アリ・スヴェンソン
※ くれぐれも、現実の歴史と混同されませんように……。
私が、アリ・スヴェンソンと出会ったのは、北欧はスウェーデンの首都、ストックホルムだった。その時、私はちょうど、不慣れな街のバスの中で、自分の乗ったのが正しかったのか、必死で頭をひねっていた。
そんな時に、声をかけてきたのが、アリだった。一目で非ヨーロッパ系と、もっと言えば、中東系と分かる顔立ちをした青年に、私は無礼にも、一瞬、身構えた。あの時のことを思い出すたび、私は自分が偏見に染まっていないつもりで、実は染まっていたのだと、改めて認識する。
私は英語圏の生まれではないので、英語は決して得手ではない。それなりには話せるつもりであったが、いかんせん、発音が拙い。
しかし、そんな拙い英語に、アリは嫌な顔一つせず、辛抱強く耳を傾けてくれた。そうして、少々訛りはあるものの、きれいな英語で、聴き取りやすくゆっくりと、答えてくれた。
「大丈夫です。僕の目的地も、同じです」
それを聞いて、私は安堵し、思わず微笑んだ。私が笑ったのを見て、アリも微笑んだ。人懐っこい笑みに、私は好感を抱き、そして、先ほど中東系の外見だというだけで、思わず警戒した自分の愚かさを恥じた。
私は礼を述べて、自分の名を名乗った。一応、職業についても述べた。物書きの端くれのようなことをしている、と。
もっとも、ほとんど道楽のようなもので、たいしたものなど書けてはいなかった。だから、それも正直に話した。けれども彼は目を輝かせて、素敵なことです、と言ってくれた。私はますます彼に好感を抱き、そして、自分を恥じた。
彼は、アリと名乗った。アリ・スヴェンソン、と。
中東系の外見であったから、アリというファーストネームであることには、さして驚かなかった。しかし、スヴェンソンという、北欧系のファミリーネームを名乗ったことには驚いた。
その驚きは、正直に顔に表れたようで、アリは、どこか寂しげにも見える笑みとともに、こう言った。
「僕は養子なんです」
それから、先ほどまでの柔らかさが、瞬時に凍るような鋭い目を、一瞬だけ見せて、続けた。
「僕の親は、パレスチナ人です」
その言葉に、私はガンと頭を鈍器で殴られたようなショックを受けた。
パレスチナ。
中東の難民の子と、北欧の地で出会うことになろうとは、私は欠片も予想していなかったのだ。
あとで知ったことだが、スウェーデンは難民支援にかなり熱心な国で、パレスチナの他、イラクなどからの難民の受け入れも行っていたのだった。
しかし、その時私が受けたのは、衝撃だった。それ以上にも、それ以下にも、形容のしようはない。
私のショックを感じたようで、アリは困ったように眉尻を下げた。ここまで困惑するとは思っていなかったのかも、知れなかった。
私は、ただ沈黙から逃れたさに、疑問に思ったことを問うてみた。
「君は、スウェーデン生まれですか?」
アリは苦笑混じりに、首を横に振った。
「ヨルダン生まれです。そこから、母とスウェーデンに移住しました」
それから彼は、暗い目をして、ぼそりと呟くように、付け足した。
「父は、イスラエル軍に殺されました……僕は、父の顔を、写真でしか、知りません」
私は、何も言うことができなかった。
沈黙のまま、少し時間が過ぎた。後で思い返せば、何のことはないほどの時間だったが、その時の私には、とてつもなく長い時間のように感じられた。
私は、まずくない話題を探し出そうと、アリの様子を観察した。
中東系らしい、彫りの深い顔立ち。鼻筋は真っ直ぐにとおり、濃い眉の下、窪み気味の眼窩に嵌められた双眼は、澄んだコーヒーの色をしていた。わずかに癖のある黒髪は短く切られ、清潔感を感じさせた。
最初の、偏見に満ちた警戒心を解いて見ると、アリはとても整った顔立ちの青年だった。
次に、私はアリの持ち物に目を向けた。
大きなスポーツバッグが一つと、角の丸く削られた三角柱を横倒しにしたような形の鞄が一つ。その三角の鞄に、私はわずかに目を見開いた。
「スケートをやっているんですか?」
スケート靴を入れる鞄に見えたからだ。
アリは、今度はうれしそうに微笑んで、頷いた。
「そうです。フィギュアスケートをしています。養父が昔、選手だったんですよ。それで、僕にも教えてくれたんです」
私は、彼が私と同じ目的地に行く、と言っていたのを思い出して、さらに問うてみた。
「ひょっとして、大会に出場するんですか?」
そう問えば、彼ははにかんで、頷いた。
「はい……まだまだ、練習しないといけませんけれど」
私は、少し興奮気味に、言った。
「私は、その大会を見るために、来たんです」
それから、ほとんどまくし立てるように続けた。
滑走前のスケーターと話せるなんて、本当にうれしい。フィギュアは、最近見るようになったばかりで、ちっとも詳しくはないが、見ているだけで楽しくなるから、大好きだ。アリに会えて、大会を見るのが、もっと楽しみになった。
そんなことを、へたくそな英語に、身振りと手振りを交えて、精一杯伝えた。
アリは笑って頷いた。
それから私たちは、大会会場の前で別れた。
アリは選手用の通用口に向かった。私は、道に迷うことを見越して、少々早く来た時間を潰そうと、売店を探した。