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二人の空  作者: 蒼久斎
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エステル・コーヘン


 アリが十七歳の冬、つまり、私が最初に彼に出会ったシーズンの、次の次のシーズンは、色んな意味で、記念すべきシーズンとなった。

 その年、アリは、ついに、練習でながら、四回転ジャンプを成功させた。

 相変わらず、ミスのない演技をすることにこだわり、冒険を可能な限り避けるプログラムの組み方だったが、ここのところの基礎力の向上に伴い、彼は順調に、スウェーデンでも知られるスケーターへと、成長しつつあった。この頃から、私は時折、二人の許可を得て、ぽつぽつ、記事を書くようになった。

 人懐こい笑みを見せるくせに、妙に引っ込み思案なところのある彼は、国際大会に出ることをいやがっていたのだが、この冬は、ついに国際大会に挑戦した。それも大きなニュースの一つだった。

 だが、最も衝撃的なニュースは、この年、彼が体験した出会い、であろう。

 それは、最悪といえば、最悪の出会いであった。





 私が彼女を初めて見たのは、イェーテボリのスケートリンクだった。

 相変わらず、ひたすら選手達が滑走する姿を見ることを楽しみとしていた私は、特にアリを追いかけてはいたが、アリ以外の選手を見ていなかったわけでは、決してなかった。それに、男子の演技だけではなく、女子やペアの演技も、楽しんで見ていた。

 アリの演技に、変わらぬ心からの応援の拍手を送ったその大会も、私はいつもどおりに楽しむつもりで、女子のショートプログラムの演技を見ていた。

 だが、彼女の演技は、楽しんでみられるような、そんなものではなかった。

 場内アナウンスが、選手名と所属国名を告げた。

「エステル・コーヘン。イスラエル」

 その国名を聞いた瞬間、私は目を見開いた。

 リンクの上に、女子らしい明るさなど欠片もない、ほぼ黒一色の衣装をまとった選手が、姿を現した。ハッとするほど美しい少女だったが、容姿の華やかさを、纏う雰囲気の重さが圧し殺して余りあった。

 リンクの真ん中に、彼女はうずくまる。

 曲が開始された瞬間、彼女の全身から、重苦しいほどの悲しみが広がった。ゆっくりと動きはじめた彼女の目は、リンクの氷よりも冷たく凍りつき、どんどん冷たくなっていく彼女の雰囲気は、会場全体を凍えさせるようにすら感じさせた。

 最初のジャンプは、トリプルアクセル。女子ではトップクラスの選手しか跳べない技だというのは、さすがの私でも、もう知っていた。

 彼女は、この高難度の技で、完璧に着氷した。それだけで、会場全体が、この少女の実力を理解した。

 しかし、大技を決めておきながら、彼女の表情は、欠片もほころばなかった。むしろ、全身から、今度は殺気が漂い始める。

 モサドだ、と、近くにいた誰かが呟いた。彼女は、モサドの暗殺者の演技をしているのだ、と。

 ハイレベルな技を、彼女は正確に成功させていく。しかし、それが当たり前だとばかりに、表情は一切揺らがない。重苦しい殺気は、徐々に鋭利な刃へと姿を変えていく。暗殺者、と言った会場の誰かの言葉が、私の頭にこだました。

 冷酷なほどの無表情で、コンビネーションジャンプをこなした彼女の着氷が、わずかにぐらついたように見えた。それから彼女は、ゆっくりと氷の上を、獣のように身を低めて滑り、再び立ち上がる。冷たかった殺気が、むしろ焼け付くような憎悪に変わる。

 切れ味の鋭いステップ。全身から、憎しみが漂う。

 高速スピンを終えて、フィニッシュポーズを決めた瞬間まで、彼女の目は一切笑わなかった。

 演技が終わり、会場から、困惑混じりに拍手が響き始める。その瞬間、彼女はほっとしたように、固く張りつめていた表情をゆるめた。客席に応えて手を振る頃には、さっきまでの冷たさが嘘のように、穏やかな顔になっていた。

 私は、アリがこの演技を見たら、どんな気分になるだろうかと、少し思った。

 アリにとってイスラエルは、父親を奪った国だ。その国の選手が、暗殺者の演技をする。

 訊けないな、と、私は内心で呟いた。

 後で、テレビ放送を確認したところ、彼女の使っていた曲は、アメリカの映画の曲だった。

 ミュンヘン五輪で、イスラエルの選手がパレスチナのテロリストに暗殺された。それを題材に、イスラエルの秘密機関、モサドが、彼らを報復として暗殺していく物語を、彼女は演じていたのだった。

 驚いたのは、彼女の年齢だった。

 あの冷徹な演技力と、いっそ高飛車なほどの技術力を見せつけてくれた彼女、エステル・コーヘンは、まだ、十五歳だったのだ。ちょうど、私と出会ったときのアリと、同い年である。

 これはいよいよ訊けないな、と思っていたら、アリから電話がかかってきた。



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