二十四、人道
惜日の、遠い記憶がある。
『お前はどうしてそんなに泣くの?』
人の脳とは勝手なもので、朧な記憶を真実そのものか分からぬのに勝手に塗り替える。清人が思い出すその日は、いつでも夕暮れ時だった。
『だって、鳥さん、いたそうだったから。すごく、いたそうだったから』
あの会話をした時間が夕方だったか、定かではない。
幼い頃――ときはは元々、他者への感情移入をしすぎてしまう感受性の強い子供だった。それを見て清人はよしとしなかった。
ある日、怪我をした小鳥を見つけたときははそれの看病を望んだ。清人は危ない手つきで小鳥を介抱する子供に、ため息をつきながら手伝う事にした。しかし小鳥は翌日簡単に死んでしまった。仕様のない事だ。清人はそう思うが小さな子供にはそれが出来ず、疲れて眠るまで泣き明かした。その子供の悲しみは数日に及んだ。
それがたとえば何日も、何ヶ月も一緒にいた存在であれば清人ももっと心を動かされたかもしれない。しかし死んだ小鳥は、たったの一日ときはと一緒に居ただけだ。なのに何故そこまで慟哭するのか、清人には理解出来なかった。
同時に子供の感受性の強さを知った。それはあまりにも他者に思いを移しすぎている、と思えるほどだった。清人は子供に泣くのをやめるよう言った。死んだ小鳥はお前が泣くのを望んでいない、などという言葉まで使って。しかし子供は分かってくれなかった。ただ、時間が彼女の悲しみを和らげた。
他人の痛みを自分のもののように受け取る子供。それは使用人が死んだ時もそうだった。今度こそ清人は彼女にそれをやめさせなければと思った。他人を思いやるのは悪い事ではない、しかし度を過ぎると自身の存在を壊してしまう。利他的な彼女が疎わしかったのもあって、清人は泣いている子供の頬を張った。子供は驚いていた。
『いい加減にやめろ。それはお前のするべき事ではない』
『お前は泣き続けて、あの者のために自分の身を滅ぼすのか』
『もっと自分の事を考えろ』
幼い子供が清人の言いたい事を理解したかは分からない。だが、叩かれるのは嫌だったのだろう。清人の前ではもう涙を見せなかった。正しい方法だとは思えなかったが、清人は次にあの子供が他者の事で自分まで思い悩む事があればもう一度叩いていいだろうと思った。清人は、ときはがそうしようとする時に居合わせたら、彼女を睨みつけてその機会を伺った。その度にときはは頬の痛みを思い出したかのように身を竦ませて、感情を表にするのを我慢した。
いつしか幼い子供は、もっと図太い性格に育ち、他者の感情にも事情にも影響される事はなく、また興味を持つ事もない少女になった。自分の事を考えろという清人の言葉を鵜呑みにしたかのように。
三つ子の魂百まで、とはいうものの人の性格は子供の頃と大人ではかなり異なってしまう事もある。様々な経験や失敗を繰り返して自己は形成されるものだ、納得はいく。
ただ――清人は自分のとった行動が間違っていなかったか、折にふれて疑わしく思う。ほとんど唯一といっていい身内の影響は少なくないだろう。何も清人だけが原因で今のときはが出来上がったのではないだろうが。
「……考えても詮ない事か」
年頃になると感情の起伏にも変化が起こる。最近のときはの様子が変わったように思えるのは、気のせいか、果たして――。
寧楽の京は雨に降られていた。落ちる雨滴に勢いはなく、小雨だ。晴れ間の見えぬ日々が続き、朱雀大路を行き交う人々の表情もまた晴れなかった。
民草の不安を煽っているのは曇り空ばかりではなかった。近頃、京に奇妙な生き物の噂が絶えぬのだ。曰く、ひどくやせ細った小さな子どものような影がさっと横切るとか、目がぎょろぎょろした牛のような生物が闇に紛れて此方を見ている、とか。まだ噂に過ぎないが、なんとなく人々の心は明るくなれなかった。
陵家の家人も、その他の所以もあって塞ぎこんだような者が多かったが、彼女だけは違った。
神名火守の存在そのものを揺るがしかねん事態を引き起こした張本人――陵ときはだ。
彼女は神名火守が代々守護してきた“天の火”というものを奪った嫌疑をかけられていた。しかしその疑いは晴らす事が出来なくとも完全に真実と証明出来る事もなかった。陵の邸を捜索しても“天の火”は見つからず埒が明かなくなった。捕らえておいた下手人の陵ときはの様子もどこかおかしく話が進まぬので、最刈家当主は一先ず陵家の外出を禁じた。ときはを見張る名目で、宗家の人間が陵邸に何人かやって来たが、陵家の者は誰一人怪しげな行動を取らなかった。当主兼直は常日頃からしている一人自室に篭るという行為を続けたし、後妻の藤は我関せずとばかりに他者に構わない。長男清人は退屈そうにしながらも読書に興じた。残された一人娘は閉じこもるのが苦手なはずだが――邸内を時折徘徊して、室内の文物を物色したりしていた。
自身の家なのに物珍しそうに彼方此方を眺める行為は不審な動きともいえたが、宗家の男たちには年頃の娘の考える事は分からぬ。おかしな動きをしていれば報告せよ、と広成に告げられているが此の家族は世間一般的に考えれば平素からして風変わりだ。
一人娘にしてみても自分にあらぬ疑いをかけられて精神的に参っているのだろうとも推測出来る。そんな訳で最刈の男衆は名ばかりの見張りをして陵邸に居座っていた。
陵の娘は今、自室に木簡や着物、挟軾に打毬の杖、双六局やら高坏に載せた菓子やらを散らかして、その真中にいた。折角の光沢ある練色の背衣と高価な緋色の紕裳 にしわがついてしまうだろうに、直に床に横になっている。小奇麗に結われた髪型も崩れてしまっている。
顔を腕で覆って、口だけで笑う。陵ときはは結ったはずの黒檀の髪を崩して床に広げている。三日月に開いた口からは白い歯が覗く。
途端、ときはの口は閉じられる。おもむろに起き上がると窓から外を眺めはじめた。その横顔に覇気はなく、屋外を見ているはずの瞳には力もなかった。
彼女は何かを言いたげに口元を震わせて、小さく口を開くが唇の上下を合わせるようにして閉じた。その大きな枯茶の瞳は今にも伏せられてしまいそうに、儚い。少女は突然に感情を失ったかのように呆然とした表情をするのだ。
一人自室に篭もる彼女の事を慮る人間など、この陵の邸にはいなかった。
何しろ彼女は“天の火”を盗んだ張本人かもしれぬのだ、同じ家に住む者だとて関わりたいとは思わぬだろう――少なくとも最刈の男たちはそう思っていた。
少女は書見台を蹴倒しながら立ち上がると、自分の手で散らかした床をしばし眺めた。それに飽くと、歩き出して廊下に出る。
邸内を無造作に歩くと、ある房に目当ての人物を見つけた。彼女は自分の兄に声をかける。
「ねえ、兄様」
妹からの声に、清人は一拍反応が遅れた。やや下方を向いていた視線を上げると、緩慢に首を動かす。そこにはよく見た顔が鎮座しているだけ。彼女の表情は、常のものとは異なるようにも見えるが――清人は普段通りに応じた。
「何?」
均整のとれた顔立ち、隙のない出で立ちで、どこか勝ち誇ったような弧を描く口元。清人には独特の雰囲気があった。家族にするにも淡白な、距離を置いているともとれる対応をする。その事が妹は気に食わないのか、僅かに眉を引き攣らせる。だが彼女も負けじと顎をつんと上げ、愉悦に満ちた顔をしてみせる。
「ねえ、わたしはいつ外へ出られるようになるのかしら?」
自身の状況を理解していない――というより分かっていて尚も問いたくなったのだろうか。清人の眼差しは静かに冷えてゆく。
「君の謹慎が一番に解ける事は、まずないと思うね」
今後の沙汰については、当主兼直が先ず宗家に呼ばれてから分かる事だろう。何の力も持たぬ神名火守の見習いが、しかも問題事の中心にいる者が解放されるなど、事態が収拾つくまであり得ぬはずだ。
この娘があの時――どうして見張りの目をかい潜って最刈の邸の外にいたのか、清人には分からない。更なる問題になっては事だと、彼は一つの嘘をついた。自分の家を守るため。清人が手引して少しの間だけ外気を吸わせていたのだと、ありもしない事を告げた。陵ときはは、囚われの身でありながら突然邸の外から姿を見せた。不信に思わぬはずがない。最刈当主是川はときはを胡乱げに凝視していたが、彼にとっては下手人の身柄よりも“天の火”を見つける事の方が大事だったようだ。ときはを疑い続けていた髭の男が何時迄も煩く物を言っていたが、是川は陵家全員を自邸に閉じ込める事によって一先ずの処分とした。
「どうせもう“天の火”は見つからないわよ。だったらもう次の事を考えた方がいいのよ。わたしは盗んでもいないのだし」
枯茶の瞳が挑発的に光る。
妹を一瞥すると、清人は興が削がれたように視線を逸らす。いつからこの娘はあんな瞳をするようになったのか。
確かに清人の妹は“天の火”を盗んではいないだろう。そんな気概があの娘にあるとは思えないし、何よりそんな素振りを見せれば聡い清人にも何か勘付ける事があるだろう。
一体あの娘に何があったのか――。
小さく息を吐くと、清人は立ち上がった。ときはに背を向けると、一巻の木簡を手に歩き出す。
「とにかくお前は、面倒事を起こさないように大人しくしていてよ」
廊下を去って行く兄の背。ときはは不満を隠そうともしなかった。
だがふいに、彼女の顔は違うものに変わる。ゆっくり、ゆっくりと笑みを深めていく。盛り上がった頬も、ぱっくり開いた口も、弓なりになる瞳も、不穏なものを湛えていた。
清人のいなくなった廊下を眺め、娘は邸内に視線を移ろわせる。
途端に腹を押さえて、くつくつと小さな笑い声を上げる。
発作のように止まらぬそれを、彼女は止め、少し息を整えるように長い息を吐く。
少女は此処ではない何処かを見ながら、嘲笑う。
「あなたって、誰にも興味を持たれていなかったのね、陵ときは……」
丁寧に梳られた髪を、さらりと撫で上げ。彼女は眉を寄せながら目を細めるのだ。
「だって、だぁれも気づかない」
くすくすと止まらぬ笑いに、彼女は口元を袖で覆った。