜一はそう言うと、ゆっくり部屋から出て行った。


数日は、何事もなく過ぎて行った。

喜一は翔子とも連絡を取らず、向こうからも何も言っては来なかった。

それは、初美から知らされた。

「今日、翔子さんが警察に来ます。舞子さんと対面は出来ませんが、確認は行います」

初美からの電話を受け、喜一は複雑な心境になった。

翔子に会いに行くべきか。

そうするべきだから、初美はわざわざ電話をしてきたのだろう。

会ってどうする?

何て言葉をかけたらいい?

「兄貴、出掛けようぜ」

陽二が後ろから声を掛ける。

「平気でしょ?俺達も一緒に行くから」

光平もニッコリ笑ってそう言った。

喜一は二人の顔をじっと見つめて、

「子供じゃあるまいし」

そう言うと、フッと笑った。


警察署に到着すると、三人は車から降りて、翔子が出て来るのを待った。

その間に陽二が、

「よくドラマに出て来るみたいな、可愛い警官の子いないかなぁ」

などと、緊張感の無い事を言って、また光平に嫌味を言われていた。

いつもと変わらぬ二人。

もしかしたら、二人は喜一に気を遣っているのかもしれない。

解りやすいが、ありがたい、と喜一は思った。

「あ…」

陽二の声に視線を向けると、初美に伴われて出て来る翔子の姿が見えた。

少し泣き腫らしたような目をした翔子は、三人の前に来ると、深々と頭を下げた。

「色々と、ありがとうございました」

喜一達も、頭を下げる。

「大丈夫?」

喜一が心配そうに尋ねる。

「うん…驚いたけど、舞子が生きてて嬉しい気持ちの方が勝ってる」

翔子は少し笑顔を見せた。

陽二と光平、初美は、少しだけ二人から離れた。

「これから、また大変になるだろうけど…」

喜一の言葉に、翔子が頷きながら、

「でも…いつか一緒に暮らすためだから、頑張れるわ、きっと」

そう言うと、天を仰いだ。

「私、いずれは引っ越そうと思うの。舞子が戻って来て一緒に住むなら、もっと静かな所がいいかな、って。もう少し田舎に住んで、ゆっくり二人の時間を取り戻したい」

「そう…いいんじゃない?」

「喜一くんに会えなくなるのは寂しいけど…時々は連絡してもいいかな?その時は…きっと、舞子とやり直せて幸せだって、報告出来るように頑張るから」

「うん…」

喜一は、前向きで健気な翔子を見て、少し胸が痛んだ。

何も、言ってあげられる事など浮かばなかった。

言葉で言うほど簡単ではないと、きっと翔子も解っているだろう。

「…あの、さ…浅倉さん…頼みがあるんだ」

「何?」

「僕達が、その妙な力があるって事…」

「うん、解ってる。大丈夫よ、誰にも言わない…舞子にも」

「そう?良かった」

翔子は笑顔で喜一を見つめると、

「本当にありがとう」

そう言って、思いきり喜一にハグをした。

思わず息を飲んで、初美が光平の腕をギューッと掴む。

「痛っ…!は、初美ちゃんっ、落ち着いてっ…」

「ご、ごめんなさいっ」

初美がおろおろしながら、光平の腕を撫でる。

喜一は多少ドギマギしていたが、なんとなく落ち着きを取り戻して、翔子の背中をポンポンと叩いた。

「じゃあ、行くね」

喜一から離れると、翔子は再び陽二達にも頭を下げて、歩き出した。

「いいのか?」

陽二が喜一に問い掛ける。

「何が?」

「こういう時、俺に出来る事は何でもしてやる、とか言ってあげないと」

「何で?」

「何で、って…翔子さんは兄貴の事…」

「僕は本人から何も言われてないし」

喜一はそう言うと、

「帰るよ」

と、車に向かった。

「帰りは俺が運転するっ」

光平はそう言って、喜一に続いた。

「兄貴には、直球で行かないと伝わらないみたいだね」

陽二が初美に耳打ちする。

「な、何の事でしょう」

初美は目を反らした。

「ま、兄貴が恋愛するチャンスかなぁ〜って期待したけど、大ハズレ」

陽二はニッと微笑むと、

「良かったね」

と囁いた。

初美が言葉を返せずにいると、陽二は手を振って車に駆けて行った。

初美は、走り去る車を見送った。

最後まで、喜一の横顔から、目が離せなかった。


「おはよう、兄貴」

光平がリビングに入って来ると、朝食の用意をしていた喜一が振り返る。

「コーヒー飲むか?」

「うん、ありがとう」

光平は目を擦りながらキョロキョロすると、

「あれ?陽二くんは?」

「さあ?帰ってないみたいだけど」

「またお泊まり?」

二人が会話していると、威勢良くドアが開き、陽二が帰宅して来た。

「おはよう、陽二くん。お早いお帰りで」

「ただいま。いきなり嫌味かよ」

「光平、今更、嫌味を言って効き目があると思うなよ」

喜一がテーブルに光平のコーヒーを運んで来る。

「あ、俺のは?」

「自分でどうぞ」

喜一は、素っ気なく言うと、さっさとキッチンへ向かった。

「なあ、光平。兄貴って、俺達の中で一番冷たくてわがままだよな?ほら、自分の意志だと危ない物にホイホイ触っちゃうくせに、人に言われると嫌な顔するし」

「モチベーションの問題だ」

キッチンから喜一の声がする。

その時、カタンと音がした。

ふと見ると、母の写真が倒れている。

「あ!大変っ」

慌てて光平が直しに行く。

「なぁ、光平。お前の夢に母さんは出て来た事ないの?」

陽二が何気なく尋ねる。

「うん、無い」

光平は、少し不満そうな顔をして、

「如月さんの事くらい、前以て教えておいて欲しかったなぁ」

「光平、お前、如月さんって呼んでるのか?」

陽二が不思議そうな顔をする。

「だって、本人がそれでいいって」

「じゃあ、いつかは父さんって呼ぶ日が来るのかもな」

「来ないかもしれないけど」

「そんな事、自然に任せておけばいい」

喜一が、ちゃんと陽二の分のコーヒーを持って来ると、

「如月さんも、呼んで欲しくないかもしれないし」

「出たよ、また兄貴の鬼発言」

「いや…案外、それもありかも…」

光平が少ししゅんとする。

「そういう関係は、無理に意識して作るもんじゃないって事だよ」

喜一はそう言うと、

「じゃあ、仕事行って来る」

と、先にリビングを出た。

「俺はシャワーしようっと、光平、後片付けよろしくな」

陽二はさっさとバスルームへ消える。

「ずるいっ」

光平は文句を言いながらも、キッチンへ歩きながら、

「あー、今日も平穏っ」

と、独り言を呟いた。

その声を、玄関で喜一が聞いていた。

今日も平穏?

今日は、だろう。

でも…

こうして三人で迎える朝が、例えどんな出来事に遭遇していても、平穏と呼べる事なのかもしれない。

そう思い直して、喜一は家を出た。







《第三話・後編・完》

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ