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十七、冥府の日々

 とどかない。

 肘を伸ばして指先を前に突き出した。どれだけ腕を伸ばしても、何も掴めない。届かない。追いつけない。

 ほんのすぐそこにあるはずなのに。わめいても、声さえ向こうには伝わらない。

 何もない。

 焦燥だけがあふれていく。

 心臓があるはずの場所が軋んだ。全身が、折れて崩れ落ちそうだ。

 あれを私から奪うなど、あってはならない話だ。

 手を伸ばす。

 あと少しなのに、触れる事すら出来ない。

 空を切るだけの指先。

 こんなもの。届かないならこんなものなど。

 必要ない。

 けれど心はいつまでも手を伸ばす。

 空だけを切る指が苛立たしい。

 焦りは体の内側を溶かすかのように染み付いて、

 掴めないもどかしさに、

 ときはは身動ぎをした。




 夢を見ていたらしい。目覚めたときはは、静かに夢と(うつつ)の違いを思い出した。瞬きを繰り返す毎に夢の中身がこぼれ落ちていき、夢の中にあったろう意味あいは失われていった。ほんの僅か、虚しさを抱いたようではあった。

 人は夢を体感しているように見るのではなく、ただ眺めるだけの時があるが、此方側でもときはは傍観者のようだった。自分の意思は介入しない強制的な冥府滞在、それは夢とあまり違いがないように感じられた。今いる場所も夢ではないとは言い切れないかもしれぬ。自分を取り巻くものの輪郭が、どろりと溶けていくような錯覚――。

 明瞭としない寝起きの頭を抱えて、ときはは感じもしない寒さにぶるりと身を震わせた。


 日や年の単位や概念が人道と同じに思えぬ冥府(せかい)では昨日今日などという考えはないかもしれないが、ときはにしてみれば昨日(さくじつ)――自室で眠る前の事。胡蝶を改めて紹介され、ときはは彼女と気が合わぬ事を思い知らされ、すぐに別れた。あの後は大昇降機で移動をしてから方々歩き回ったのだが、征涯を見つけられなかった。

 ときははまだ冥府のごく一部しか見れていないようだ。そしてごく一部しか移動を許可されていないようにも感じた。仕事の邪魔だから此方には入るなと遠回しに言われたり、宛てどなく歩くときはに不躾な視線をくれる者がいたりと、自由な行き来は簡単ではないと気づいたのだ。本来は来るはずのなかった場所だ、招かれざる客というのは少し違うかもしれないが、どこを歩こうとも冥府にときはの居場所はない。それは昨日で分かりきった事だった。しかして彼女が自室を後にするのは、じっとしているより身体を動かしている方がいくらかまし、というそれだけの理由だった。考える事が止められるならばずっと眠っていたいくらいだが、ときはは冥府においても夢を見る。それも楽しくないもので、眠るのも億劫なくらいだ。

 この日もきっと征崖を見つけられないという予感がしていたが、ときはは自室を出、一人慣れぬ冥府をさまよった。

 冥府において仕事のないものはときは以外には居ないようだ。腰を休めている者もあるが、大抵の者が自分の目的や仕事のために動き回って、新参者の少女にずっと意識を払うような余裕は持ちあわせていなかった。ここでときはは、透明になってしまったかのようだ。いっそその方がいい。自分の事など誰も見ないでほしい。何か言いたげでありながら口をつむぐ少年や、敵意を丸出しにする少女など、ときはには必要ない。まして――顔を見せても必要な情報は何一つくれない女性など。

「あら、ときはさん」

 両手に木簡を抱えた初世が、ときはを呼び止める。この初世という女性は回数だけであればかなり頻繁にときはに出くわしている。しかし彼女はときはの事情を詳しく知らないのか、深い話はしてこない。それも楽だったのだが、意味のない事のようにも思われた。

「胡蝶さんと一緒じゃないのね。佳耶くんか胡蝶さんがあなたの付き添いだと聞いていたけれど」

 昨日のときはと胡蝶の睨み合いを、初世は見ていなかったのだろうか。それとも興味がないのだろうか。

「どこにいるかは分からないけれど、呼んできましょうか。ときはさんも不慣れな場所に一人じゃ心細いでしょう」

 姿を見せない征崖も、口は出すが関わる気のない初世も、大人は皆自分勝手なものだと、ときはには思えた。子どもだからと何かをしてもらうのを待つつもりはない。だが、ここの大人たちは勝手過ぎる。冥府の(あるじ)だとてそうだ。ときはを此処に連れてきたくせに、一度も姿をあらわさない。本当に存在するのかも疑わしくなる。

「いえ、結構です」

 心は冷えていく。ときは自身を守ろうとするかのように。

 初世から離れて行くと、彼女はときはを追っては来なかった。

 存在するのか疑問なものといえば、天の火もそうだった。ときはは、ある少年の事は考えないようにと気を遣いながら人道の事に思いを馳せる。

 天の火を巡る一連の事件はどうなったのだろう。収拾がついたのだろうか。最刈家当主是川は、ときはを疑っておきながらもその処罰より先に天の火を見つけたがっていた。ときは自身は見た事のない天の火は、見つけられたのだろうか。

「……見つけた」

 まるでときはの問いへの答え。振り返った先にいる少年が自分を見ているので、天の火の話をしているのではないと分かった。佳耶はときはを探していたのだろう。

 大きな息を吐いて、重労働をしてきたばかりだと言いたげな少年。佳耶はときはを探して方々駆けまわったのかもしれない。どうして彼はときはを放っておいてくれないのか。面倒見がいいとは思えないのに。昨日は胡蝶と一緒にいるくらいなら佳耶の方がいいとさえ思ったが、やはり本人を目の前にすると顔を逸らしたくなる。離れて行きたくなる。

「待てって」

 ときはの背に手を伸ばしかけた佳耶だったが、まるでそれが間違いだったと気づいたかのように、そろそろと手を引っ込める。ただ歩き続ける彼女を追うのはやめない。

「別に何もしねえし何も言わねえよ」

 人道ではじめて会った時から、ときはに対する佳耶の態度はあまりよいものとは言えなかった。佳耶本人もそれは分かっている。ゆえにせめて今回はそれをしないと宣言する気になったのだが、ときはの背中は立ち止まらない。

「じゃあついてこないで」

 口元を引きつらせて、佳耶は頭を抱えたくなった。そう出来ればどんなによいだろうか。しかし、征崖にときはの面倒を見るよう言われており、それが終わるまで他の仕事は任せないと告げられ、やれる事が他にないのだ。仕方がない事なのだ。

「そうもいかねえんだよ」

 嫌そうだが、どこか投げやりな佳耶の声。距離をあけながらも、ときはと佳耶は二人で歩いた。


 本当に、人道で起こった事は何だったのだろうか。あらぬ濡れ衣を着せられ、友人に嘘をつかれ、見知らぬ少女に途方も無い憎悪を向けられ――その結末が冥府につながった。

 あの少女は何者だったのだろうか。

『……こんなに似てるなんて、思いもしなかったわ』

 桃緋(とうひ)と名のったように思われる、ときはと同じ顔をした少女。彼女はときはの事を会うより以前に知っていたようだ。

 到底理解の及ばぬ出来事に思いを巡らせたせいか、ときはの頭は僅かながら重くなった。意味もなく歩くのにも嫌気がさし、ときはは近くにあった房の椅子に腰かける。案の定佳耶もそれに倣うが、どうだってよかった。前言通り佳耶は何かを問いかけてはこないし、ときはをどこかに連れて行こうともしない。出来れば征崖に会わせてくれた方がよかったがそれは叶わぬ願いのようだ。ともかく、彼らは比較的広い房だが人気のない場所で会話もなく座っていた。

 思い出せば、佳耶はあの桃緋という少女を目の前にして何かに驚いたような様子だった。幾度も顔を合わせたときはと全く同じ顔だったから、というだけにしては何かを――知っているような表情だった。少しだけ気がかりになり、ときはは佳耶の顔を盗み見る。彼も彼で何か考え事をしているようで、ときはの視線には気づかない。

 何を知っているのか、問いただしたい気持ちはあったが、ずっと佳耶を見つめていると気づかれたくなくて、ときはは視線を元に戻した。

 桃緋がどういった存在であれ、ときはは彼女に刺されたのだ。それだけは変わらない事実だろう。無意識のうちに、ときはは自分の刺された場所に手を添える。

 既に確認してあるが、ときはの腹部に傷跡はなかった。確かにそこに強く激しい痛みを受けたはずなのに。あれは錯覚だったのかと思うくらいに肌に異変はない。その事がいっそ空恐ろしかった。傷跡などないはずなのに、思い出したらときははかすかに胸が気持ち悪くなっていた。あの少女の目。泥の中の濁った色。喉に吐き気に似たものがこみ上げてくる。

 蘇ったのは、痛みか、憎悪か。不安に心まで蝕まれそうになる――。

「傷が、痛むのか」

 何という事のない、ぶっきらぼうさを持ちながらも躊躇いがちな声。ときはは軋む首を動かして、佳耶のいる場所を眺めた。どこか尊大そうに目を細めて、少年は気遣うような言葉をくれる。佳耶の瞳があやまたずときはを見ているのを知って、彼女は一瞬、佳耶から目がはなせなくなる。

 痛みや焦燥、吐き気がゆっくりと引いて行って、ときははやっと彼から顔を逸らす事に成功した。

「あ……ううん、もう大丈夫」

 意外に思ったのだ。冥府において、本当の意味でときはを気遣うような人間がいるとは思わなかったから。だから、それ以外に何か理由はないだろう。「そうか」とつぶやいた佳耶がまた黙りこんでも、ときはの気分が悪くなる事はなかった。

 会話はなくとも、最初の印象がひどかった相手であっても、ときははこうして佳耶が近くにいるのが嫌だとは思わなくなっていた。他者と関わりたくないと思っていたのに、人の気配がある事に、自覚がないながらも安心していたのだ。側に何かがあるだけで訪れる安定感。人一人分の重量がときはにもたらす大きなもの。今はかすかにしか感じられず、まして本人はそうと認めていなくとも、ときはは確かに人間の気配に安堵していた。


 胡蝶は、見ていた。佳耶の、ときはに向ける眼差しがあたたかいものであった上に――平素は微塵も見せない、笑みに似たものを。

「本当に、何なのあいつ……!」

 佳耶の微笑は本当に僅かな間の事で、すぐに消えてしまった。それでも胡蝶が目を丸くして言葉を失くすくらいには長い間の事で、目の錯覚とはとても言えない確かなものだった。

 あの、佳耶が。

 胡蝶は佳耶とのつき合いが長いとはいえないかもしれないが、冥府にて相対的に数の少ない若者同士で気心の知れた相手として親しくしてきたつもりだ。そんな胡蝶ですら、佳耶の笑顔などほとんど見た事がない。それをあんな急に出てきた少女に見せるなんて。

 両の拳を、強く握った。強く。それを今すぐにでもあの少女に叩きつけたい気分だ。だが胡蝶はそうはしなかった。一番効果的な復讐の時を待つのだ。

 胡蝶の目は、強い怒りに満ちていた――。

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