三十八、桃緋
少女の姿が見える。
『あなたは本当は貴族の娘なのよ』
横たわる女性の白い顔。
『あなたの母親はしづ様。父親は兼直様。身分の高い陵という家柄の娘なの』
少女はずっと、この女性をこそ本当の母親だと思っていた。信じていた。まるでときはと同じように。
『でも、あなたは邸に行ってはだめよ。あの家は新しい子供を引き取ったと文を受け取ったの。あなたと同じ年頃の女の子だそうよ』
少女は女性に追いすがるように寄り添って、手を握る。
ああこれは、桃緋の世界だ。ときはは気づいた。
夢で見ていたのはヤマの世界だけではなかった。
だからだろうか、この光景が僅かに懐かしく、ときはの何かと重なるのは。
その手が握り返される事はなかった。二度と。
訳の分からぬ怒りが沸いた。勝手に桃緋に告白をして死んだ養親に。勝手に桃緋をこんな貧しい場所に追いやった血縁者に。勝手にこんな風に桃緋を突き放したこの世界に。
胸に吐き気にも似たものがこみ上げてくる。頭まで鈍く痛む。喉の奥が何かを訴えている。
気持ちが悪い。
あたしの手に押し付けられていたもののすべてが、みんな、まがい物だったと知った。
何を思えばいい?
どう感じればいい?
どんな風に自分を嘲ったらいい?
いつだって自分のものにすら納得いかなくて、いつだって自分だけに与えられた不平等を思い知らされてきた。
これ以上の事などないと思っていたのに、まだ上があるなんて。
なんで、どうして、いつもあたしだけ。
知らない。もう、要らない。
こんなのって必要ない。
でも、ただ、ひとつだけなら。
すべての根源を壊してしまいたいと思うのよ――
たった一人の人間への凄まじいまでの憎悪。胸の内側から焼けるような激情に、ときはは意識が混濁しそうになる。此れが誰に向けられているかを知っているからこそ焦燥が募る。
こんなにも強い感情。ときはは此の場にもう居られないかもしれない。体が焼けそうだ――。
『――何を、そんなに憤る?』
まるで絹のように滑らかな声。
知っている、この声はたやすく人の心に入り込む。
桃緋の内側は外部からの刺激に鈍くなり、静かに一つの事に意識を集中させていく。其れを手伝ったのは、あの声だ。
最初から分かりきっていた事だ。どうして桃緋がこうなったのか。どうして桃緋が全て失ったのか。どうして桃緋があの声に従ったのか。
全てはあの娘を亡き者にするため。
邂逅の時はあっけなく訪れ、簡単にも桃緋を写しとった似姿を見せる。
『どうしよう、笑いが、止まらないわ』
同じ顔が鏡に映し出されたように向かい合う。
『あんた、あたしの何なの……?』
ときはが狼狽して頬を引き攣らせている。
『どうしてあなたはわたしの顔を持っているの?』
桃緋は不思議と問いかけが止まらなかった。
『ねえ、分かる? あなたへの、おもいが、とまらないの……』
誰のせいでこうなったと。
誰のせいで桃緋が全てを失ったと。
誰のせいで桃緋の母が死んだと。
誰のせいで
誰のせいで
誰の
すべて、ときはのせい。
あれもこれもどれも全部。
壊れてしまえ――
何かが、桃緋の中から流れ出ていったようだった。
其れはときはを刺した事ではらせた恨みかもしれなかった。
たった一つの目的のために歩き続けた、目的を失ったからかもしれない。
唐突に桃緋は標的を失った。顔を合わせた時と同じように、あっけなく。
ヤマの支配と、自分の思考で桃緋の中は混沌と化す。
「……なんで、あんたが泣くのよ、陵ときは」
桃緋を過去から引き戻したのは、頬に透明な涙を落とす少女の存在。
ときはが見たのだから、桃緋だって見えた。ときはの半生を覗き見した。桃緋の其れとは違い、とても幸福で満ち足りて、退屈なものだった。そして時折、寂寥感が訪れた。だがそんなものは桃緋のものと比べれば、何て事のないものだ。
「本当の親じゃないって知って、突き放された気持ちになったんだよね」
少女の頬を伝う涙は、まるで本当に桃緋の事を思っているかのようだった。そんなものが欲しかった訳ではない。桃緋は、いっそ涙さえ消してしまいたかった。養母が死に、この上のない悲しみを与えらえて体が真っ二つに裂けそうなぐらいだった。人としての悲しみなんて、こんなにも辛いのならば必要ない。感情なんて要らない。
その思いが、ヤマの声と同調した。
「お前に……お前なんかに何が分かる」
ヤマは全て憎んでいた。放棄しようとした桃緋とは違い、感情すらも憎悪の対象となる。
涙を忘れた桃緋は、なおもときはが自分の持たぬものを持つと見せつけてくるのが厭わしくてならなかった。矢張りこの少女とは相容れぬ運命なのだ。
「たぶん、分かるよ。あたしも一緒だったから」
分かったような口を。何も持たぬ子供のくせに。桃緋が否定すればときはは肯定する。本当に、彼女たちは鏡のように正反対な存在。
其れこそ、桃緋はときはとは違う人間だと主張されているようで腹が立った。彼女ほど恵まれた環境で育てば他者を思いやる振りぐらいは出来るだろう。だがそれが偽りだと桃緋には分かっている。人は皆、自分の事で手一杯だ。他人を慮るなんて口先や素振りだけのものだ。分かっている。
「お前と一緒にするな! 恵まれて育ったお前なんかと……!」
ヤマが囁くまでもない。桃緋はときはを否定せねばならぬ。
「ほんとは、悲しかっただけなんじゃないの?」
思い出したくない其れを突きつけられて、桃緋は胸の奥がじくりと傷んだ。
「うるさい!」
悲観に呼応するようにヤマが嗤うが、今はときはに苛立って仕方なかった。
人を労るような顔をするのはやめろ。
疲れて、焦がれて、手を伸ばしてしまいそうになる。届かないと分かっているのに。
もう訳が分からない。一体桃緋は何に怯え何に恐怖し何に絶望していたのだったか。何が彼女を呼び覚ましたのか。誰が、何をしたのか。混濁する意識の中、屈してしまいそうだ。一体誰に? ヤマに? ときはに?
自分と同じ顔をした、自分とは全く異なるものに屈してしまうのは、絶対に厭だった。
「大切な人を失った事なんて、ないくせに……っ」
桃緋だって地獄道でときはが何を見たか、少しだけだが知っている。名足は本当に大切に思っていた相手ではなく、むしろあの場での再会で一層その思いに傾いたというところだ。つまるところときはは、本当の意味で大切な人を失った事などないのだ。父がいて、継母がいて、兄がいて。血の繋がりがないとはいえ、それを知らずに過ごしてきた。誰一人欠ける事なく。
「そうだよね、理解出来るなんて言えない。でも」
「だからこそ、一緒になって落ち込んでなんてあげない。あんたを呼び戻す一人になる」
ヤマは桃緋に同調をして、更なる深みに誘った。それがヤマの元々の目的だったとしても、同じ苦しみを味わった者同士、そのまま闇に堕ちるのは必然だったのかもしれない。
だがときはは違う。彼女は確かに何も知らないかもしれない。同じ経験をした者同士にしか、分かち合えないものはあるだろう。励まし合う事もあるだろう。それが救いにもなるだろう。
――お前はどうしてそんなに泣くの?
思い出したのだ。惜日の記憶を。ときはが誰か人のために涙した日を。それをよしとしなかった清人の言葉を。相手の失ったものの大きさを知り、同じように涙する。それだけではいけないのだと。地獄道から戻ってからもほとんど同じ事をしかけた。
心から思いを寄せる相手の死を経験したのではないのなら。誰よりも同調出来るというのなら。
この身は残された者を支えるためにある。
ときははきっと、そのために他者の不幸を我が事のように悲しんでしまえる。本当の悲しみを知らないと言われればそれまでだが、だからこそ、底まで堕ちる事はない。
「あたしはあんたが倒れても、労りの言葉なんてかけてやれない。起き上がるのも待ってあげない」
桃緋の輪郭が、少しぼやけたように見える。
「あんたのことを、助け起こす一人になる」
どうしてだろう。今も桃緋の中に燃える怨嗟は消えないのに、ときはには彼女が近く思えた。
そんな気持ちとは裏腹に、桃緋の姿が水に溶けるように揺れ動いて、消えて行く。
ときはの意識も、おぼろとなる。
ふらりふらりと歩く桃緋を見つけたのは清人だった。最初はそんなつもりはなかったが、ときはの振りをして過ごすのも悪くはないと思えた。彼女の持つものは全て憎らしかったから、それを片端から奪うのも楽しそうだと思えたのだ。それから始まった家族ごっこは、奇妙なものだった。本当の血の繋がりがあるというのに、全く他人行儀にしか見えない父と継母と兄という家族たち。
桃緋は一体何をしに京に来たのだろう。どうだっていい事ではあったが、あの頃からふいに世界が全て無意味に見えた。
何かが、桃緋の中から流れ出ていったあの日から。
ただ一つ、桃緋は父というものを知らなかったから、彼が此方を向いてくれたらと思っていたのだ。
あの養母にも、連れ合う人がいたら。どんなにかよかっただろうか。
何も持たない食い扶持を減らす自分だけとの生活ではなかったら。
ほんの僅かな間だけしか同じ邸にいなかった、父親らしい姿を少しも見せてくれなかった兼直でも、その背が広く見えて、桃緋は――