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二十六、人道 参

 雨は止み、雲間からまばゆい日差しが差し込んできた。未だ空の多くを占める灰の雲は消えぬが、久方ぶりの光が人の目を細めさせる。朱雀大路に出た清人はあまりの眩しさに左手を目の上にかざした。手首に光る翡翠色がするりと肘の近くへ少し落ちる。本物とは似てもにつかぬが、特徴だけは掴んだ魚の形の瑠璃(るり)がゆらゆらと動く。

 人の目線に敏い清人は、この腕を飾る装飾品が妹の目を惹いていたと知っていた。腕をおろして、しばしその魚の全身を眺める。視線をずらし、地面を見た後清人は手首飾りを一瞥する。ふうと息をつくと、彼は再び歩き出す。

 いくらも行かないうちに清人は人の肩にぶつかった。

「ああ、すみません」

「む、こちらこそ、前方不注意であった」

 まだ意識が他所から戻らぬまま歩いたせいだ。清人は咄嗟に謝罪の言葉を口にするが、相手の気分を害する事はなかった。軽く会釈して清人が通り過ぎると、相手には連れがいた事が分かった。清人がぶつかった相手のやや生真面目そうな顔とは違い、一瞬目が合った清人に興味もなさそうな瞳をしていた。かくいう清人の方にも彼らに心惹かれたりはしないが、何処かで見たように思えたのだ。気のせいだろうが。すぐに清人は自分の目的のために先へと進みだした。

「何ぶつかってんの」

「なんだその人を馬鹿にしたような目つきは。この古麿をこけにするのか」

 気安い会話が聞こえて来たが、清人の耳を通り抜けた。朱雀大路を下り、西市の開かれる場所まで歩く。何日かぶりの晴れ間に、人々は再び活気を取り戻したようだ。簡素な露店は幾つも広がり、平城京の民を養う食材に始まり、着物や金物、食器、農具に縁起物などの種々の物品が売り買いされている。

 露店で並べられる商品を横目で見ながら、清人は目当ての物を見つけたかのように一ヶ所で立ち止まる。その視線の先には唐物(からぶつ)花氈(かせん)が陳列されている。彼はそれを買いにきた訳ではなかった。店主にどんなものを買うのかと声をかけられるが、清人は見ているだけだと躱した。

 男が一人、清人の隣に立った。

「先日所望していた事の調べがつきましたぜ」

 言いながら、男は清人と同じように花氈を見るでもなくその上を向く。隣の男を、清人は瞳だけで一瞥した。

「それなら、居所が分かったのかな」

 いくら(むしろ)を敷いただけの出店とはいえ自分の店先で客でもない男たちに立ち話をされるのは、店主も歓迎出来なかった。迷惑そうに彼らを見上げるが、男たちは店主の顔すら見ていない。

「いえ。実は――」

 男の声は、より大きな叫び声によってかき消された。清人は反射的に顔を上げる。某かの悲鳴は止むどころか、他の物音も混じって騒々しくなった。もしかしたらと思い、清人は隣の男と悲鳴の方向を迷うように交互に見る。

「そこで待っていて」

 結局、騒がしい場所へと赴く事の多い仕事をする身の自分を優先した。駆ける清人とは反対側に向かう者たちの多さよ。よっぽど恐ろしいものを見たらしい、血相を変えている。先程通ったばかりの朱雀大路に着くと、清人の予想した通りの光景が広がっていた。

 夢生(いめおい)――神名火守が導いて元の場所へ還してやらねばならぬ存在が、人々を怯えさせていた。その数なんと、目に見えているだけでも五つ。常だったら、夢生はたった一体でしか京には現われないのに。外出を禁じられた間も清人は出かけていた。その際にも彼は夢生に遭遇して密かに標結(しめゆい)をしていたものだったが、その時ですら複数ではなかった。

 半分以上が爛れた顔、ずるむけた髪、か細い手足、肋骨の浮き出た腹。醜い容姿のすべてを持つ夢生は、只人は正視出来ぬ姿だった。朱雀大路にはほとんど誰もいない。

 物心ついた頃から夢生について聞かされていたが、清人は夢生が泉穴(せんけつ)から複数出てくるなどと、聞いた事がない。稀にはあるらしかったが、少なくとも清人はその目で見た事はなかった。目元を細めると、手の中に馬酔木札(あしびふだ)を取り出して地を蹴る。

 まだどうしたいいのか分かっていない様子の小さな体躯の夢生に接近すると、相手の動きが遅いのをいい事に清人は一気にその背に馬酔木札を突き刺した。心臓でも刺されたかのように、夢生は甲高い声を上げた。子どものような声にも聞こえたが、それは夢生の体と共に途切れがちになって、砂のように崩れ、消えていった。

 まだ、あと四体。すぐに清人は周囲に顔を向ける。一体は大路を上って、大極殿の方向へと走って行った。人手が足りない。近頃の夢生の噂は人の口にまでのぼる程だ、夢生が多く泉穴を抜け出てくるから陵への謹慎も解けたのかもしれない。夢生の見目に惑わされぬ存在であればときはのような見習いの手でも借りたいぐらいだ。だが今彼女は近くにはいない。遠方へ逃げた夢生を先に追うべきか迷って、清人はすぐにまた近くの夢生に馬酔木札を投擲する。避けられるどころか――夢生は清人に襲いかかってきた。その赤黒い着物を着た夢生は他より体格がよく、やせ細ってはなかった。相手は無手だが、鬼気迫るその目つき――獣じみていた。一瞬、その瞳の狂気にぶつかり、清人は動くのが遅れた。気づいた時には強い衝撃と共に地面に倒れていた。

 赤黒い夢生は哄笑した。常の癖で佩剣していたと思い出し、清人はそれを抜く。夢生には普通の武器や素手では通用しない、分かっていたのにそのあまりの殺気に清人は得物を手にせずにはいられなかったのだ。馬酔木札などとか弱い存在では頼りにならない。冷や汗が背をつたう。

 刹那、夢生は拳を繰り出してきた。身を低くしてそれを避け、清人は一定の距離を保ったまま夢生に対峙しようとした。彼が受けたのはそう凶暴でもない存在に向かって馬酔木札を突きつける訓練だけ。剣も扱える事にはなっているが、生き物相手に向けた事はない。いや、あれは生き物なのかも疑わしい。

 自分の相手がたじろいでいると理解したのか、赤黒い姿の夢生はにたりと笑った。勝者の笑みにかすかな苛立ちと焦燥が募るが、清人は覚悟を決めた。ぎゅっと強く剣の柄を握ると教えられた通りにそれを振り上げる。汚れた着物の一部でも裂ければと思ったが、それはかなわない。ただ後手には回りたくないという思いだけで清人は剣を振るう。なかなか得物は夢生を捉えられない。そもそもが剣では夢生をどうにかする事は出来ないのだ。分かっているのに――清人はこれが終わったら真面目に剣術の稽古をしようと心に決めた。

 夢生の口から笑いともつかぬ声がこぼれる。相手の左拳が清人の顎を打った。頭蓋骨を揺らされたような感覚。視界が回り、一瞬意識が持っていかれそうになった。

「……っく、」

 足元さえ覚束ない清人は次の一撃ももらってしまう。今度は腹だ。口の中から何かが呻き声と一緒に出てくる。げほげほとむせながら、清人の体は本能的に後退しようとしていた。足が前に進んでくれない。

 あの夢生の戦い慣れた様子は一体何事だ。清人は自分がいかに平穏な最中にいるかを思い知らされた。勝ち目などない、そう感じたはずなのに。視界に見えたその腕が無防備に映っていたのを見咎める。

 せめて一矢報いたいと、一旦歩を引いて、勢いをつけた。

 綺麗な線が閃いた。

 その腕は血も出ずにぱっと地面に落ちた。清人の体勢も崩れ、膝をついてしまう。奇跡的に腕を切り落とす事に成功したが、これでは背後を狙われてしまう。顔だけが少し後ろを向いて、その身に迫る狂気を瞳に映す。片腕を落としたのは無意味だったかと諦めかけた頃――

()く、(さか)りゆけ」

 低い声が響いた。

 耳が痛い程の雄叫びが空をつんざく。顔をしかめながら、清人は何が起こったのかを知った。他の神名火守が来たのだ。安堵と情けなさで重い体を動かし、振り向くとそこには思いもよらぬ姿を見つけられた。

「あ、あなたは……!」

 宗家の当主の仕事など、もっと別のところにあると思っていた。少なくとも彼が外で体を動かしてするような仕事は必要ないのだと。体をぼろぼろと細かい粒に変えていく夢生の向こう側には、神名火守を束ねる主、最刈是川その人の姿があった。共の者を数人連れているとはいえ、標結など当主のやる仕事とは思えない。やはり信じられない気持ちで清人は立ち上がった。

「陵清人、次はお前の番だ!」

 突然是川は叫んだ。はっとなって清人が周囲に視線を散じると、地面には馬酔木札で作り出した大きな三角形が見えた。その中心には二体の夢生が収まっていた。後は其処へ馬酔木札を投げ入れるだけで標結は完結する。当主に手柄を譲られたと分かったが、今はそんな下らぬ事を言っている場合ではない。

 清人は懐から最後の馬酔木札を取り出すと息を吸い、札を投擲した。

(いまし)が目に映るは、此岸(しがん)(いめ)なり。(われ)は神名火守、天の火を掠め取るは禁なりと示教(しきょう)せん!」

 言葉そのものには効力はない。しかし体を張って夢生に対峙した今、言葉は清人を守るように広がったように錯覚した。

 二つの人に似た影は、ざらざらと砂のようになって消えていった。

 これで終わりではない。清人は、五体のうち一体が朱雀大路を上っていったのを忘れていなかった。

「まだ、大極殿の方へもう一体」

「もう広成が向かっておる」

 言うと是川は何て事のないように応じた。さすがは神名火守の頂点、抜かりはない。まだ骨がずきずきと痛む顎を押さえて、清人は剣を鞘に収めた。改めて当主の顔を見ると、いつか室内で見た時より若く見えた。明るい日差しの下で顔を合わせるのは初めてだからそう思うだけだろうか。もしかすると、彼には室内でじっとしているのは似合わないのではないか。なんて事を思いながらいたからだろうか、是川に訝しげに問われた。

「何だ、その顔は」

「いえ……まさかご当主が標結をしている姿を拝めるとは、思ってもなかったので」

「何だそれは」

 是川は呆れたように笑う。彼は思い出したように共の者にまだ夢生がいないか見て来いと告げると、清人に顔の正面を向けた。着物の彼方此方に土をつけ顔に擦り傷を作った清人に、労りの眼差しを向けていたが、それはいつしか別のものに変わる。国の行く末を憂うような真剣な目つきだった。

「お主なら気づいておるだろうが、ここ最近で夢生の数が異様に増えている」

「ええ……そのようですね」

 大極殿のある方向を――広成が夢生を追って向かった方角を眺める清人。この当主の補佐役だ、万一にも標生が失敗する事はないだろうが、それにしたって数が多い。ときはが怪我をした頃から、巨大な夢生や凶暴な夢生が現れるようになっていた。ここのところでは只人の前にも姿を見せる程、数が増えてもいる。夢生はそんな風に増殖するような存在ではなかったはずだ。まして、凶暴性もあまりない。何かが変わってそうなったのか、これまでが例外だったのか。清人には分からない。

 是川も清人に倣って遠くにそびえる大極殿を眺める。立派な建物だ。大唐国のそれを真似て造った帝のための建築物。(みやこ)の象徴。

「……何が起きているのだ、この京に……」

 砂が目に入りそうだとでもいうように、是川は目を鋭く細めた。




 あれから、是川は神名火守に夜も警備にあたるように命じた。清人も明後日になればそのために邸を出ていくだろう。しかし今しばらくは体を休めろと是川に言われ、有り難くそれに従う事にした。

 だがその前にやる事がある。夢生と遭遇する前に会っていた人物をもう一度探さなければならない。

 騒動があった後で、人々はあまり外を出歩かなくなっていた。西の市でもまだ夕暮れ時でもないのに店じまいにする者まであった。少し人気の減った中で、清人は待てと言った相手が言葉通りにしていてくれた事を知る。内心で西市にいてくれてよかったと思いながら、「遅くなったね」と断りを入れる。

 今度は店の客を装う元気はなかったため、清人は目前に何もなくともすぐに本題に入るように言った。男は一つ頷くと、清人の望み通りに端的にはじめた。

「残念ながら、その者は既に死んでました。ただ……」

 続く言葉に清人は眉を寄せていく。

 男に調べさせた事は、ある程度結果が予想出来た事だった。だがそれでも清人の中には一通りではない様々な感情が行き交う。

 全て聞き終えると、清人はとても長い息を吐き出した。

「……ときは……」

 手間賃を受け取った男が去ってからも、清人はその場から動けないでいた。

 風が少し吹いて、雲を押し流す。西の空では薄い白藍色が見えたが、雲が太陽を隠してしまった。雲が通りすぎて再び日が顔を見せるまでの間、清人はただ立っていた。

「……やっぱり、そうだったのか」

 歩き出した青年は、ほとんど全ての事を知っていた。だがそうする事が正しい事だったのかどうか、疑わしく思った。

 また一筋風が吹いた。それは雨雲を運ぶ風だった。風は雲を呼び、雲はいずれ嵐を呼ぶだろう。

 寧楽の京は、また黒い雲に包まれようとしていた――。

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