二十五、人道 弐
昼であっても仄かに薄暗い空の下を走る。雨が続くのは、清人にとって好都合だった。雨よけの衣を被って出かければ、顔の判別は出来ない。どうせ陵邸に居座る最刈の二人は、名ばかりの見張り役だ。狭くない邸をたった二人で監視出来るはずがない。清人は事実上の蟄居を命じられて以来、一度となく秘密裏に出かけていた。
時には人を使い、あるいは自身が赴いて、清人は密かに平城京を闊歩していた。ある目的のために。
“天の火”を巡る一件について、清人は最初から不思議に思っていたのだ。推測も含むが、ある程度調べれば分かるような事が、清人の手の中にはある。人の口には戸を立てられぬといういい例だ。それとも自身の行為を後に辿られるなど考えてもなかったから、特に対策をしていなかっただけだろうか。いずれにせよ、清人にとってはそう難しい作業ではなかった。
これまで人伝てに聞いたり、聞き出したり自身の目で見て調べた事から導き出した答えを、彼は確かなものにするために――ある者の処に向かっていた。
簡素な小屋のようなものがあるだけの、貧しい者たちが住まう区域。彼の者の家の所在は、とっくに調べてある。
雨が、ほんの僅かの量が落ちるだけになる。雨よけを少しずらして視界を広くし、清人は自分がやって来た場所が正しい場所かどうか確認する。
清人がその家の戸口に立つより早く、相手の方から彼を見つけてくれた。
「……まだ何か、御用ですか」
普段はもっと優しげな眼差しをしているはずの少年は、しかし警戒を瞳に浮かべ、身構えた。
清人は彼――九曜浅葱を探していたのだ。まとも会うのはこれで三度目だが、ときはが彼と行動を共にしているのを、数度見かけた事もある。初めて見たのは、妹を標結に慣れさせようと仕事をさせていた頃。人の顔を覚えるのが得意な清人は、ときはのように初対面の浅葱の顔を忘れたりはしなかった。まさか、こんな風に会いに来るとは思ってもいなかったが。
浅葱という少年は、地味な顔立ちというのではないが、整った顔の清人と比べれば見劣りする。その日の暮らしに精一杯の、何も持たぬただの子どもにしか思えない。
神名火守でもない彼に、こうして何かを頼みにくるなどと。清人は内心で笑いそうになった。雨よけを肩におろすと、清人は相手に顔がきちんと見えるようにした。そして口元だけで、うっすらと笑みを浮かべる。
「そうだね。まだ用があるんだ」
少年は分かりやすく苦い顔をする。困惑も見える目つきをしばし彷徨わせたが、早く用事を済ませてほしいとでもいうように目で続きを訴えた。簡単だ、と清人は前置きする。
「君が告げた嘘を撤回してほしい」
その言葉は、瞬時に浅葱の頭までたどり着かなかったようだ。一拍近く遅れて、少年の体が強張ったように一度震える。
「陵家の不名誉になるような行為は止めてほしいんだ。誰にそそのかされたかは――まあ大体分かるけど、言わなくても構わない」
「……なんの、事ですか」
少年はしらを切る。清人には無駄な時間でしかなく、ため息をつきたいくらいだ。少し首を傾げると、どうしてそうするのか分からない、といったように清人は続けた。
「もう分かってるから、取り繕わなくていいよ。君が何処かの某かに言われて、ときはを知らない、一度会っただけだという虚偽を並べた事を、撤回してもらえないかな」
清人は雨水と土が混ざって濁った色になった地面を見下ろした。
「あの日ときはに会っていたという真実を、もう一度最刈家当主の前で告げてほしい。そうすれば陵家への疑いの決定打は消える」
周りの景色を反射して、地面に鏡を作る水たまり。時折、思い出したようにそこに雫が落ちる。
「……何が、目的なんですか」
浅葱の言葉に清人は少し顔を上げる。
躊躇うような顔をしつつも、浅葱はまだ心を決めかねているようなかすかに震える声を出していた。
「言っただろう。家名に泥がつくのが嫌だと。繰り返させないでくれないかな」
表情の変化はほとんどなくとも、清人が苛立ったのが彼にも分かったのだろう。眉を寄せ、浅葱は目元を引くつかせる。どういう表情を作ったらいいのか分からない――そんな様子に見える。戸惑いながら、自分の中の葛藤に悩んでいるのだ。
なんとなく、清人は肩に載せた衣の表面を撫でる。そうする事で衣に落ちた雨が払えればよかったのだが、半分以上は染みこんでしまっていて上手くいかない。僅かな雨滴を追い払うと、清人は一つ思い出した事を口にしてみる。
「病気の姉の薬代でもぶら下げられたかな?」
今度こそ浅葱は分かりやすく動揺して見せた。体の両脇で拳を握り、俯いて奥歯を噛みしめる。
「だったら、どうしたらよかったって言うんですか……!」
なんの力も持たない浅葱に、一体何が出来たというのか。
貴族に命じられ、体調を崩した姉を助けてやれるからと、二つのものを天秤にかけられ、浅葱に他の道を選ぶ事が出来ただろうか。何度繰り返しても、浅葱は姉を助ける術を探しただろう。彼女は本当に体が弱く、長く床に伏していたらそのうちに息を引き取ってしまうのではないか――。
父の名足が帰らぬ今、浅葱にとってはただ唯一の肉親なのだ。
彼女を失って、浅葱がどうして生きていられようか。
姉を見捨てて真実を取るか?
ただの簡単な嘘をつくだけが、どうして大事になろうか?
浅はかな少年が、何も知らぬまま大切なものを守ろうとしただけではないか。
「ぼくだって、ときが大変な目に遭うのは嫌だった。でも、あの人たちは、どんな事になるかなんて言わなかったし、何も知らなかったんだ……!」
浅葱には神名火守の事情は分からぬ。まして、自分がついた嘘でときはがどうなったかなど、最後までは知らない。嘘をついた浅葱に泣きそうな顔を見せたあの少女。彼女があの場で何と呼ばれていたか。その事実と最刈の者の言葉とで断片的に推測した、彼女の不利な状況だけが浅葱の知る全てだ。神名火守の仕事内容すらよく分かっていない浅葱だが、ときはが何らかの罪を犯したと見なされているのでは、という事だってあの場でも分かっていた。だが分かっていて、見ない振りをした。自分の事で精一杯で。姉の事が第一で。そんな余裕はなかったから。
「大げさかもしれないけど、姉は本当にひどい熱を出していて、死んでしまうかと思ったんだよ! それが助かるんだったら、友を知らないって言うだけなんて簡単じゃないか……!」
その時には、もう清人は正面から浅葱の顔を射抜くように見ていた。
「何も知らないから、自身の家族を守るためなら、何をしてもいいと思ったのか」
断罪する裁判官の瞳で。
「そんな言い方……っ」
清人の言葉で、眼差しで、自分のあやまちが大きなものだったと理解せざるを得なかった。
「君は姉を選んだんだろう。だったら何故胸を張らない」
冷たく、突き放したような声。最初から、この清人の声も表情も和らいだものではなかった。
最初から、この青年は浅葱の罪を知っていた。
「嘘を撤回しろと言っておいて、何を」
もう、浅葱には訳が分からない。清人の考えが、罪を裁くような事を言っておいて、彼は皮肉にも浅葱に無垢な振りをしろと言っているように思えてくる。
この人はきっともっと、敵とみなした人物には冷酷になれるのだ。浅葱は直感的に悟った。自分はまだ、強く攻撃はされていないだろう。それとも、まさかとは思うが彼は浅葱にどう接したらいいのか分からないのだろうか。
「そうだったね。何方にせよ、君は我が一族に面倒事をもたらしてくれた。どうあっても素直に慰められはしないさ」
視線をそらし、清人は小さく笑ったようだった。浅葱にはそれが今の場面に不似合いなものと感じ、信じられない程だった。
ほんの僅か、清人が浅葱の卑怯さを理解してくれたようにすら思えて、しばし呆気にとられる。
「君は巻き込まれただけに過ぎない、それは分かってはいるんだ。これは神名火守の問題」
清人もただ浅葱を責めにきただけではないのかもしれない。もちろん嘘の撤回を頼みに来たのだろうが、浅葱には彼にもひと通りでない思いがあるように、感じられた。
清人という人物を、浅葱は本当によく知らない。時折ときはの話題にのぼるが、ひどくつれない程ではないにせよ、優しい兄という訳でもないようだった。ときはの話ともまた違う人物像を見せたような、陵清人。
彼は自分の家を守りたいのだろう。もしかすると、浅葱と同じように。名だけを、というのではなく。
ときはもその中に入っているのだろうか。そうだといいのだが。
浅葱は静かに握っていた拳を開いた。
「……ときは、どうしてるんですか」
自分が傷つけた、あの少女は。
清人も同じ人物を脳裏に描いているはずだ。ちらと様子を伺うと、彼は意外にも涼しい顔をしていた。そしてどこか、困ったようにも見える、苦笑を浮かべて。
「さあ、どうしてるんだろうね」
また意地の悪い言い方を、と浅葱は小さく唇を尖らせる。
苦笑を引っ込め、清人は少し空を見上げた。雨がいつの間にか止んでいた。ほとんど降っているのか止んでいるのか分からぬ天気だったが、もう顔を上げても何も落ちてはこない。
清人の瞳が、また少し剣呑に細められる。浅葱と違って、清人には事態の半分以上が見えている。
音もなく息を吐き出すと、清人は語り始めた。
「神名火守の仕事は、帝にも認められた列記とした国のための仕事だ。ただ、昨今、宮中でやや異質に映っているのも事実。君に嘘を強要した人たちは、神名火守を守ろうと必死なだけなんだろう」
浅葱には少し理解の及ばぬ内容を告げられ、清人を見上げる。
「誰かを槍玉にあげて手早く処分をして、平穏を取り戻そうとした、そういう事なんだろう」
誰の事を言っているのか、浅葱にも分からぬはずがない。彼は学がなくとも頭の回転の悪い子どもではなかった。ときはだ。ときはがその槍玉にあげられたのだ。彼女に全ての罪を着せ、罰してしまえば全て解決とでも考えた者がいたのだろう。
「そんな事って……!」
「君の姉の事は、此方でも何とか対処しよう。盾にとられぬように」
何かを促すように、清人は浅葱の家を視線で追う。後顧の憂いは清人がなくすから、浅葱にはやるべき事をせよと、告げているのだ。
「……本当に、ぼくは何も知らなかったんですね……」
「知らなくて当然だよ。君は神名火守の一族ではないし、一族の者でも深く探ろうとしなければこんなところまでたどり着けない。一部はおれの推測だしね」
本当に、仕方がない事なのだ。浅葱はただ利用されただけなのだから。
「嘘を、嘘だと告げるだけでいいんですね」
「それで完全に我が家への疑いが晴れる訳ではないけどね」
またもや嫌味な言い方だ。浅葱は最早、呆れ顔に近い。
「分かりました。何時、伺えばいいでしょうか」
口元を少し隠して、清人はうっそりと笑う。
貧しい生活をする少年にはそれなりの事情があるだろう。それは清人も分かっていた。ときはから少し聞いた人物像と、調べた事によると彼は人が好いらしい。それも知っていた。だからどうやったら彼を従わせる事が出来るか――清人はその事を考えた。
おかしいと思っていたのだ。ときはを矢鱈と攻撃する最刈家の男、証人が現われて、彼に有利ともいえる発言をするという事に。清人は浅葱がときはと友人だと知っていた。これは仕組まれた事だと、あの時に既に薄々気づいていた。
前言を撤回し、それを周囲に認めさせる事が難しい事も時にはある。だがこうして事情を説明し、浅葱の良心に訴えた今、彼の決意は揺るがぬだろう。姉の事も保証すると言ってある。
これで、陵ときはへの嫌疑は薄れる。そうする事で陵の家が被る汚名を少しは晴らせる。何もそのためだけにやっているのではない。あの、頭の固い、事態を少しも呑み込めない、神名火守の重鎮たちの目を覚まさせるために必要な事なのだ。
嘘の証人を立てまでして、一人の少女に罪を着せようとする者がいる、という事を知らせなければならない。その事が何を意味するか――頭のいい者なら分かってくれるだろう。
清人には神名火守の行く末があまり明るいものには思えていない。だからこそ今、改革が必要なのだ。ただでさえ“天の火”を失い存在自体が危うい状態にある神名火守だ、団結力からは程遠い者たちばかりだという自覚もしてほしい。
例えその先に救いがなくとも、清人は全てをつまびらかにしておきたかった。何故かと問われると、所以を言葉には出来ない。彼は自分でもよく分かっていないのだ。敢えて言えば、そういう性分なのだとだけは言えよう。
九曜浅葱は、再び最刈家の邸に迎え入れられた。
ある者に家族のために嘘をつけと命じられたと言い、謝罪をした。清人は嘘を撤回するだけでいいと言ったはずだが、浅葱なりに思うところがあったのだろう。
その者はこの場に居る、などと浅葱が言い出すものだから――重鎮たちはざわついた。
「何を申すか、この下賤の民が」
「我らの中に事態に混乱を招くような不届き者がいるとでも?」
「しかし、真実ならば事だぞ」
これにはいかな最刈家当主でも、苦虫を噛まされた。最初こそ、浅葱は随分と大胆な事をしたと感じた清人だったが、大の大人たちが狼狽える様が滑稽で、これはこれでよかったのだと思うようになった。
収拾のつかなくなった事態に、是川は会の終了を宣言するしかなかった。
陵家の当主とその長男だけが居残りを命じられ、納得のいかぬ男たちは不満を口にし房を追いたてられた。
浅葱も最刈家の人間に連れられ屋外へ出された。この場には今、最刈是川と広成、兼直と清人しかいない。静かになった房に、清人は安堵する。煩い外野はない方がいい。彼らは文句ばかりを口にして実際には何もしない。是川は違うはずだ。
話し合いの人数が減ったために、彼らはより狭い円を作って集まっていた。当主が口を開く。
「……して、本当に真なのだろうな? あの少年の言は」
浅葱は一度嘘をついている。それを認めたという事は、ある意味では疑わしい。一度犯した罪をもう一度犯さないと、人は見なさない。過去の言葉が嘘であったと言っても、その他の言葉が嘘でない証拠はない。ただ場を混乱させるだけの言葉ではないのかと、是川は疑っているのだろう。清人は出来る限り真摯に頷いた。
「ええ。妹が彼と懇意にしている事は、おれも知っています。それに、うちの家人にも、彼の顔ぐらいなら分かる者がいるはずです。探せば、少年の住まいの近隣にも妹を知る人間が――」
「よい、お主の言い分はよく分かった」
言葉を重ねようとした清人を、是川は簡単に遮った。その目つきは存外にも優しく見え、清人はもっと材料を用意していたというのに、拍子抜けだった。しかし当主の眼差しはすぐに厳しいものに変わる。
「我が一族に腹に一物を抱える者がいる、という事も分かった」
少ない情報で、是川は大半の事を理解したようだ。神名火守が内部分裂をしようとしていると。その目的がどうあれ、是川のあずかり知らぬところで行動を起こしている者がいる、とも分かったらしい。内心で清人は是川の聡明さに舌を巻く。
折角だからと清人は自分が知っている情報を少し明らかにした。あまり褒められた方法ではない行為で手にした情報は別にして。浅葱は利用されただけに過ぎず、ときはもその内に入るかもしれないというような事、宮中での神名火守排斥の機運などだ。最後に、外出を禁じられたわりにはあまりにも知りすぎている清人に、是川はひとつ目配せをした。黙っていてやるぞ、という風に清人には見えた。
何でもこの当主にはお見通しか――。何故だか清人は首を振りたくなったが、我慢をした。
ふいに是川は会話に少しも加わろうとしなかった兼直を振り向いた。
「兼直。主はよい息子をもったものだな」
「――過分なお言葉、愚息には勿体のうございます」
ここに来て尚、この陵の当主は事態に何の興味もなさそうに見える。彼はもう、此岸のすべてに興味がないのだろう。是川は小さく呆れ顔をするしかない。
「相変わらずだな、主は」
立ち上がると、是川は広成に視線を送った。それを受けて、広成は一つ頷く。
「一先ず陵の人間は、ときはを除き外出を許そう。だが当然、真に疑いが晴れた訳ではないという事を努忘れるなよ」
清人は、是川が必要な条件を揃えて話に臨めば、理解を示してくれる人物だと分かって肩の力を抜いた。なんだか長い間気を張っていたような気がするが――そうではないのだろう。時は思いの外、ゆっくり流れたのだから。
此岸……この世。