宿敵
受話器を取った私に対し、開口一番、最悪な気分なんです、と、アリは言った。どうやら、ラウルにはこぼせない愚痴を、私にこぼそうという腹らしい。
そのこと自体は、別に驚かなかったが、エステルの、ほとんど狂気じみたとさえ言えそうな演技を見た後では、嫌な予感はぬぐえない。
案の定だった。
「どうしてスウェーデンに来てまで、あの忌々しいイスラエルの旗を見なきゃいけないんでしょうか」
ああ、出くわしていたのか、と、私はさとった。思えば、選手同士であるのだから、その可能性は十分にあったわけである。
「知ってますか? いえ、見てますよね? 女子の演技も見るって、おっしゃってましたから。ご覧になったでしょう? イスラエルの、あのエステルという子の演技ですよ。不愉快だったらない」
アリにはたしかに、そうに違いない。しかし、声の響きから推して、どうやら話は、それだけではなさそうであった。
「他にも、不愉快な理由はあるんじゃないか?」
そう、単刀直入に聞いてみると、受話器の向こうで、アリが一瞬、息をのむのが分かった。
「わかりますか」
「もう丸二年の付き合いなんだ。そりゃあ、分かるさ」
そう言うと、彼はぼそぼそと話を始めた。
「彼女、僕の顔を見て、あからさまにびっくりしたような表情をするんです。それだけなら、まあ、慣れてます。でも、何か独り言を言って。それで、言いたいことがあるなら英語で言え、と、言ってやったんです」
うん、と、私は相づちを打った。
「そうしたら、彼女はアラビア語でしゃべった……わかりますか、この屈辱? 僕はパレスチナ人だけど、アラビア語はほとんど喋れません。小さいときに母は死んでしまったから、教わる機会がなかったんです。父を殺し、母を追いやった国の人間に、奪われた母語を話されたんです!」
私は、相づちすら打つこともできなかった。
アリは、思いっきりぶちまけるように、矢継ぎ早に言葉を連発した。早口の英語だったが、なんとか聞き取れた。
「彼女はそれで、僕がアラビア語が解らないのだと、分かったようでした。だから、彼女に言いました」
僕がアラビア語を喋れないのは、お前たちイスラエルのせいだ、って。
「でもそうしたら、彼女は、むしろ睨みつけるような顔になって、言ってきたんです」
あんたに私たちの何がわかるの、と。
「もう、不愉快きわまりないったらありません。それで始終、いらいらし通しでした」
「その割には、今日の演技の切れは良かったようだが」
私はそう、半分話題を変えるつもりで、言った。
ショートプログラムを、アリは二位で通過した。
アリは、当然ですよ、と返してきた。
「あいつに負けるわけにはいかない、って思ったんです。そりゃ、男子と女子で、違いますけれど。でも、絶対に負けたくない、って思ったんです」
私は、まずいな、と、腹の内で呟いた。
エステル・コーヘンは、ショートプログラムを、ぶっちぎりの一位で通過したのだ。
「やりますよ。僕はやります。失敗なんか、もう、怖くない。やるって、決めました」
「何を決めたんだい?」
私は少々困惑しながら、問い返した。
アリの決然とした声が、受話器の向こうから響いてきた。
「フリーで、僕は絶対に、四回転を跳びます」
私は思わず口笛を吹いた。
「やるのかい? この間、ようやく跳べるようになったばかりじゃないか」
「跳べる可能性があるのなら、僕はもう、跳ぶことにしたんです。四回転を跳ばなきゃ、確実に一位は取れない。僕は、今までで一番強く、一位を取りたいと思っています。彼女に負けたくないんです」
こんなに熱く、必死なほどに話すアリは、初めてだった。それだけ、エステルとの出会いは、彼にとって衝撃だったのだろう。
私は、慎重に言葉を選びながら、言った。
「君が四回転に挑戦するのは、素晴らしいし、私も嬉しいことだよ。最初に跳べたときから、いつ本番で跳んでくれるのかと、ずっと楽しみにしていたから。でも、四回転ばかりに集中して、いつもの君らしい、感動を与えるスケートが崩れてしまったら、それは良くないことだと思う。だから、無理はしないでほしい」
しかし、アリは、いいえ、と言った。
「いつも通りの演技を心掛けます。でも、それでも、僕は跳びます。やる価値のあることだと思うんです。今まで僕は逃げていた。今度は、僕は戦うんです」