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三十七、陵邸

 戸惑い、困ったような瞳が兄を見上げた。清人が見た、まだ陵の家に拾われて間もない頃の顔に似て、幼い迷子の表情をしていた。十を過ぎ少しは大人ぶった口を利くかと思えば、まだまだ小さな子供なのだ。清人にしてみれば、ときはは小さな妹に過ぎない。

 自分が年頃になって、家族について改めて考えた時にはこれでいいのか疑問になった。友人に言われた言葉がなくとも、妹と上手く接する事が出来なかったかもしれない。清人は父の愛情を知らぬ。母も物心つく頃には死んでしまった。後妻からも何の親愛の情もいただけなかった。だから。

「兄らしくってやつがよく分からなかったんだ」

 もしときはが清人と兄弟ではないと知った時に、道理で彼は親しみ深くないと感じたのなら。それは清人の態度がよくなかっただけだ。家族を知らないだけなのだ。

 少女は震える唇で高い声を出す。

「で、でも……」

 枯茶色の瞳が清人を正面から射抜く。思えば、こんな風に妹と正面から話をしたのは初めてかもしれない。素っ気なくするのに慣れてしまっていたが、清人はもっと早くにこうすべきだったのかもしれない。

「あたし……本当の、陵の子じゃ、ない……」

 泣く一歩手前の表情でときはは兄を見上げる。

 清人にしてみれば何を今更、という感覚だ。ときはは幼すぎて陵家に来た当時を覚えていないだろうが、清人は覚えている。それでも見捨てないで来たのは何故だと思うのか。

「とっくの昔から知ってるし。おれは気にしてない」

 兄の呆れたような声を、少女は知っていた。清人はあまり感情を昂らせたりはしない。素っ気ないともいえるが、ときはが教えを乞えばきちんと応じてくれるし、度を越した過ちをすれば注意もする。ちょっとした過失なら、今みたいに呆れた声をして、小さく笑う。ときはにとって、兼直や藤なんかよりももっと、血の通った人間に見えていたのに。本当の兄だと思っていたのに。

 自分の身の上を知った時、ときはは勝手に突き放されたように感じていた。それは、本当に錯覚だったというのか。清人は、ときはの事を本当の家族のように思ってくれていたのか。

 答えが知りたくて、少女は手を伸ばした。

 それが何処に向かっていたのか、その場に居る者に知る事は出来なかった。

 胸を強く抑えて顔を出したのは、ヤマだった。心臓に悪い病でも宿っているかのようにほとんどうずくまると、唸り声のようなものを上げる。

 体の奥に何かを封じ込めようとするかの如く自分を抱きしめ、ひくひくと身を跳ねさせる。しばし唸っていた少女だったが、ゆっくりと上半身を起こした。

「ただのヒトの身で、無駄な足掻きを……忌々しい……」

 瞬きの間に少女は成人した男の姿に変わる。ヤマは心臓の少し上あたりに傷でもあるかのように抑えると、口の端を上げた。

 どうやらときはの内側で主導権争いに勝ったのは今度もヤマらしい。しかし、一度でもときはが自分を取り戻したのであれば、追い出す事だって可能なはずだ。そう思った佳耶は吐き捨てる。

「うるせえ、いいからその体から出てけ」

 つまらなそうに目を眇めたヤマが、肩を抑えたまま顎を持ち上げる。人を見下した瞳だ。ときはだとて時には他者を馬鹿にしたような顔をした事があるが、そんなものではない。佳耶を何の力も持たぬ羽虫のように殺せるが、今はそうする価値もないからしないだけ、と思っているかのような瞳。

 そんなヤマの鼻筋に、ぽつりと雨粒が一つ落ちる。段々と顔に雨粒が当たるようになってきた。冷えた雨に一瞬ヤマが怯んだからか、また少女は俯いて何かを堪える表情をする。

 また俄にときはとヤマの内なる戦いが始まったのか、佳耶がそう思った頃、閻魔が口を開いた。

「残念ながら“あれ”の言う通りです。こうして問答していても、時の無駄」

 雨は激しくなってきた。しかし閻魔王の周囲だけは薄い光に守られて、雨を受けているようには見えない。

「あれと只人が相手では、争いにもならない」

 閻魔王はなにものも受け入れないのだ。雨すらその身に降らぬ、不幸な運命(さだめ)だろうが跳ね返す、そして自身を堕落させた人間らしくいるために必要なものすら、弾き飛ばす。

 人として生まれた時から感情を失くした事はない佳耶、彼には閻魔王の事など何一つ分からない。自分の一部を捨てたいと思う程の事があったとはいえ、全て否定してしまえるなどと。佳耶とて、かつて自分を取り巻く全てのものが厭わしくなった事がある。人間なんて皆敵だと思えて、厭になって逃げ出した。其処では佳耶は受け入れてもらえなかった。思えば、紆余曲折あったとはいえ冥府に来てから佳耶の思いは変わっていたのだ。どのような形であれ冥府で佳耶は受け入れてもらえた。だから、他者と距離を置きながらも、素直になれはせずとも、人はそんなに悪いものではないと、無意識に感じ取っていた。

 閻魔の事情と佳耶の事情が同じはずがなく、比較するようなものではないだろうが、佳耶の方がまだまともな状況なのかもしれない。

 だが、冥府に来て、詮索をしない人々の中に入って、ときはと出会って。あのまま人道で人を嫌ったまま過ごすような事がなくてよかったと、今では思える。たとえ逃げてきただけ、幸運だっただけだとはいえ、佳耶の考えは変わった。自分を、やり直せたと思ったのだ。ときはだってそうだ。思わぬ事で冥府に来て、地獄道で抜け殻になるような衝撃を受け、それでも前に進もうとしていた。

 その悲しみは、深く重く痛みを伴うだろう。だが、ずっと其処に居なくたっていいのだ。ずっと地面に蹲る必要はない。誰かの力を借りたっていい。その悲しみに慣れる事なんてしなくていい。

 人は、変われる。前へ進める。それはひとえに、負の連鎖に疲れた体を動かす、感情があるから。

「あんた、本当に感情を捨てちゃったんだな」

 顔を上げた佳耶の体を雨が打つ。まだヤマはときはを完全には黙らせる事が出来ないらしく、時折少し呻いている。

「そりゃ、冥府の閻魔さまからしてみれば人なんてちっぽけな存在だろうよ。でも、おれたちだって必死に生きてんだよ。ただ一つの事に夢中で過ごしてるだけなんだよ」

 声には静かな怒りが込められていたが、閻魔を見る佳耶の表情は悲しみや哀れみにも似たものが含まれて見えた。

 知ったような口を利く子供に、閻魔王は微かに目を細める。苛立ったのか呆れたのかも分からない、小さな変化だった。

 本当に閻魔は感情をなくしてしまったのか。感情のない男と憎しみだけを抱く男、何方が勝つのか――確かに分からぬ事柄だ。だが、佳耶はどうしてかこの閻魔王の肩を持つ気にもなれず、彼の勝利する未来も描けない。閻魔王が普通の人間より遥かに特殊な存在だというのは、誰にだって分かっている。だが、彼とても人と接する職業をこなす。それでいて人間らしさを完全に失うなんて、あってよいのだろうか。佳耶が次の言葉も思いつかぬままに口を開いたところ。

「俺たちだって似たようなもんだ。だが、持つ(もの)が違う」

 ヤマは何に対して似ていると言ったのか。他者に考える余裕も与えず、彼は走り出した。「待て」と声を上げた閻魔だが、ヤマに攻撃が出来ても強すぎる力のために周りの征崖や佳耶などにも攻撃の手が及んでしまう。その一瞬の隙を逃さず、ヤマは地面を蹴って――空に飛び上がった。

「いい事を考えたぞ」

 空を征くヤマの後ろ姿は今や少女のものではなくなっていた。ただ髪は黒いままで背中に流し、閻魔王と同じように空の水を弾いている。彼の向かう先が何処かはまだ判断出来ない。すぐに追わぬ閻魔に怪訝に思って佳耶は彼を振り返る。閻魔の遠方を見通すような眼差しに、佳耶は眉を寄せる。

「まさか……、陵邸に……?」

 もしかすると、彼には本当に遥か遠くの景色も見えているのかもしれない。空を飛んだり雷を呼んだり、超常的な力を持つ閻魔なら可能と言われても納得いく。

「どういう事」

 自分の姓名(なまえ)が出てきた事で、清人は問い詰めるように閻魔を睨み据えた。この状況では、ヤマが陵邸に向かっているという受け取り方しか出来ない。焦れたように清人は走り出した。ほとんど同時に閻魔王もふわりと浮かび上がる。

「閻魔王様、お待ちください……っ」

 征崖の制止も構わずに、閻魔は風に髪をなびかせて築地よりも高い空間へと浮上する。最早閻魔が誰の制止も聞かない事は明らかだった。彼の飛んで行くのを見送るような人物は、其処には征崖しかいなかった。既に佳耶も清人の後を追って、陵家の邸へと向かっていた。


 陵邸。羅生門を北へ上り右京の四条三坊へと進めばときはの育った家がある。

 降りだした雨は酷くなり、佳耶の体を冷たくした。しかし目前をゆく清人にその衰えが見られないように、佳耶も足を止める事は出来ない。心臓が破れそうなくらいに動いて、息だって浅いものしか吐けない。そうしてやっとたどり着いた場所には、既に閻魔が到着していた。

 陵家の門をくぐると立派な邸に家人の姿はほとんどなく、閻魔王とヤマが一定の距離を取りつつも真正面から対峙しているだけだった。ヤマはすっかり自分自身の顔をして、閻魔そっくりの顔立ちをしながらも黒檀の髪をなびかせていた。肌の色も閻魔と比べれば日に焼けて見える。本当にこの二人は正反対なのだと思わされる容姿になっていた。

 ヤマの手はときはによく似た少女の腕を掴んでいた。桃緋(とうひ)だ。佳耶は一度だけ彼女を目の前にした事がある。思えば桃緋はあの時、天の火の――ヤマの狂気に囚われていたのかもしれない。あれだけ引きつった笑みを浮かべ、憎しみだけを手にときはを襲ったのだ。しかし今の桃緋の顔は突然のヤマの登場に狼狽えて見える。まるで普通の少女のよう。まるで憑き物が取れたかのよう。本当にそうだったとしたら、何故今更ヤマは桃緋の元に来たのか。

「さすがに自分にはばれちまったか」

 桃緋の腕を引き寄せながら、ヤマは鼻で笑った。

 今ではもう清人と本当の血の繋がりがある相手と知ってはいるが、真の妹だからという理由ではなく、清人には妙な焦燥があった。

「その子に何をしようと……」

「同じ顔をした者を身代わりに立てて自分はそのまま雲隠れする算段(つもり)だったのでしょう」

 閻魔王の言葉を否定も肯定もしないで、ヤマは不敵に口角を上げる。閻魔が間に合わなければ、ヤマは桃緋を殺していた。そして桃緋をときはと思わせるような工作をして、ヤマだけが何処かに潜伏する。あるいは、ときはの体を抜け出して桃緋に移り、身を潜める。何方にせよときはの顔をした者の死をもって閻魔たちの目をくらませる気だったのだ。閻魔にはよく分かっていた。

「なんてことを……」

 呟いたのは誰だったか。

「しかしもう遅い」

 勝利者の笑みでヤマが宣言する。ヤマは状況を呑み込めていない桃緋の肩を掴み直すと、彼女に視線を動かした。

 彼が何をしようとしているのか、閻魔に看破されていても誰しもの不安を煽る――その瞳が少女を向いている限り。その場の各々が最悪の場面を想像して一瞬身を竦ませていたその時に。

 兼直は動いていた。

「……しづ……っ!」

 兼直がヤマの背に体当たりをしたのだ。一体何処に居たのかも分からぬ男の存在に、ヤマも反応が遅れた。その男は酷く生気を失った、病人のようにやつれた頬をしていた。陵兼直は、既に此岸には存在しない女の名を呼んでヤマにしがみつく。

「しづ、逃げろ!」

 それは兼直が生涯でただ一人愛した亡き妻の名前。その一時(いっとき)だけで清人は悟った。薄々感じてはいた事だ。兼直は死んだ妻しづにしか執着がない。しづが死んだ理由は体が弱いのに二人目の子供を生んだ事からだ。使用人からの言葉尻でも知れた事だったが、兼直は二人目の――桃緋の出産に際し、母体の命が危ないと産婆に言われ“ならばその子を殺せ”と言ったらしいのだ。我が子よりも妻を愛する、そんな事は清人とときはが放っておかれた事を思えば何て事のない真実。だが我が子の身を案じたしづが信用のおける女の召し使いに頼んで生んだ子を鄙に移した。

 不可思議な(えにし)だ。兼直がしづの若い頃に似た娘を助けるなどと。かつて我が子を殺そうとしたというのに。

 しかし彼にはもう、この世にいない妻しか見えていないのだ。ときはを拾って来たのだって、幼いながらにしづの面差しを見つけたからこそ。今だって桃緋自身を、自分が殺そうとしたはずの、妻と共に死んだと彼は思い込んでいる娘の姿などと思いもしないに違いない。

「――あ……」

 兼直の声に、ときはの方が揺さぶられたのだろうか。ヤマが少女の声を出す。その隙に兼直がヤマの体を押し出して、桃緋から引き離そうとする。桃緋は自分が庇われた事が信じられないような顔をして、肉親(ちち)の顔を眺めている。

「うるせえっ。桃緋、お前が来いッ」

 似通うところのある桃緋の心の隙間には入り込めても、性質の違うときはの体では対立がすぐに生まれてしまうのか。それでヤマはときはの体を捨て桃緋という器を手に入れようとしたのか。

 兼直を突き飛ばすと、ヤマは桃緋の腕を引き、額をつき合せた。

 瞬間、ときはの中に桃緋の意識が流れ込んできた――。

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