二十二、夢生
全てはときはの意識がない間に行われた。彼女が会うべき相手だと感じる冥府の主も、ときはの眠る房に訪れたらしい。彼女が冥府に来た時に行ったのと同じように、ときはの体を快癒させたのも閻魔王だ。
冥府には六道に繋がる扉があり、そこを出て地獄の入り口に居た征崖は胡蝶から話を聞くまで何も知らずにいた。怪しげな足取りでときはを引きずってやって来た佳耶を出迎えたのは征崖だ。彼が冥府に二人を連れ、その後の指示も出した。
胡蝶は知らぬ事とはいえ、悪戯が過ぎたと叱られた。
佳耶はというと――訪れる人のいなくなったときはの房の入り口に佇んでいた。
彼女が目覚めないでいるのを見るのはこれで二度目だ。今回だって運が悪ければ死んでいたかもしれない。ときはは肉体を持っている、つまりはその肉体を失う可能性があるという訳だ。他の肉体を持たぬ冥府の住人たちとは違って。だから危険が他の者より多いのは分かるが、それにしたって危ない目に遭い過ぎている。
閻魔王は言っていた。身体の方はもう問題ないと。後は魂の方が癒えねば、目覚める事はないだろう、と。あの地獄での衝撃が強過ぎたのだろう、ときははそれを裏付けるかのように眠ったままだった。
佳耶には彼女の苦しみがよく分かった。何故なら彼もまた、冥府の裁判で決められた訳でもないのに地獄に堕ちた人物だからだ。もちろん、普通の地獄の住人だって同じ苦しみを味わって尚、それが途方も無い長さの時間続くのだ、彼らと比べれば軽いものだろう。
だが順序だてて連れられた訳でもない地獄というのは、真に理不尽そのものだった。その上、人道の住人の体はやわだ。地獄の住人の体は何度も再生されるうちに、ほんの僅かずつ地獄に対する耐性を付ける。あれだけの熱気に晒されて、ときはの体は精神をも蝕んだだろう。
佳耶も同じだった。
訳も分からぬまま地獄に居て、悲しい身なりの亡者たちに追いかけられ、獄卒に見つかりひどい仕打ちを受け、征崖に助けてもらわねば今頃どうなっていた事か。
だからときはの事が気がかりなのだ。ただ、それだけだ。
冥府の中の時間の流れはゆっくりだ。人道の時間でいえば彼女が冥府に戻ってから五日後、ときはは目を開けた。
冥府のある一室で寝台に腰掛けていながら、ときはの心は未だ地獄に囚われていた。目の前には彼が見える。人道で親しくしてくれた、あの男性が。
「名足さんが、いたの」
小さな声だった。かすかに震え、長らく床に就いていた病人のような声だった。相手の反応がないので、説明するようにときはは付け加えた。
「地獄に。あの人、死んだの……?」
相手が誰だったかときはには分かっていなかった。ただ、誰かに言わなければならないと思ったのだ。名足というひとが生きていた事を。不当な扱いを受けている事を。言葉にしなければ。
伝えたい事がたくさんある。ときはは、名足という人間が存在した事を自分以外の人間に知ってほしかった。
「地獄って、盗みとか、人殺しとかした人が行くところでしょう……どうしてあの人が……あんなに優しくて、親切で、あたしのこと助けてくれたのに……」
誰かが「お前には見せない顔があったかも」と言っていた。
本当に名足は罪を犯したのだろうか? 何かの間違いではないのか。だとしたら、由々しき事態だ。彼を地獄から他所へ移さねばならぬ。
「何かの間違いよ……」
あの目。あの目がときはを縛りつける。
「ねえ、彼を助けなきゃ」
佳耶の着物を引き寄せて、おいすがった。誰かに頼まなくては。名足が地獄にいるのは、少し前のときはと同じ、手違いだったのだと。
ときはの手に誰かの手が重ねられて、振り払うでもないが、そっと押しとどめられる。そんな事をしても無駄だというのか。彼女が嘆願しても、名足は助からぬというのか。ぱたりと両手を落として、ときははぼんやりと前方を見た。
その先には何もない。ただ壁があるのみ。
しかしときはの瞳には、燃え盛る炎が見えていた。
夜の空と、それが染み込んだような黒に近い大地。
「……あの場所で、あたしは、いちばんあたしがこわかった……」
まだ混乱の抜けきらぬ少女の言を今ひとつはかりかねて佳耶は小さく眉を寄せる。
「見捨てたの、名足さんを……!」
ときはは自分を抱き締めるように両腕を抑えた。身を縮こませて、手の平を腕から肩へと動かしていく。交差した腕で、彼女は自分の首に両手を添える。
地獄で見た光景。あれは、見た事があるものだった。
人には似つかぬ肌の色をし、唸り声をあげ、ほとんど人の声には聞こえない。目は黄色に濁っており、やせ細ってあばら骨を浮きたたせている。ぼたぼたと、口から唾液をこぼしていた。
人道で見たのだ。ほとんど人には見えぬ存在を。ときはは、幾度も目にしている。
それに対してどういう対処を行ったかも、ときはは知っている。
陵ときはは、神名火守の見習いだから――ああいった存在に接する機会が多くなる。
地獄で見たもの。それはときはに馴染みのものだった。
何故馴染みか? それはときはがあれを人道から追い返す仕事をしていたから。
あの、苦しみに打ちひしがれて喉を枯らしたイキモノを。
「あれは、あたしたちが夢生って呼んでるのとそっくりだった……あたしたちは、地獄から出てきた夢生を、相手にしてる、の……?」
自分の意思に反して出てきた言葉を止めようとするかのように、ときはは口元を抑える。
そんな事が、あり得ていいのだろうか。
彼らを、苦しむ存在をときはたち神名火守は容赦なく突き返しているのか。
「六道を超えてしまった存在を、夢生と呼ぶ」
彼女が何か勘違いをしていると思った佳耶は、説明をしはじめたのだが遮られる。
「夢生は、人間だったのね」
やけにゆっくりと、ときはは首を動かして佳耶を向いた。はっきりと否定はせず佳耶は口を開いたまま、視線を下に落とした。
佳耶の顔なんて見ていなかった。ときははまた、視線を壁に戻す。
「……あたし、ずっと夢生が嫌いだった。だって、あんなにおぞましい見た目をしているのに、あまりにも、あまりにも……」
ぞっとする。あれがかつて人間だったなんて。想像するだけでも。
両手の震えが止まらない。
「人みたいにすがる目をするの……!」
ときはは両手で耳を覆った。いや、頭を抱えたいのかもしれなかった。彼女にはもう自分の事すら分からない。何を言っているのかも。ただ、“あれ”が神名火守の言う“夢生”だと分かってしまった事は、もう避けようのない事実なのだ。
「……こわかった。あの目が」
思って、いたのだ。
――神名火守の仕事に、心血を注ぐような気持ちにはなれない。夢生たちについては深く考えてはいけないと考えている。思いめぐらせてしまえば、ときははいつも頭が痛くなるからだ。
人道にいた時から。
父も兄も、この事を知っていたのだろうか。寧楽の京にいる神名火守たちは、分家も宗家も含めて、これを知りながらも標結を――苦しみの世界に夢生を還していたというのか。
もしそうだったとしたら、神名火守の仕事はときはには残酷過ぎる。
「あたし、この日のこと、知ってたのかも。だからあの目がこわくて……自分のしていることがこわくて、神名火守の仕事が好きになれなくて……」
兄など他者の手を借りねばときははほとんどまともに標結をする事が出来なかった。
それでも、一度以上は夢生を還している。
『妖怪なんかじゃなくって夢生。六道をさまよう迷子みたいなもの』
『夢生は、凶暴なのばかりってわけじゃないけれど、中には人を襲うやつもいるからね』
ときは自身、友人に説明をしていたではないか。
知っていたではないか。
だがこんな事とは思わなかった。知らなかったのだ。
あんなイキモノが、元は人間だったなどと。
「あたし、あたし……あのひとたちに、なんてことを……」
頭を抑えるときはの指先が、爪を食い込ませようとしていたと気づいて、佳耶がその片手を取る。
「それは違う。六の道を壊す存在を本来あるべき場所へ還す事が、誤りなはずがない。お前だって神名火守ならきちんと教わったはずだ」
そうだ。神名火守なら空で復唱出来る程言い聞かされる文言だ。ときはも父の兼直に幾度もそう教わった。
ときはの手から力は抜けたが、頭から固定されたまま動かない。
「六道のそれぞれにある泉穴は、他の六道を繋げてしまう不要な穴だ。何のために標結をしていると? 何のために神名火守が存在すると? 六すべてのせかいを守るためだ」
かつて、兼直は言った。
『人は六の道の境界を越えてはならない。六すべての道のつりあいが崩れてしまうからだ』
壊れたらどうなるのか? 問う幼子に彼は真実を告げたはずだ。
『割れた器と同じだ。二度と戻らん』
世界の均衡を保つために。
「で、も……」
否定を欲しがるときはの目つき。希望を求める眼差し。絶望が迫るのを知った瞳――。
佳耶には直視出来そうになかった。一度視線を落とすが、しかし彼はときはの方を向けた。
「あのなあ、夢生が自分のいるべき場所以外で生きてはいけないのは、知らないわけじゃないんだろ?」
「し、知らない……!」
弾かれたように顔を上げるときは。彼女の手はもう髪をかきむしろうとしないから、佳耶は手を放した。
「六道全てを保つためだけじゃない。夢生の存在自体危うくなるから、元の世界に還さなきゃならないんだ。そうしないといずれ夢生は、肉体を失って魂だけで何処ともつかぬ場所を彷徨ってしまう。それこそ、二つの世界の狭間とか、神名火守にも見つけられないような場所に」
「そ……」
ときはは、本当に何も知らなかったのだ――。
どうしたって、神名火守は世界と夢生のために標結をせねばならず、しかし真実を知ってしまった今では、それが本当に正しいのかときはには分からない。
清人などの人道の神名火守は、この事を知らないのだろう。そうでなければ、宗家当主があんな風に泰然としていられるはずがない。偉ぶってふんぞり返る重鎮たちなど、“天の火”の存在すら疑っていたではないか。そんな彼らが本当の事を知れるはずがない。
何も知らぬ彼らの事が、ひどく遠く感じられる。
何も知らぬ――あの子どもたちの事も。
ときはは血の気が引いたように感じた。名足本人の事ばかりに意識が向いていたが、彼には子どもが二人いる。浅葱は、さゆきは。彼らは父を失って、どうしたらいいというのか。父親が地獄にいるという事も知らずに――名足の帰りを待っている。あの二人の子どものためにも、ときはは名足を地獄から出してやりたいと思ったのに。
立ちはだかるは、六道の理。
「でも、だって、じゃあ、名足さんは……」
まだ大人にならぬ子を残して、死んでしまったあの人は。どうしたら救われるというのか。
どうしたら彼が、彼の子どもが、幸せになれるというのだ。
どうしたって、そんな将来は来ないのだというのか。
「何か理由があったんだ。きっと。大変な事が起こって、その結果があの場所に」
自分でも気休めだと分かっているような声を出していると、佳耶には自覚があった。
彼女にとって名足という人物がどういう存在なのか、佳耶には分からない。地獄道に居たというが、佳耶は会っていないのだ。もちろん人道に居た時も同じだ。
「でも、でも……」
佳耶には分からない。ときはは、もっと他人には高慢な態度を取る人間ではなかったのか。一時は他者を皆どうだってよいとみなしていたのが佳耶にはよく分かった。
地獄が彼女を変えたのか。それとも元から持っていたものなのか。
あれだけ自分もひどい目に遭っておいて、他者を思いやる気持ちが持てるのだろうか。
夢生はときは自身ではない。地獄道でだって、健全な肉体を求める亡者たちの視線に晒されたはずだ。ああならなくて済んだと喜ぶべきなのだ。ときはは助かった。それでいいではないか。
どうしてそうも、他者へ同調する? 佳耶には理解出来ない。
他人の痛みは他人のもの。その人の不幸はその人のもの。慰めの言葉を与えられても、その人に成り代わる事など不可能なのだから、完全に相手を助ける事は出来ない。
他者の気持ちを引きずって、自分まで負の感情に囚われて、それが止まらなくなったらどうするのだ。心を傷めてしまうかもしれないではないか。
名足という人はそれだけ大事だったという事なのだろうが。地獄でその人のひどい容貌を見たからこそ、余計に助けてやりたいと感じたのだろうが。神名火守見習いであり、生きながらにして冥府に来たという特異な立ち位置にいるからこそ何か出来ると想いたかったのかもしれないが。
どうしてそこまで、人を思いやる事が出来るのか。
佳耶はそうではなかった。自分が一番かわいいのは、人間の性。他者を思いやるような余裕は、力あるものにだけ許された傲慢――。
「どうしたら、いいの……?」
彼女に出来る事は、何一つない。冥府において閻魔王の裁きは絶対だ。名足が地獄道に堕ちるに至ったのには、当然の所以があるはずだ。自身の行動が招いた結果なのだ。そうならないように日々を生きるのが、賢いやり方なのだ。しかし名足は道を誤った。だから地獄に居る。ただそれだけだ。変えられる事などありはしない。
ときはの目には、涙がたまっていた。
そんなに、他者を思う事が出来るなんて。佳耶は捨てたものだった。
他者を思う労りが欲しいのか、自分にはないものを持つ羨ましさか、出来もしない事を望む子どものような浅はかさに対する苛立ちがあるのか、佳耶には何も分からなかった。
一つ分かったのは、これ以上此処にはいたくないという事だった。
「どうにも出来ない。閻魔さまの判決は変わらないから」
逃げるように佳耶は言う。彼女と視線を交わせない。
自分の言葉は事実だからだ。何も出来ないのは、佳耶も同じだ。
「もう少し、休めよ。まだ休息が必要なはずだ」
だからときはの前からも逃げる。
言うと、彼女に背を向けた。房を出るはずが足が痺れたように動かなくて、佳耶は内心でたじろいだ。心臓が重くなる。
これで、いいのか――?
本当に佳耶に出来る事は一つとしてないのだろうか。仮にも閻魔王と面識がある冥府の住人だ。探せばもっとましな方法が見つかるのかもしれない。
馬鹿げている。例外はあり得ない。一つそれを認めてしまえば、他の者はどうなる? どう感じる? その不当を?
名足を救う術などないと、佳耶には分かっている。だがまるでときはに感化されたかのように、それを探そうとしている。理屈では分かっていても、感情だけが追いつかない。
いつから自分はこんな風になってしまったんだろう。
佳耶は小さく首を左右に振ると、一度も振り返らずにときはの房を出た。