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二人の空  作者: 蒼久斎
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アリの生い立ち

細かい史実とのすりあわせは出来てません!(土下座)


 いよいよ、コーチであり、アリの養父でもある、ラウルを交えての、私とアリとの交流が始まった。

 アリが、ヨルダン生まれのパレスチナ人で、母とスウェーデンに移住してきたことや、彼の父がイスラエル軍に殺されたことなどは、最初の日の彼の呟きから知っていたが、交流が深まってくるにつれて、より詳しい生い立ちを、私は知ることができた。

 アリは、もとはパレスチナでも、かなり富裕な家の出身だったそうだ。だが、彼が生まれるよりずっと前の、一九四八年に、イスラエルが建国された。その後の第一次中東戦争で勝利を収めたイスラエルによって、アリの一家は難民となり、ヨルダンに逃れることとなった。

 しかし、その後も繰り返された中東戦争で、イスラエルは敗れるどころか、むしろ領土を拡大し、パレスチナ人の居住地域を奪っていった。

 さらに、ヨルダン国内では、対イスラエル武装闘争を訴えるPLOの勢力拡大に対して、懸念が高まった。パレスチナ難民の立場は微妙なものとなり、ついにはヨルダンとの衝突が発生するようになる。

 第三次中東戦争で、ヨルダンはイスラエルに完敗した。アラブ諸国が手を組み、石油戦略を発動した第四次中東戦争も、決定的な勝利を呼び込むには到らなかった。その後、まずエジプトがイスラエルと和平を結び、その二年後、ヨルダンもイスラエルと和平を結ぶに到った。

 アリの一家は、それで一時期ヨルダン川西岸地区、つまりパレスチナ地域へと戻ったのだが、かつての土地は、すでにユダヤ人の入植者に奪われていた。失望と絶望とともに、彼らは西岸地区での生活を過ごすこととなった。

 アリの両親、父のイスマーイールと、母のヤスミーンは、この時に知り合ったという。そうして二人は結婚した。ただ、西岸地区に職は少なく、アリの両親は親戚の伝手を頼って、再びヨルダンへと移り住んだ。

 そしてアリは、ヨルダンで生まれた。

 和平への期待が高まる中、アリの父イスマーイールは、一抹の希望を携えて、再び国境を越えた。妻と、幼い息子は、ヨルダンに残したまま。

 だが、第二次インティファーダ(民衆蜂起)の中で、イスマーイールはイスラエル軍の兵士に射殺される。

 夫の死を知ったヤスミーンは、中東を離れることを決めた。せめて息子に高い水準の教育を受けさせられるようにと、持てる限りの伝手を辿り、スウェーデンへ移住することを決めた。

 この移住がかなった背景には、ヤスミーンが、エジプトの大学を卒業した、比較的上流層の出身であったことと、無関係ではあるまい。イスマーイール一家はヨルダンへ避難していたが、ヤスミーンの家は、エジプトのカイロに避難していたのである。

 いくつもの国を経て、遠い北の国に降り立った、ヤスミーンと幼いアリの親子は、難民申請を無事受け入れられた。そして、彼女は報道関係の職を得て、働きながら、幼い息子をスウェーデンで育て始めた。

 ヤスミーンは母語のアラビア語の他に、英語を話すことができたので、難民にしては、職を探すのは楽な方だったかもしれない。しかし、慣れない寒冷な気候に体を壊し、肺炎をこじらせて入院した。

 治療の甲斐なく、彼女は五歳のアリを残して、この世を去った。

 北の大地に、身寄りもなく一人残されたアリは、孤児のための施設に預けられ、それから、スヴェンソン家に引き取られた。ラウルの妻、レーナが、ヤスミーンと同じ職場で働いていた縁のゆえである。

 レーナはヤスミーンと、所属部署こそ違ったものの、仲は良かったという。

 レーナは子どもの産めない体だった。腫瘍で子宮の摘出手術を受けていたのだ。ラウルは、それを知った上で結婚しており、いずれ養子をもらう考えでいたという。そんな折、ヤスミーンが、アリを残して息を引き取った。それで、レーナは、アリを養子にしたいと、ラウルに告げた。ラウルもヤスミーンのことは知っており、残されたアリの境遇が気にかかっていたから、その案にはすぐに賛成した。

 そういった、複雑な経緯を経て、ヨルダン生まれのパレスチナ人少年のアリは、スウェーデン人の養子となったのである。

 引き取られたばかりのアリは、おどおどと落ち着かない様子であったという。ラウルとレーナの夫妻は、能う限りの愛情を、アリに注いだ。

 そして、元フィギュアスケーターだったラウルによって、アリはスケートに出会うこととなる。

 氷の上で優雅に、また力強く踊る養父の姿に、アリは心を動かされ、自分もやりたい、とせがんだ。ラウルもレーナも、快く承知した。コーチは、元選手であったラウルが引き受けた。

 レーナはその後、悪性腫瘍が見つかり、アリが十三歳の時に、息を引き取った。

 それで、ラウルとアリは、父子二人で暮らすことになった。しかし、スケートは続けられた。フィギュアスケートは費用のかさむスポーツだが、その頃にはもう、誰の目にも、アリの才能は明らかだったのだ。

 足りない費用は、どこからともなく援助が出た。

 失敗を恐れるがゆえに、難易度の高いプログラムを組むことは避けたが、実際のアリは、やや成功率は落ちるとは言え、トップクラスの選手が演技に採り入れるような大技も可能であった。

 長い北欧の冬も終わっていき、大会ラッシュにも一区切りがついた。

 三回転ジャンプの成功率が上がってきたので、ラウルは、これからは、それをもっとプログラムに組み込むべきだと、そう言っていた。

 アリも自信がついてきたらしく、来シーズンのプログラムを練るようになった。

 彼は、普通に学校に通い、熱心に勉強をしていた。亡き実母のヤスミーンが願ったように、彼は勉学にもしっかりと励んでいた。成績は非常に優秀だった。

 私とスヴェンソン親子の交流は、スケートシーズンがオフになっても、まだ続いた。私は次のシーズンも、その次のシーズンも、アリが滑り続ける限り、彼の姿を追うつもりでいた。



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