四十、未だ知らぬを未来と呼ぶ
雨が止んだ。空の雲はどかず、薄暗い天気なのは変わらなかったが黒い雨雲はいつしか色を薄めていった。
ヤマが本当に消滅させられたのかさえ、ときはは知れないでいた。閻魔王は冥府での混沌を正すために一足先に彼方に戻ったらしい。
雨に濡れぐちゃぐちゃになった泥の地面と同じように、ときはたちを取り囲むものははっきりと解決された訳ではななそうだった。ときはの身体に問題はないが、しばらく他人に操られていたためか動き方にぎこちなさが残った。
「夢生が人道に増えている件は此方で何とかしよう」
清人が何とはなしに放った言葉が征崖の耳に入り、そんな返事をさせていた。
邸内に意識不明になった二名を運びこむよう手配したのは清人だ。召し使いたちは皆、異様な事態に怯えて邸の奥底に閉じこもっていた。兼直はともかく、桃緋はときはにしか見えないので同じ顔がいると面倒だと、清人はときはに上着を頭から被るように言った。それでなくとも雨を全身に受けて体が冷えてしまったので、それを有り難く頂戴した。
ときはには兼直の事が最後まで分からなかったが、恐らく彼も失くした大切な人を思っているだけなのだろう。
征崖が冥府に戻ると言い出したので、ときはは別れを予感した。支度をしろと言って征崖が邸の中に戻って行ったので、二人に暇乞いの時間を与えられたのだと感じた。佳耶は何も言わなかったから、ときはは気まずく思った。しかし一つ思い出した事がある。地獄道での事、未だに礼を言えていない。牛頭馬頭からときはを救い出してくれた日が、まるで遠い記憶のようだ。だが、ときはは忘れていない。呼ぶ声を。差し出された手を。
「あんたの声、聞こえたよ」
――何度言わせるんだ、寝ぼけてんじゃねえよ、ときはッ
人道でも、何度も呼んでくれた。
ときはのために、憤ってくれた。
「あの……その。ありがとうね。いろいろと」
いつだってときはに手を差し伸べてくれ、声をかけてくれた。反発し合った時があっても、互いに近くに居るのが普通の事に思えていた。
それももう、今日で終わりなのだ。寂しくないといえば嘘になる。だが元は冥府の住人である佳耶が、人道に留まるような理由はない。残って欲しいと思うのも違う気がして、ときはは心許なく思う自分を振り払った。
最後だと思えば、以前は気恥ずかしかった礼の一つも言えるようになった。もっとも、あの時のときはの気持ちはまた違い、今では本当に佳耶にありがたいと思っていたのだ。
此れが最後なら、他に何を言えばいいのだろう。何か他にもあるはずだと思いながらも、ときはは思いつかないでいた。
「お前、あの家に戻るのか」
ぽつりと佳耶が尋ねた。ときはが自分の家族と血の繋がりがないと知ったのは、佳耶の話を立ち聞きした事が切っ掛けだ。内心で彼が自分のせいでと思うところがないでもないのだろう。そんな佳耶の思いが、ときはには分かるような気がした。だが今、家族との事は最初の時ほど気にしていない。清人の言葉があったからだろうか。
「分かんない。ただ、もう一回、あの人たちと話してみたいって思うよ」
それでも、ときはは以前のように陵の家に帰る事は出来ないだろう。悲観して思うのでも諦観でもない。ただ、事実として思うだけだ。
「……そうか」
佳耶の方も同じように、同情するように応じるのではなく、淡々と受け止めるような声を出す。矢張りときはには、これくらいの距離が丁度よかった。
「神名火守も、以前のようには居られない気がするな。天の火はもう見つからないんだから」
ときはが予期せぬ事態をもとに人道を離れてから、神名火守たちがどうしていたのか、天の火の捜索が進んだのかは知らない。だが天の火が何処にあるかはときは自身が知らぬはずはない。神名火守たちが変わっていくだろうという事はときはの直感だ。
「そうかもな」
言ったきり、ときはの方ではなんとなく話題が思いつかなくなる。佳耶の方でも何かを口にしてくれればいいものを、黙ってしまって何も言わない。思えば、佳耶は必要な事がある時以外矢鱈と話しをするような性格ではなかったかもしれぬ。だが今は、あと少しで離れ離れになる今は、それが恨めしいように思えた。もっとときはに、時間を惜しむように話しかけるような事はないのか。その程度の相手だったのか、自分は。
つまらなくなってしまい、こんな気分で最後の時を向かえたくないと思い直し、ときはは一つ譲歩する事にした。彼が話してくれないなら、此方から尋ねればいい。
「あんたはこれからどうするの?」
横目で問いかければ、一拍遅れて佳耶も顔を上げる。
「別に、前と同じだよ。冥府に戻って……そうだ。胡蝶が、お前に謝りたいって言ってたな。あいつも人道に来るって言ってたんだけど、結局無理だった」
「ふうん……」
胡蝶とはきっと、もう会えないだろう。たとえときはが望んだとしても、冥府に行く事が容易になされるとは到底思えない。
それにしても、あの胡蝶が他人に謝りたいと言うなどと。どういう心境の変化だろうか。人道にまで来たがっていたと言うのなら、本当に彼女の中で何か変わった事があったのだろう。思うと、このままずっと胡蝶と会えない事が惜しいように思えてきた。
「そのうち会えるといいねって言っといて」
伝手が全くない訳ではないが、佳耶も征崖も用がなければ人道には来ないだろうし、ましてときはの元になんて。矢張り冥府には戻れないのだ。懐かしいとは思えないが、あの場所で過ごした時間は短くはなかった。冥府での時は人道のものとは違うようで、あっという間だった気もするし、とても長い間あの場に居たようにも思える。本当に、不思議な場所だった。今はあの陰らぬ沈まぬ太陽のある場所が、遠く感じる。人道の、この曇り空の下にいるとなると、あの空間は異質だったと今更ながらに思い出せる。
空を見上げれば、雲が薄くなったように見えた。光も少し増したようだ。
「あの、桃緋ってやつはどうするんだ」
「さあ。それもまだ分からない。あの子まだ目を覚ましていないから」
桃緋の今後も、ときはにしてみれば気がかりな事の一つだ。桃緋は既に養母を亡くしているし、寧楽の京からは遠く離れた鄙からやって来たのだ、邸から簡単に追い出すような気にはなれない。それに桃緋は元々ときはを恨んでいたようではあるが、ヤマによって意図的に憎悪を増幅させられたように感じた。ヤマの介入のない今、桃緋はきっとどうしたらいいのか分からないだろう。其れを見守るつもりが、ときはにはある。桃緋が望めば出来る限り手伝いたいし、叶えばいつか気安く話し合える間柄になりたい。今はまだ無理でも、いつかきっと。
「分かんない事だらけだな」
苦笑するように言う佳耶は、呆れているのではないようだ。思えば、苦笑でも佳耶が笑うのをときはは初めて見るかもしれない。上がり気味の眦を少し下げて、最初に会った頃の突き放すような目つきなどはなりを潜め、気を許した相手にするような瞳をしている。
それだけで、ときはには充分だった。
「でも、それって普通だよ。ちょっと前まで、あたしはこんな風になるなんて思ってもなかった」
まだ見ぬ先の事は、分からない。分からないからこそ、人々は願う。自分の成功を。明るい兆しを。よりよい未来を。
「それも、そうだな」
以前のときはであれば、将来は退屈な日々の延長で、大きな不満などなくともつまらない日常が続くだけだと思っただろう。だが今はそうではない。分からない事は、必ずしも不幸ではない。自身をしっかり持って、思い描く行く先のために力を果たせば、きっと少しは変わるはず。何もしない何も知らないよりずっといい。
視界の端に征崖の姿が見えたので、ときはは時間が来たのだと知った。
「じゃあ、元気で……って冥府に戻る人に言うのもおかしな話だけど」
笑顔が曇らぬようにわざと茶化すような事を言ってみる。それを知ってか知らずか、佳耶もどこか軽い口調で応じる。
「お前もな」
征崖がやって来て、本当に迷惑をかけただとか、また何かあれば呼んでくれだとか大人らしい別れの告げ方をしていたがときはにはどうだってよかった。
本当に最後なのに、佳耶の顔が上手く見れない。佳耶の方でも征崖が話す間はそっぽを向いていた。違うと分かっていても、まるで最初の頃のよう。
ではと別れを告げた後、征崖は子供たちの様子をなんとなく伺って、先に歩き出す事にしたようだ。佳耶にすぐについて来いとも言わない。自分を置いて歩き出した征崖に気づいていないのか、突然に佳耶は口を開いた。
「……ときは」
自分も邸の中に戻ろうか迷っていたときはは、弾かれたように顔を上げる。
「何?」
何が欲しいか分からなくて、しかし其れを佳耶はくれるような気がして、ときはは一心に彼を見つめた。しかし佳耶はときはの眼差しに気圧されたかのように視線を彷徨わせる。しばし、少年は口を上下に動かしては出て来ぬ言葉を押し出そうとしていた。だが突然、それは言葉に出来ぬ定めと知ったかのように、眉を寄せる。
「なんでもない」
本当に何でもなかったのかもしれない、と思う程にはときはは愚かではなくて、此方も小さく顔を顰める。だがときはにも、何かが足りないと思いながらも思いつかない節がある。お互い様なのだ。不満そうな顔をして最後を飾る訳にはいかないと思いつつ、ときはは笑顔を作る事は出来なかった。
「じゃあね」
どこか拗ねた顔になってしまっただろうか。相手はどんな顔をしていただろうか。確認したくて佳耶を見たのに、彼は既に背を向けていた。「ああ」と応えると佳耶は歩き出す。あまりにも呆気無い別れ。
湿っぽいのよりはましかもしれない。これはこれで自分たちらしいのかもしれない。そう思う事にして、ときはは此方が見えない相手に手を振った。
歩きながら、征崖は何処かを眺めるように思案していたようだった。
「お前はわしの言いつけを破ったな」
確かに征崖は、あの時佳耶に冥府に留まるように言った。荒っぽい手段を用いてでも、佳耶を大人しくさせようとしていた。それを無視してまで佳耶は人道にやって来てしまった。征崖の言いつけを破った事にはなるだろう。だがあの時はそれどころじゃなかったのだ。自分の非は認められるものの、佳耶にはあのまま冥府に居座り続ける事は出来なかったのだ。
「……すみません。征崖さん、でも」
佳耶の言い訳を許さぬように征崖は足早になる。
「お前に処罰を与える」
思っていた以上に征崖の声が厳しいものだったので、佳耶は小さく身をすくめた。
「長期の刑だ。お前はその身が滅びるまで――人道である者の監視を一人でしなければならない」
言われた言葉の意味が分からなくて、佳耶は小さく顔を顰める。
「力を失ったとはいえ“天の火”を内に秘めた人間を野放しになど出来ぬ」
その事は、過たずときはの監視をしろと告げていた。言葉の意味が分かっても、佳耶の中に混乱が生じる。今更、逃げ出してきた人道に戻れというのか。すっかり冥府での暮らしが馴染んだ佳耶ではあったが、未だ肉体を持ったまま冥府に来たかつての夢生。彼が望めば人道に戻る事はいつだって出来た。だがそうはしなかったのは、佳耶が拒んだからだ。征崖は佳耶の気持ちを汲んでくれていたと思ったのに、どうして今更。
「……人道に、残れって事ですか」
「そうだ。お前が何より嫌った場所だ。何よりの罰になる」
その人の嫌うものでなければ、罰にはならない。征崖の言う事はもっともだ。だがどうして人道なのだ。そんなに、佳耶は間違った事をしたのだろうか。ただヤマに乗っ取られた少女を見捨てられない、その一心だったのに。そこまで征崖の怒りをかったのか。
「……おれ、」
今更人道に放り出されても、どうしたらいいのか分からない。確かにときはを助けなくてはと思った時は必死だった。だから行く先が人道なのにも構わなかった。それも一時的な滞在と分かっていたから。だが、それがもっと長い間続くとなると――。
「もう一度、自分の足で歩いてみろ、佳耶」
征崖は立ち止まって、振り返る。
彼は全て分かっているのかもしれない。佳耶が人道を嫌いながらも、其処に住む人に――ときはに、気持ちを傾けていると。だからこそ罰と言いときはと関わらせる。彼女をかすがいに佳耶を人道に繋ぎとめるために。ときはとの別れにはつまらなく思ったが、それにしたってこんな事になるなんて。
見上げた征崖は、人の親のような顔をしていた。彼はそっと手を差し出すと、佳耶の腕から何かを引き抜いた。冥府において、肉体を持つ者には必要な薄紅色の勾玉だ。人道に残るのであれば必要のないもの。冥府に残る資格を奪われたような気がして、佳耶はそれを取り返そうと手を伸ばす。
「お前はもう、以前のお前じゃない」
だから人道に戻っても大丈夫だとでも言うのか。そうは思えない。
「天の火の事でたまには顔を出す。つまりお前がときは君をほったらかしていないかどうかも定期的に調べに来るという事だ」
「……でも」
言いよどむ佳耶に、征崖は急に空を指さした。空の端に、小さな虹がかかっていた。
「見ろ、佳耶。虹だ」
半円の半分にも見たないような、本当に小さな虹。赤も青も黄も集まって、色とりどりな様を見せつけている。いつの間にか、空の雲が半分以上引いていた。
雨の後にはああいうものも見れる。いいものだろう? そんな征崖の声が聞こえた気がした。多色の弓に目を奪われているうちに、征崖の姿が消えていた。彼は佳耶を置いて行ってしまったのだ。征崖とは違い、今の佳耶には冥府に戻る術は何一つない。本当に、見放されてしまったのだ。
目の奥がツンと熱くなりそうだったのを、少年は堪えた。
長く甘やかされていたのだと思えば、本当に征崖には頭が上がらない。置いていかれた事を思うと心臓が重くなるが、今はその事は考えない。
さて佳耶はこれからどうしよう。
やるべき事は命じられているから決まっている。だが征崖は、本当に天の火の監視だけを佳耶にさせたかったとは思えない。
自分の足で。自分で考えて、人道で過ごせ。
考えるべき事はたくさんある。しかし佳耶はそれをせずに、ただ空を見上げていた。
これから来る未来は、佳耶にはどうなるか分からない事だらけだろう。恐らく、ときはの言う通りなのだろう。分からないからこそ、この先を自由に描ける。それは少し恐ろしいような気もするが、好奇心もそそられる。
少年は音もなく長い息を吐き出すと、諦めたように笑った。
前に進むしかないなら、確実に、大きな一歩を踏み出して行こう。
虹はいつしか消えるだろうが、見えた光景に変わりはない。
気がつくと佳耶は地面を蹴っていた。走るというのではないが足早に。来た道を引き返すのではなく、征崖の進んでいた方へと向かうように。彼を追うのではない。平城京を一度自分の目で見てみたいと思ったのだ。自分の足で歩いて、自分の瞳で見て。この京を一周してまた自分の頭で考えよう。
そうして、少年は歩き続けた――。