三十九、心
寧楽の京を覆う黒い雨雲は次々と雨粒を落としていたが、今はそんな事は気にかからなかった。佳耶の目には何が起こったのかは分からなかった。ヤマが桃緋に接触したかと思えば、二人は一度大きく体を震わせて、動かなくなった。
次の瞬間には、二人共背中から地面に倒れこんだ。慌てて佳耶が駆けつけるよりも先に、閻魔王が桃緋の首を握っていた。首を、だ。ヤマが桃緋の方に乗り移ろうとしていたからそのまま桃緋を縊るのかと思いきや、目を細めて手放した。
「ヤマが消えた」
顔を上げる閻魔王。
佳耶は我に返ってときはの頭を抱えた。目を伏せてぐったりとしているが顔色が悪い程ではない。その容姿は少し前までヤマだったという名残はほとんどなく、少女の姿そのものだった。閻魔がああ言うのなら、ヤマはときはの中にも居ないのだろう。
どういう事だろうか。佳耶には理解が及ばない。
閻魔王は静かにヤマの気配を追っているのか、意識を集中して目を伏せている。
佳耶が気がつくと、ときはが桃緋の手を握っているのが分かった。桃緋も瞳を閉じたまま、目覚めない。彼は桃緋の事を肩書程度しか知らない。冥府で得た表面的なものしか。だがときはは違うのだろう。彼女には、何か桃緋をつなぎとめるものを見つけられたのかもしれない。それでヤマは桃緋を操る事が出来ず、彼女からも出ていったのではないか。
ときはを眺める佳耶の隣に、清人が座り込む。彼と少し視線を交わしたが、佳耶には清人が何方の少女を心配しているのか分からない。清人が視線を動かしたのでついそれを追うと、視界の端に倒れている兼直の姿が見えた。ヤマに突き放された時の衝撃が強かったらしい。死んではいないようだが、彼はどうなったのだろう。ぼんやりと思うと、佳耶の腕の中のものが小さく身動ぎするのが分かった。頭を地面に落としたままでは辛かろうと、膝を貸す形になっていた佳耶は、ときはの目覚めが近い事を知った。
今や征崖までが佳耶の背後でときはの様子を伺うようにしている。しかし少女はまだ目を閉じたままだ。
「待っ、て」
うわ言のように少女が唇を開く。その声は誰に向けられたものか。
うっすらと、ときはの瞼が上げられる。震えたまつげの奥に虚ろな瞳が見える。
既に意識をヤマに向けて、ほとんど場を移動しようとしていた閻魔王だから、ときはの頼みが自分に向かっている事が分かった。ヤマは人の心に触れる事が出来る。そんな彼の入った状態でときはが桃緋に接触したのだ。ヤマが橋渡し役となってときはと桃緋の意識を一瞬でも繋げたのは、閻魔には理解出来る。ときはにはヤマの考えも桃緋の思想も見えてしまったのだろう。だからこそ閻魔を止める理由になる。
「分かり合えたなんて思わない。でも、桃緋はほんの少しだけ、諦めてくれた」
ときはは顔を横に向けようとしたが上手くいかなかった。目だけで隣を見ると、そこには意識のないままの桃緋が居る。桃緋の内部に触れたとはいえ、ときはが完全に彼女を理解する事は出来ないだろう。相手もそう思っている事が充分に分かった。
それでも桃緋が最後に見せた顔は、きっと気のせいじゃない。ときはの前で、憎悪や怨嗟以外のものを見せてくれたような気がしたのだ。
今度は少し首が動いた。閻魔王が居る場所を見ても、ほとんど彼の背と頭しか見えない。
「ほんの少しだけ、手が届いた気がするんです」
桃緋に近づく事は出来なかっただろう。ただ、前と同じではなかった。ときははそう信じている。
「あのひともきっと同じ」
長い長い間、過去の妄執に囚われていても。会話が出来るのであれば、手が届かないはずがない。
ヤマが閻魔王を知っているのと同じく、ときはも閻魔王を僅か垣間見た。だから彼らが互いに憎みあっているのも知れた。まるで、ときはと桃緋のように反発しあい、拒絶していた。本当に自分たちに似ていた。それでも彼らは元をただせば同じ存在というだけあって、余計にしがらみは多いのだろう。閻魔王がヤマを消したがっているのも分かるような気がした。
だが、それでいいのだろうか。桃緋に確認は出来ないだろうが、ときはは相容れぬ存在と思った桃緋を、許容出来るような気がしたのだ。それを他者にも願うのは、酷い傲慢なのだろうか。
「だからあのひとを、ただ消す事だけは、」
ならばせめて。無に帰す事だけは止められないか。そんな終わり方ではあまりにも――虚しすぎる。
この場にはときはと閻魔王しかいないように思えた。
長い長い沈黙が訪れたような気がしたが、それは一瞬の事だった。
「貴女にはもう関係のない事です」
閻魔はときはに顔を見せずに言い放つ。確かにときはの中にはもうヤマはいない。閻魔からしてみればヤマの関わらない相手に興味はないだろう。
尚も言い募ろうとしたときはだったが、言葉を選んでいるうちに、閻魔王は地面を蹴って宙に浮かび上がってしまった。ああ、彼が行ってしまう。思ったが、雨すら跳ね除け拒絶する閻魔に、どんな言葉がかけられようか。
雨。冷たく肌を打つそれがときはに落ちていると気づいて、寒さを思い出していた。自分に意識がある事、自分の体がある事。当たり前の事を失ってから思い出して、体を支える誰かのぬくもりに、ときはは酷く安堵した――。
平城京を眼下に見下ろせる場にヤマは居た。よくよく空の上が好きらしい。それとも、人道を滅ぼしてしまいたいというような事を言っていたから見晴らしのよいところに居たいのか。
しかし今は、ときはの体も手放して意識だけで空を浮遊しているだけに過ぎぬ。肉体がなくとも少しは世に干渉出来るし、新たな体を手に入れればいいだけなのに、彼は何をしているのか。
「どうしたんですか」
彼の思考になど閻魔は興味がない。だがまだ彼が何かを企んでいるのなら、それを阻止しなければならない。
「うるせえ……」
ヤマの声に覇気がない。肉体がない今、ヤマの姿もはっきりとせず、煙のように曖昧だ。ただその妄執だけが彼の姿を形作っている。まさかとは思うが、執念が薄れるような事が、あの少女たちの邂逅で起こったとでも?
「ただの人だと思って舐めていた相手に手酷い傷でも負わされたような顔をしていますよ」
だとしたら閻魔王には傑作だ。何であれヤマを足止めするようなものは歓迎したい。自分の手足として動かしていた者たちの反乱にあって、虚を突かれただけだろうか。それとも本当にヤマは感情を揺らしている?
苦みばしった目つきのヤマ。髪の色も目の色も、閻魔だった時とときはだった頃両方の名残があって移ろいでいる。
「人を見下してるのはお前も一緒だろうが」
「そうかもしれませんね」
冥府において人を裁く仕事をするというのは、普通の人間の感覚では出来ない事だ。彼らとの距離を置いて、自分とは異なる存在と見なさなければ裁きを長きに渡って続けられない。ヤマの言う事はあたっている。だが、だからといって何だというのか。それでも閻魔は人の世を含む六道の均衡を保つ事を常に優先してきた。彼にしてみればほんの瑣末な事に過ぎない。
「人は見ていて楽しいぞ、自分勝手で意地汚くて自己の事しか考えていない」
閻魔は人を裁く時以外、彼らを見ない。ヤマのように楽しんで彼らの営みを見るなどもっての外だ。万といる人々の些細な事の一つ一つに一々反応を見せていたら切りがない。閻魔にとって人は仕事の対象。それだけに過ぎない。
「きっとそうなんでしょうね」
そう見なす事で全てを円滑に進めてきた。
だが、かつて人道の女性を愛した彼に分からないはずがないだろうが。
その思いすらヤマに変え捨てて、閻魔王は冥府の主として君臨し続ける道を選んだ。何のためか。自身の感情にさえ左右されずに六の世界全てを守るため。ヤマのような存在に人道が揺らがされる事のないように、と。どうあっても閻魔王はヤマの存在を許す事は出来ない。ましてその干渉など。
「だからといって、我々のような不完全な存在が干渉していい相手ではない」
冥府の主として完全な姿であるために感情を捨て去ったはずの閻魔。彼は最早自分が、感情を捨てたからといって完全な姿であるとは考えていなかった。だからといって、ヤマの存在まで認められるほどに強くはなかった。自分に与えられた使命のためだけではなく、彼個人の思いとしても。
「俺の思いは変わらないぞ、閻魔」
何も持たないはずの男がくつりと笑った。彼が凄めば、出来ない事など何一つないと思わせるような、不遜でありながら不敵な笑みだった。
「そうでしょうね」
対して、閻魔は勝ち誇るような笑みも悲愴な瞳もせずに、冷えきった感情のない顔で告げた。
「私もです」
やわらかい心を持った少女たちとは違い、彼らはもう人ではなかった。人に近い程の心を持ち、人にあらざる力と仕事をするが故に。彼らが変わる事はもう二度とないのだろう。
同じ存在でありながら、交わらぬ運命。
ヤマにはもうほとんど何の力もない。冥府に封じてあった時と同じく、また封じる事さえ出来る。しかし今度の閻魔はそうはしない。
結局、人は感情を捨てきる事は出来ない。
其れは喜んでいい事なのだろうか。恐れていい事なのだろうか。
閻魔には分からない。
ただこの、悲痛な程の痛みは胸の奥底に根付いて、また体を二つにでも分けない限り、なくなりそうにはなかった。
「また、繰り返すのか――」
それでも閻魔はこの選択を悔いたりはしないだろう。何度だって繰り返す。切り離したものを否定するために。それこそまるで、人間のように。
突然、大地が大きく揺れた。
その時、平城京の空の上が一瞬というにはあまりにも長い間、光り輝いた。