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二十九、声

 未だ、あの夢を見る。

 地獄道をゆく人の苦悶の声を聞く夢だ。ときはは、冥府に来てから訳の分からぬ夢ばかり見ている。地獄の記憶が少しだけ薄れるにつれ、以前見ていたあの夢が混じるようになる――。

 呼ぶ声が聞こえる。

 どうしたって届かぬものを求める声が。

 半身を失ったような悲痛な悲鳴が。

 真実を告げられ自分の世界が崩れ去る音が。

 聞こえる。

 お前の居ない世界なんて。

 みんな、まがい物だったなんて。

 目覚めたときはが気がついたのは、夢の中の出来事は二つに分けられるのではないかという事。

 どうにも、古い記憶と比較的新しい記憶がときはの夢の中で繰り広げられているように思えてきた。

 それでも体を起こして活動しているうちに、夢の内容は空に溶ける煙のように霧散してしまうのだった。地獄道の悪夢が減ったとよろこぶべきか、それとも見た事もない光景を夢で見る不可解は何なのだと疑問を持つべきか。ときはには判断しかねた。




 昇降機を一人で乗ってみたいと思ったのは、特に意味のない事だった。あれがどういう原理かは分からないが、体を動かさなくとも上下の移動が出来る乗り物なのだ。ときはは、自分の手で動かしてみたかった。待つだけの身の上なんて御免だった。自分の手で何かをしてみたい、ときはは生来そういう子だった。冥府に来たばかりの頃には他所事に関心を奪われ忘れていたが、冥府には興味深いものがたくさんある。

 佳耶がやっていたように、昇降機の中に入って取っ手を掴む。これをどうするのかまでは覚えていないが、引っ張るか押し出すかするはずだ。ときはは引こうとしたが、以外にも動きは固く、なかなか思うようにならない。今度は押してみた。するとさっきよりは上手くいき、がくんと音を立てて取っ手はときはの手で奥に動いた。

 昇降機の大きな戸が落ちる。床が揺れ、何かが稼働する音がした。周りが暗い壁に覆われているというのに、視界が悪くなる事はない。まるで地獄道の空のようだと思うと、ときははあまり良い気分にはなれなかった。

 しばらく続いた振動が止まり、ときはは昇降機の戸が再び開くのを見た。そういえば行き先は何処になるのだったか。思いながらも一先ず昇降機の外に出てみる。奥の間から出てきたのだから、ときはの寝起きする、見慣れた場所ではない。奥の間と閻魔庁をつなぐのがこの昇降機だとは分かっていたが、その他の場所にもつながっていたと記憶している。ときはは先を進んだ。

 奥の間の室内とほとんど変わらぬ造りの建物の中にいるというのは分かっていた。だが、やけに人気が少ない。閻魔王と会ったあの房と似た雰囲気とでも言おうか。ただ人の姿が少ないからそう思うだけだろうか。ときはは、足を前に進めながらもいつ引き返そうかと考えていた。どこの房の扉も閉まったままで、其処から誰かが出てくる気配はない。人の行かない場所なのだろうか。

 少しずつ、足元が冷えてきたように思われる。知らずのうちにときはは自分の手首をきゅっと握っていた。何かを掴んでいないと、自分が此処にいるかも分からなくなりそうだったのだ。

 風の音が聞こえるような気がする。洞窟を通る風の音に似て、どこか物悲しい。

 ――……い

 ぴたり、とときはの足が止まった。

 手首を握る腕の力が強くなる。

 人の気配は全くない。それなのに何故か、人の声のようなものが聞こえる。

 ――……来い

 今度こそ単語という形になって、ときはの耳の奥に滑りこむ。ぞわぞわと、背筋が粟立つのが分かる。

 引き返そう、思った時にときはは腕を手首飾りに引っ掛けて、ぴんと張った何かを途切れさせてしまった。最初はそれが何か分からず、いいから元の場所に戻ろうとした。踵を返しかけたときはの目に、廊下を転がっていく青色が見つかる。あれはときはに必要なもの。冥府の例外である彼女を守る薄紅色の勾玉と共に手渡されたもの。用途は分からずとも、ときははあれを持っているべきなのだ。

 球体であるそれはころころとどこぞへと転がり、ときはは慌てて青色を追った。

 ――そう、そのまま……

 またその声が聞こえるまでは、ときはも青色の珠を取り戻すつもりだった。

 どっどっと、心臓が急に忙しくなる。何だ、この力ある声は。ときはの足は止まってしまい、底知れぬ力を持つ声の出処を探すように周囲を見回す。

 どこかで聞いた事のあるような声だ。それも最近、聞いたように思われる。

 恐ろしいと思う反面、従わねばと思わされる、そんな声。

 もうあの青い珠の事はどうだってよかった。ときははこの声に抗わねばならない。

 ――おいで

 まるでときはの躊躇いを知って、声色を変えたかのような優しい声。

「なんで……」

 それ以上続けられたら、ときはは従ってしまう。そう思えた。

 あの声は懐かしい。あの声は知っている。あの声はときはを操る事が出来る――。

 がたん、と音がしたのを切っ掛けに、ときはは動けるようになった。来た道を小走りで戻る。

 なんだあれは。なんだあの声は。なんだ、この場所は。

 待てと言われた気がするが、ときははそれに従えない。ただ単純に怖いのとは違う。あれはとても魅力的な声――

 人にぶつかったと気づいたのは、ときはがよろめいてたたらを踏んだ頃。

「あ」

 ときはより少し背丈があり、癖のある髪をふわりと揺らす少女――胡蝶だ。彼女は少し驚いたような顔をしていた。胡蝶とこうして顔を間近で合わせるのは、地獄道から戻って以来はじめてだ。ときはが何かを考えるより早く、胡蝶はきゅっと眉を寄せてみせた。

「ちょっと、何してるのよこんなところで!」

 語調に穏やかさはあまりない。とはいえ怒っても聞こえない。ときはは自分が先ほどまで何をしていたのかも忘れ、なんとなく胡蝶の顔を眺めていた。

 猫に似た瞳がちらとときはを見るが、それは一瞬ときはの視線と重なった後にすぐに逸らされる。

「またふらふら歩いてたの? ここは立ち入っちゃ行けない場所って聞いてるはずよ」

 そうだっただろうか。反論するより前に、胡蝶はぐいとときはの手首を引っ張った。

「とにかく戻るわよ」

 胡蝶に連れられて、また昇降機の中に戻ってくる。彼女が昇降機を操作して、また振動と共に何かが動くような音がする。閉じられた空間の中で胡蝶と二人になって、ときはは言葉をつむぐ事が出来なかった。胡蝶も同じだった。

 普通であれば、胡蝶のした事はときはにとって危ない事だったから、彼女はもっと殊勝になるべきなのだろう。知らなかったとはいえ、肉体を伴うときはを地獄道に放り込み、夢生にさせた。そしてときはは胡蝶のせいで地獄の住人に追われ、狂気に晒された。佳耶が来るのが遅かったら、ときはの身はどうなっていたか。その可能性を思えば胡蝶のした事はひどいものだ。

 だが胡蝶ときたらどうだろう。何食わぬ顔をしてときはに軽い叱咤を加え、以前と同じように素っ気ない態度を取る。謝って欲しい訳ではなかったが、ときはを窮地に立たせたのだから、もっと違う素振りをして欲しいようにも思えた。

 胡蝶の事はよく分からない。以前だったら知りたいとは思わなかっただろう。今だってそう思う訳ではない。ただ、ときはを睨みつけてくる視線の理由が知りたくなっただけだ。

「あんたさ」

 あの時、ときはを地獄道に置き去りにしてどうするつもりだったのか。手首用の装飾品を奪ったのは何故だったのか。尋ねるつもりでときはは一区切りをつけた。

「わたしも神名火守見習いだったの」

 が、それを遮ったのは胡蝶の一言だった。ときはの言いかけた言葉を無視した、というより彼女も自分の言いたい事で頭がいっぱいで聞こえていなかったかのよう。

「へ……?」

 呆けた声を上げるときはの方は見ないで、胡蝶は続ける。

「冥府の神名火守は、人手が足りなくって。それでちょっと前から見習いとしてわたしもいろいろ覚えてきたんだけど」

 佳耶にも幾らか話してもらったが、ときはには冥府の神名火守の事がよく分からない。そもそもが人道のそれとどう違うのかも知らない。拠点とする場所が冥府にあるだけなのか、そうではないのか。ときはは冥府の神名火守が六道のすべてを行き来すると、未だもって知らなかった。

 胡蝶はそれを知っていても説明はせずに、ただ自分の前方を向く。

 前後関係を話してくれないから、相変わらずときはにとって胡蝶は親切じゃない人でしかない。彼女は彼女で思うところがあるのだろうが、それを少しは口にしてくれないと分からない。

「……それで?」

 ときはの方が一歩譲って、彼女に聞いてあげる事にする。そうしないと、いつまでも話は平行線のままだ。呆れた声を上げないように気を使ったつもりだが、胡蝶はどう思ったか。あまり楽しそうには聞こえぬ声で、彼女は言った。

「だから、あんたと一緒だってこと」

 確かにときはも人道では神名火守の見習いだ。冥府においては未だ客人の身分だが、人道に戻れば胡蝶の言う通りになる。だとして、一体それが胡蝶に何の関係があるのだろうか。ときはが口を挟む隙間を与えまいというかのように、胡蝶は更に言葉を重ねた。

「わたし、あんたの事はあんまり知らなかったけど、共通点があるんだなって思ったの」

 一体何が言いたいのだろうか、矢張り分からない。同じ身分であれば、少しは歩み寄れると思ったのだろうか。胡蝶はそうは言わなかったし、態度もいつものつんけんしたものは消えない。まさかねと、ときはは思い直して胡蝶から目を離す。

 ときはが佳耶に上手くお礼を言えなかったのと同じように、胡蝶も何らかの理由があって、思った言葉を言えないだけかもしれない。その内容までは想像出来ないが、ときはには胡蝶の気持ちが分かるような気がした。もしかすると、ときはと胡蝶は似ているのかもしれない。だからこそ反発しあう。だからこそ、思いが分かる気がしてくる。胡蝶は何か言いたい事があっても、そっくりそのまま言えない状態にあるのだ。そんな気がした。

 とはいえ本当に彼女の事が理解出来るはずもなく、ときはは相手の思惑が分からないまま胡蝶と別れる。




 一人になって、佳耶の姿が遠くに見えたから広い廊下を先に進んだ。特に意味はない行為だった。単に知った顔を見たからつい追いかけてしまっただけ。

 それだけの行為が、ときはに大きなものを与えるとは、想像もしなかった。

 道行く人にぶつかりそうになって、ときはは慌てて避けた。相手は自分が悪かったと謝ってきて、ときはは気にする事はないと首を振った。

 相手は、ときはの顔を見た事があると言った。それは人道での事だろうかとなんとなく緊張したが、冥府の中での話だった。おばさんと言う程老けてはおらず、お姉さんと言うにはやや年をとっている、そんな年齢の女性だった。彼女は佳耶を知っていて、その佳耶が連れて歩くときはを幾度か見たと言ってきた。だったらどうなのだと少しは思ったのだが、彼女は佳耶に友人が出来たようで嬉しい、ととれるような言葉を吐いた。

 佳耶はときはの友人なのだろうか。今更ながらそんな思いが傾く。ただの友人というのは違う気がする。お礼を言うのが気恥ずかしい時もあるが、今ではときはは、佳耶を信頼している。地獄道で体を張って助けてくれたからというだけではない。気がつけば、彼はいつも視界の端にいた。それが当たり前の事のように思えて、ときはには友人という言葉の他にぴったりくる言葉がある気がしたのだ。

「ぼんやりして、どうかした?」

 女性は黙り込んだときはに心配そうな顔をする。気にしないでと言い添え、ときははそろそろ彼女と別れる事にする。考え込んだ後に佳耶の後を追うのは何故だか躊躇われるが、あまり知らぬ女性の相手をするのも気疲れする。またそのうち、と告げてときはは女性に軽く会釈をした。

 すっかりときはは、佳耶の姿を見失ってしまった。それはそれで構わないかもしれないが、なんとはなしに見覚えのある廊下が奥にあるような気がしてそこに向かった。

 閻魔庁の内部は何処も似たような柱や扉が続くものだから、別の場所だと分かっていながら、迷子になってしまう。なんとか違いを探して道を引き返し彷徨いながらも先へ進む事があるのだが、この時ばかりは早くに佳耶の声がするところへ行けた。

 そうしなかった方が、良かったかもしれぬのに。

「――じゃあ、あいつの親は」

 ときはは既に佳耶の話す言葉が聞き取れるところまで来ていた。此処は、いつか閻魔王に会った時に来た場所ではないだろうか。もっと先へ進むと延々と続く細長い廊下があるはずの場所だ。

 佳耶の背中が見えた。誰かと話している。声をかけようか迷って、ときはは足を止める。

「ああ。本当の両親じゃない。もっとも、藤という女性は後妻のようだから元より血の繋がりはないと分かっていただろう」

 もう一つの声は征崖のものだった。彼の体はほとんど柱に隠れて足先しか見えない。

 彼らは、何の話をしているのだろうか。

 聞いた事のある名が聞こえたように思われたが、ときはには足を動かす事が出来なかった。

「しかし父も兄も、彼女とは何の血の繋がりもない。その事を、どうやら兄は知っているみたいだ」

「清人ってやつですね。会った事はないけど、なんとなく余裕そうな顔をしてた――」

 今度こそ、知った名前にときはは心臓を硬くする。

「何、今のはなし……」

 気がついた時には、二人の男の前に足を運んでいた。

 後妻の藤。清人という名の兄。

 その熟語に聞き覚えのある人間が、人道にどれだけいるかときはには分からない。とりわけ珍しい名でもないし、家族間の立場だって同じだ。

 だが、それは他ならぬときはの義母と兄を指すのではないのか。

「……っ、ときは……」

 狼狽えたような佳耶の顔が全てを語っていたというのに。

「どういう、こと」

 ときはは引きつる顔で問わずにはいられなかった。

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