十八、微睡みと企み
微睡みと企み
嫌になる。
いつだってこの苛立ちを誰にぶつければいいのか分からず、拳を強く握ってきた
自分と他者の間に感じる異なる空気。別の世界だとさえ思える程に、違いを覚えた。
相手の言葉はあたしには届かない。あたしの言葉なんて尚更だ。
頭が重くて仕方がない。吐き気さえする。
生きるって事は、こんなにも気持ちが悪い事なのか。
みんな、どうかしている。
こんな世界、こんなもの。
こんな――
こんな欠落感。
喉が嗄れて、嗄れて、望むのは水ではなくお前なのに、渇きが刺す程に喉を刺激する。
欠落する、体を、精神を、蝕む。
体の大半を抉って奪われたような感覚。失われたはずが、まだ痛みを訴える。
やめろ。
もう何も残っていない。もう届かない。認めたくなくても、それは真実だと感じていた。
それでもまだ、尚もこの身を縛りつけるというのか――
だめだ。そんな事、あってはならない。
だめだ。それだけは。
これ以上何を臆するのか?
何を隠そうというのか?
何があるというのか?
――行っちゃだめだ。
ときはは知っている。あの人は二度と戻らない事を。
それ以上行ってしまってはだめだ。
千もの思いが喉につまって、声を張ってもあの人には届かない。
喉が、息が、苦しい。
気持ちが悪い。吐き気がしそうだ。
だめ、だめ。だめ!
待って、行かないで。
――それだけは許さぬ。
許してなんて言わないから、お願いだから行かないで。
それ以上行ったらきっと、取り返しのつかない事になる――。
あの人を、止めなければ。
空白だった脳内に浮かんだのは、ただそれだけの事。急な焦燥感に駆られ、ときはは立ち上がる。重い頭が揺れて、地面までもが朧に変わる。
吐きそうだ。
しかしあの人を止めなければ。あの人の気配が近い。この場所のどこかに居る。早く見つけなくては。
ふらふらと歩き出したときはは、自分がどんな顔をしているのかも知らなかった。
頭の中に石があって、それが大きくなったり小さくなったり存在を主張している。そんな痛みのある頭痛がした。まるで鼓動をしているかのようだ。雲の上を歩いているような気持ちで、すれ違う人にも気づかずに、ただ一つの気配だけ辿る。長い廊下をひた歩く。
ちょっとあんた、どこに行くのよ。
他者の声もときはの耳には届かない。
ゆらり、ゆらり、波に揺られるようにときはの足元はおぼつかない。
止めなくては。でもどうやって? あの人はつよい。
歩かなくては。でもどうして? わたしには力はない。
進まなくては。でもなんのため? わたしにはもう、のぞみはない。
外界を遮断すると世界はゆっくりに見える。だがときはの内側では種々の記憶が一気に巡る。
どうして自分ばかり虐げられるのだと怒りに体の奥を燃やした日も、大切なものが見つからなくてひどく狼狽して彷徨った日も、友人に知らないと告げられた日も、いつだって不安で仕方なかった。
相手の心変わりが理解出来なくて、原因を自分に探す。あの時何気なくつぶやいた言葉が誰かを傷つけはしなかっただろうか。意図的に虚勢をはった態度が他者には醜く見えなかっただろうか。自分にとっては精一杯努力しようとした事でも、大切な事を見落として誰かを裏切った事はなかっただろうか。
自分が悪い。そう思うと心臓はじくじくと傷む。誰かを責めるのは好きじゃない。理不尽な事で怒られれば相手を嫌う事も出来る。だがそうではない。何が悪かったのか? ときはには分からない。
おそらく一度や二度ではないのだろう。あのひとを嫌な気分にさせた事は。誰かの信頼を裏切るような事をしたのは。信じられないと、思わせるような事をしてしまったのは。
自分を責めるのはひどく楽だ。誰も傷つけなくて済む。誰かを傷つけてしまったのではと悩むのだから、もう誰も傷つけたくはない。
自分が嫌になる。嫌いだ。こんな事を考える自分は。わたしを取り巻くあれもこれもどれもみんな。
あつい。
この身を焼くのは、後悔の念か。自責の念か。はたまた全てを憎む怒りの炎か。
「おいッ!」
突然の声にときはは肩をふるわせる。
――なんだか、暑い。今の季節は夏だったろうか。
ゆるりと首を動かして見えた先には、目つきも悪く、訝しげというより苛立っているように顔をしかめている少年がいた。彼は、何という名だったろうか。
「こんなところ来て、何してんだよお前ら」
少年の瞳が自分に向かっているのではないと知り、ときはは密かに安堵した。自分は話の渦中にいるのではないらしい。その方がいい。その方が楽だ。何かの中心にいるのはいつだって疲れるものだから。
「か、佳耶。そっちこそ何してるのよ」
全てのものと距離を置いて。見えない膜を自分の周りにまとって。そうして世界と自分を区別すると、もっと違うものが見えてくる。世界は全て、瑣末なものだと分かるのだ。
――全て、下らない
「神名火守の見習いが見習いのくせして地獄道にふらふら向かってるって聞いたから、追っかけてきたんだよ」
少年の語尾が荒くなる。ときはの隣にいた少女が、少年ではなくその奥の遠方を向くのを、ときはは意味もなく眺めていた。この少女の存在にはしばらく前から気づいていたが、それがいつからだったかときはには分からない。自分は不慣れな場所だからと、この少女に連れてここまで来たような気はする。
「えっと、その。この子見たいっていうから。それに、あたしたち仲直りしたいっていう話になったの!」
「はあ?」
少年が顔をしかめる。誰かが誰かと仲直りをするというのは微笑ましいものではないのだろうか。自分の事を語られているとも、少し前の状況も忘れときはは二人のやり取りを眺めるだけ。
「いいじゃないの、別に地獄道だってあたしたちにとって冥府とさほど変わらない場所だもの。この子も珍しい場所が見たいって言ったわ」
横目で少女が――胡蝶が此方を向いた。ふいにときははその猫に似た瞳に見覚えがあると気づいた。彼女の名前も、彼女との出会いもじわりじわりとよみがえる。しかしそれは流れ行く川の水のようにときはの中から離れて行ってしまう。
胡蝶に腕を引かれ、ときはは歩き出す。頭が気だるく重いので、逆らう意思は生まれなかった。
「待てよ」
誰かの鋭い声がする。
「別にただ遊びに来たわけじゃないわ。用事が――獄卒に届け物があるの」
言いながら少女はときはの腕を解放する。
少年は小さく息を吸い込んで、その間に自分の考えをまとめたようだった。
「じゃあおれが持って行くから、お前らは先に戻れ」
「でも……」
言いよどむ少女を、少年がきつく睨み据える。それだけで全てが伝わると思っているかのような、雄弁な目つきだった。苦い顔で胡蝶は黙りこむしかない。
ときははというと焦点の合わぬ瞳で虚空を見上げるだけ。
また、ときはの左手首は掴まれる。胡蝶のものよりもずっと確かな実感を伴って加圧される力。かすかな体温さえ感じる、皮と肉と血と骨を認識する重みだった。
「……おい、寝ぼけてんのか?」
目の前に佳耶がいる、と理解したのはこの時だ。
この、他者を間抜けだと見なしきった不遜な顔つき。見下す人間を相手にしなければならない事による嫌悪感でもあるのかという、癪に障る眼差し。
ときはは思い出した。この不機嫌な少年佳耶には同じ態度で返さなければならない、と。
体の奥底から、小さな怒りが燃え上がる。
「起きてるよ」
思っていたよりも低い声が出たが、大きな声にはならなかった。だがときはは段々と視界がはっきりしてくるのが分かった。佳耶は不満そうにしながらも、じっとときはを正面から見据えている。ときはの傍らには胡蝶。それからこの場所はどことなく暑い。
目だけで周囲を見渡すと、ときははいつの間にか何処ぞの屋外にいた。それも京から離れたような、鄙の土地。荒れた大地は濃い土色で、空の色は黒に近い藍色だ。空の色は夜のようだというのに、真っ暗で何も見えないという訳ではない。曇りの日のように少し薄暗いだけ。ここが冥府の何処かは知らないが、夜のこない場所とは反対に、今度は空は夜でも地上は暗くない不可思議な場所なのだと知る。もっと辺りを眺めたかったが、佳耶がまたときはの手首をきゅっと引いたので意識をそちらに戻さなければならなかった。
「じゃあ精々転ばないように目ぇ開ききって歩いて行くんだな」
言いながら彼はときはの手を放す。まるでときはが転ぶ事が前提かのような馬鹿にした態度。まだときはの頭はどこか鈍い痛みを伴っていたが、佳耶を睨みつけると少しだけそれが薄れた。
ほんの少しの間、佳耶はそうしてときはの鋭い瞳を跳ね返すようにしかめた顔をしていたが、急にくるりと踵を返した。
「早く先に戻ってろよ」
後はもう、振り返りもしない。ときはには彼の本意が読めない。もっとも、佳耶は自分自身の事をほとんど話さないし、ときはも理解したいとは思っていないのだが――今はあの背中が遠ざかって行くのが僅かに惜しいように思えた。
そんな自分に気づき、ときはははたと首を傾げる。いつも口喧嘩になってしまう相手を、追いかけたいと思うなんて自分はどうかしてしまったのだろうか。考えればあんなに鬱陶しく思った胡蝶と共に行動している自分も変だ。なんだかしばらく夢を見ていたかのように、意識がはっきりしなかった。まだ寝起きの夢現の状態でいるかのようだったではないか、先程までの自分は。
ときはは自分の事が自分でままならないという奇妙さに、不安になりながらも不思議になって頭をかいた。
かちゃりと鳴るのは、二つの手首飾り。雨粒のような球体の青と、勾玉の薄紅がぶつかって音を立てたのだ。
冥府に来たばかりの頃、征崖と名乗る男性に手渡されたものだ。これを何と言って渡されたかは忘れてしまったが、ときははその時、自分の兄の飾りを反芻したと思い出す。
人道の事が脳裏によぎる。兄は壮健だろうか――彼の弱っているところなど想像出来ないが。それに、不仲ではあったが父や、義母のいる陵邸はどうなったのだろう。ときはが天の火を奪ったなどと言われて、彼らまでその飛び火を被っているのではないか。それにあの少年の事も――不思議と今では少しの胸の痛みだけで思い出せる。ここはどうも暑いから、むっとする空気がときはを覆っている。それで痛みも少し鈍くなっているのだろうか。
「ちょっとそれ、貸して」
「なに……」
自身の思考に没頭していたときはは、ふいに胡蝶に引き寄せられる。引かれたのはいつもの腕だと思ったが、すぐに胡蝶の手は離れていき、ときはの右手は少し軽くなった。
胡蝶は一体何を言っているのだろうか。何を貸せと言ったのか。相手を見ると、既に胡蝶はときはを置いて歩き出していた。何処に行こうと言うのか、問いかけようとしてときはは気づく。
青い珠と薄紅の勾玉、二つの光る石を備えた飾りが自分の手首にない。
「返してよ」
何がときはをそうさせるのか、唐突に焦燥にかられた。征崖に何と言われて持たされたのかも忘れたくせに、奪われるまで手首に馴染みすぎてその存在すら認識していなかったくせに、その力も意味も知らないくせに――本能的に悟った。
あれは、ときはに必要なものだと。まるで神無火守にとっての天の火のように、重要なもの。
「待ってって」
声を荒らげると、胡蝶は駈け出した。自分のした事が分かっていて、咎められるのを恐れているかのように。彼女を追おうとしてときはは一歩足を踏み出した。
とたん、自分が二本の足で地面の上に立っている事を自覚させられた。今まで、まるで雲の上でも歩いているような朧な感覚しかなかったというのに。というより、自分に足があるのも忘れていたと、この時知った。
最初に感じたのは、熱さ。夏の暑さなんていうものではない。まるで燃える火の前にいるような熱さだ。ごうごうと何かの燃える音が絶えず聞こえてくるのも、この時分かった。目がひりひりするほど乾燥する。視界にあふれるのは濃い大地の色――黒くて、重たい天上。地平線の果てではそこで火事が起こったかのように明るくなっている。
そして鼻をつくのは、死肉の、におい。腐った果実や魚のような、甘みや魚臭さの残る空気。それでいて人の汗や尿のようにきついにおいまで内包している。人の嫌悪するありとあらゆるにおいを集めたような――鼻を覆いたくなる悪臭。
ここは、どこだ。
ときはは冥府とは別の場所にいるのだと知った。
ぞっと背筋を這い上がるのは、ざらつく鑢で背を撫でられているような、強すぎる焦燥感。内臓が口から出て行きそうな吐き気。
(いやだ。こんなところには、居たくない)
ここは生きた人間がいるべき場所ではない――
ときはは、弾かれたように走り出した。
もう胡蝶の姿は見つけられなかった。意識がおぼつかない時分に彼女に連れて来られたので、帰り道が分からない。にも関わらず、この場所にただ立っているのは危険だと察したのだ。
ときははこの場所を何も知らない。未知なるものを恐れるのは人間の性だが、きっとときはは此処を知っても拒絶するだろう。それが分かって、ただ大地を蹴った。
しばらくすると、彼女の立ち去った場所に、地を這う獣のような荒い吐息が落ちた。“それ”はときはが居た場所をゆっくりと何度も往復すると地面に鼻先を押しつけた。
「――……生きた、ニンゲンの、におい」
落ち窪んだ瞳が遠く離れたときはの小さな背中を捉え――小さく光った。