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十四、冥府

 ――冥府。

 ときはとてこの言語に伴う意味を知らぬ訳ではない。しかしながらこれと自分は関わりなど浅く、いずれ赴く事のあり得ぬ場所、大唐国より奥にある西の異国より更に遠方に座す、彼女の関わるはずのない場所だと信じていた。言うなれば、ときはと父が微笑みを交わし会話をする将来が来ないだろう事と同じ――可能性があっても実現しない未来のように、存在しないと同義だった。

 人はまだ見ぬ未知の存在を恐れる。見も知らぬものは自身に危険を及ぼす可能性が全くないとは言い切れないからだ。自己の防衛のために、身構える必要がある。見知らぬ存在の中で恐れるべき最たるものは――自身の命が絶える事。自分が息をせず四肢を動かせない状態になるなどと、想像したところで楽しいはずがない。ときはの頭はそれを認めるのを拒否した。

 ぐらぐらと揺れて抜けそうな歯茎の上の乳歯のごとく、少女は首を振った。半開きの唇から反論を吐き出したいのだが、何の音にもならない。ときはの眼差しは首の動き同様に不安定になる。彼女の様子を受けて征涯は額にしわを集めるが、ときはの視界には少しも入らず、何の慰めにもならなかった。かすかに憂いのにじむ征涯の瞳は、まるで彼女の懸念を裏付けているかのようではないか――。

「君は……本当に危ない状態であった。一歩間違えば命を落とすところだった――そのため、ここに連れてくるしかなかったのだ」

 昏倒する前後のときはの記憶は断片的で、霞がかかったかの如く輪郭を失い明瞭としない。気を失う寸前にときはは、どこかの少女が笑う声、佳耶の声、大人の男の声を聞いたはずだが――幾度も見た悪夢に混じって、どちらが(うつつ)か判断出来ない。自分の身に何が起こったかなど、彼女が耳にしたものより更に不確かだった。

 大海に放り込まれたように息苦しくて、不安で、意識を保つのが辛かったのは、いつからだろう。その時にはもう、ときはは命を落としていたのか。

「しんだの……あたし……?」

「――いいや。君は生きている。生きたまま冥府に来させるようになったのも、肉体を救うためだった」

 ゆっくりと、だが直ぐさま征涯は否定した。よく通る低い声がときはの鼓膜に触れる。

 では何故、ときはは冥府などに居るのか。人が死んだら行く場所ではないのか。生きたまま冥府に――? まるきり矛盾した内容ではないか。

「わけがわからない! わけが、わけが……!」

 ときはは頭皮の痒みを両手で掻くかのように頭を抱えた。

「……すまない。突然の事に感情が追いつくはずもなかったな」

 相手の声は申し訳なさそうだが、ときははその手で耳をも覆っている。

「一つ言っておくが、君がどこに居るにしろ、生きているのは確かだ」

 ぎゅっと縮こまるだけで顔を上げない少女を見下ろし、征涯は「少し待っていてくれ」と告げた。ときはにきちんと伝わったか確認もせずに征涯は房の入り口へと向かって行く。

 顔を俯けているときはには察せぬ事だが、黙ったままの佳耶が彼女に視線を向けていた――。彼が上機嫌な顔をときはに見せた事はないが、この時もまた、不満を堪えるかのような目付きをしていた。幾度かためらうように口を開いてはまた閉じる。もう一度口を開いた時にはものを発するよりも先に、征涯が佳耶を呼びつける。佳耶が自分の後について来ないのを訝しんでいる様子だ。

 短い間で佳耶は左右に視線を散らしたが素早く体の向きを変える。僅かにきしむ床の音が遠ざかり、ときはは一人、房に残された。物音が室内から消え去る。ときはは人がいなくなった事も知らないまま、静寂の中に浸った。

 一人の時間はときはに頭の整理をつけさせるほどの長さではなかった。しかし、先ほどの話だけではもっと頭が混乱するだけだと気がついた。もう一度征涯がやって来た時には、いつの間にか置かれた椅子が二脚揃っていた。長居をするつもりで、今度は話を中断させないという意思表明かのよう。

 上背のある彼は、椅子に腰掛ける前にときはの身長に頭の高さを揃えようとするかのように、上半身をかがめた。

「少しは落ち着かれたかな」

「……あんな中途半端に聞いただけじゃ、かえって頭がこんがらがるって、わかりました」

「そうか。では、話を続けさせてもらう」

 かすかに安堵したように、征涯は眉間のしわを緩める。立ったままの佳耶は二人のやり取りを見て安心したから、というのではないだろうがやっと椅子に座った。けれど、彼は先ほどからずっとそうしているように、征涯に全て任せるつもりなのか口を開きはしない。今度もまた、ときはが少し身じろぎをして、居住まいを正した後に征涯が彼女に声をかけ続ける。

「君の事は故あって少し知っていた。こちらで少しばかり調べもした。けれど今は横に置かせてもらう。とにかく、わしと佳耶は君を探していた。佳耶が君を連れ出したのにも理由はある。だが、まさかあんな事になるとは……想像だにしなかった」

「あたし、あの桃緋って子に……」

 刺された。今は痛みなどない上に記憶は曖昧で、自身に残る傷跡などまだ確認してない。けれど、かつて受けた痛みだけは覚えている。ぎゅっと、ときはは腹部を服越しに抑えた。

 自分が刺されたみたいに佳耶は顔を険しくしたが、今は彼に注意を払う者はなかった。本人ですら、自身の表情の変化に気づいていない。

「その娘の事は未だ分かっていない点が多いが――とにかく君はその娘に刺された。それで君を抱えた佳耶がわしのところにやって来た。君は瀕死の状態だったし、どうやら――」

 はっと、何かを思い出したかのように征涯は言いよどんだ。

「どうやら……?」

 征涯はときはを見つめると、大人の顔をする。子供に真実を告げまいと策を巡らす大人の顔。

「……すまない。現段階ではこれ以上の事は言えない。とにかく君を()の御方に引き合わせる必要もあると判断した。それ以前に、君を助けるにはそれしか方法がなかったんだ」

 気にかかる事を口にしかけておいて、征涯はそれ以上を告げるつもりはないようで、話を他所へとずらした。かえって気がかりになるときはだが、自分に引き合わせると判断された人物についても聞いておきたい。

「引き合わせたいって……誰ですか? それに……方法って」

 征涯は一拍置いたが、今度は時間をかけずに、しかし静かに告げた。

閻魔王様(えんまおうさま)だ」

 ときははかっと目を見開いた。君の父親は実は帝だったのだと言われたってここまで驚かないだろう。

「君を閻魔王様と会わせるべきと判断したのだ。君を死の淵から救えるのは閻魔王様しかいなかった。そのため君を冥府まで連れ出したという訳だ」

 口を意味なく開け閉めしては呆けた様子のときはを、佳耶は目の端で笑っていた。そんなに驚く事でもないだろ、とでも言いたげに。しかしときはに取っては佳耶の事、征涯の事すら意識の外にあった。今はそれどころじゃない。

「えんま……さまって……」

 にわかには信じがたい。信じられない。とにかく文字通り住む世界が違う存在、一つの世界の頂点に座す御方。それがときはの命の恩人だというのか。

「本来ならば閻魔王様が君に会って話をする予定だったのだが、彼の御方はお忙しい。わしには全てを君に伝えられるような事は出来ない。重ね重ね申し訳ないのだが、君にはしばらく冥府(ここ)にとどまってもらわねばならん」

 自分の頭の中を整理しようとして失敗していたときはだが、徐々に征涯の声が届きはじめた。

「え、そんな……」

 この人は今、ときはにしばらく冥府にとどまってほしいと言ったのか。何故だ、ときはを冥府に連れてきたのは彼女の命を繋ぐためで、それが済んだら今、すぐに帰してもらえるのではないのか。

「本当に、すまない。これまでの事ももっと説明がほしいだろうが……こちらでも、はっきりとしない事が多くてな。推測ばかりを君に話す事も出来ない上に、閻魔王様もそれを望んではおられぬ」

「でも、あたし……」

「君一人で人道に戻るのは不可能に近い。分かってもらうしかないが……それが君のためでもあるんだ」

 反論を許さぬ早さで征涯は告げる。ときはは萎れた様に大人しくなった。未だ状況をのみ込めていないというのに、見知らぬ場所に少なくない期間居なければならないのだ。

「しばらく過ごす事になる場所だ、冥府の事を少し説明しておこう」

 征涯は声を少し明るいものにしてときはに優しい眼差しを注ぐが、相手は視線を下に落としたままだ。目元に苦笑をにじませて、征涯は何から語ろうか迷ったのか視線を周囲に彷徨(さまよ)わせる。端緒を見つけ、彼はときはに視線を戻す。

「普通、人は死んだら必ずどこかへ生まれ変わる。それは生前の行いで生まれ変わる先は変わる。人が死後行けるところは六つになる。六道(りくどう)と言い、天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道に分けられる。君が今まで居たところは人道で、善人が行くのは天道だ」

 あっと、ときはは声を上げた。六の道。それは、彼女にもなじみのある言葉だ。

「知ってます。六つの(せかい)

「神名火守ならそうであろうな」

 六道は神名火守が知らねばならぬもののうちの一つだ。しかしながら、どうしてときはの身分が神名火守見習いだと征涯は知っているのか。疑問に思わないでもないが、先ほどの征涯の“少しばかり調べもした”という言葉があれば納得いくというものだ。何かが引っかかるような気がしたが、ときはが口を挟まないために征涯は先を続けた。

「六道の間は本来であれば行き来などは出来ぬ。しかし泉穴(せんけつ)を経由する事によって、彷徨い出てしまうのが夢生(いめおい)だ。それを還すために神名火守が存在する」

 今度もときはに異論はない。彼女にとって当たり前といえる内容を述べられているだけだ。泉穴から夢生が出てきてしまうから、ときはたちのような神名火守が標結(しめゆい)を行い、夢生を元の居場所に還してやる。(あめ)の火を守護すると同様に神名火守に課せられた仕事の一つだ。

 天の火――この単語からときはは、転がり落ちるように過去の暗い出来事を思い出していた。下手人扱い、浅葱の嘘、謎の少女の奇妙な笑み――。ときはの心臓は揺れた。忘れていた訳ではない。途中まで、忘れたと思い込むのに成功していただけだった。あれらを忘れるなんて不可能だと思い知っただけだった。

『ぼくはお嬢さんのことをよく知りません』

 一人の少年の言葉が、長い時間をかけて今やっと、ときはの内蔵にたどり着いた。“お前なんか嫌いだ”“顔も見たくない”“死んでしまえ”そう吐き捨てられた方がすぐに簡単にあっという間に傷つく事が出来ただろう。よく研いだ(つるぎ)よりも(なまく)らの方が切れ味が悪い分よりひどく辛く痛み出す傷口を生み出すのだ――。

 ときはをほとんど見ない浅葱の表情は一体何であったか。怒っても戸惑っても嫌悪に歪んでもなかったはずなのに、ときはを蔑んでいたように錯覚してしまう。言葉ではときはを知らないと言ったきり。それ以外に浅葱の中身が見えないからこそ、勝手な解釈をしてしまう。彼の思いを疑ってしまえる。“お前なんかと関わるんじゃなかった”そう思われているんじゃないかと――

「……ときは君? 具合がまた悪くなったか?」

 伺うような声に、ときはは重い頭を持ち上げた。少しの間、ときはは冥府ではなく人道にいたようだ。

「大丈夫です」

 顔に心配している、と書いてあるような征涯の視線を避けるかのように、ときはは首を動かした。一瞬視界に入りかけた少年も見たくはなくて、反対側を向く。

「本当に、無理はしないようにな……?」

 どうしてか気遣いが嬉しくなくて、ときはは緩慢に瞼を伏せた。

「話を続けるが……我々の行く場所は二つに分けられる。六道のような煩悩の世界と、極楽である悟りの世界。極楽は仏様の世界でもある」

 そもそも悟るとはどういう事なのだろうか。その辺りはときはも知らない。

「六道の世界は迷いの世界。悟りを開いていない状態のため、死後は再び六道のいずれかの世界に生まれ直さなくてはならん。人道をも含む六のうちのいずれかの世界に。だが、生きていくというものは艱難辛苦(かんなんしんく)の連続だ。ゆえに、幾度も生まれ変わるのがそう良い事ではないといえるのは分かってもらえるだろうか」

 話がよくわからなくて、ときはは伏せていた瞳を開く。まず彼女には生まれ変わりという概念があまり理解出来ていなかった。更にこの話のどこが冥府の話なのか、疑問になってきた。征涯は冥府について話すと言っていたのではなかったか。

「六道に繰り返し生まれ変わるのを輪廻転生という。輪廻転生から脱して行く先が極楽だ。悟りを開いて、輪廻から解脱すれば極楽に行ける」

 輪廻からの解脱、それが可能となって人は始めて“極楽”に行けるのだ。そう征崖が告げるとときはは妙な顔をした。食べた事のない珍味を口にして自分の語彙にはないこの味をどう表現したらいいのかと困惑するかのような顔だ。

「……あの、その話どこにつながるんですか?」

「冥府はどちらにも属さない場所だと言いたいのだ。六道と極楽の間みたいなものか。人は悟りを開かないと極楽には行けないものだから、死後は六道を行き来するのが常だ。次に行く場所を決める場所が――この冥府になる」

 死後。不穏な単語にときはは自分の、未だ理解しきれぬ状況を思い出す。人が死後行く場所である冥府にいながらにして、生きたままだという状態。まるで可笑しな謎掛けのようだった。

「君の場合は特例だ。死んではないが肉体があるのでな、何というか……話は少々込み入ったものになる」

 ふいと佳耶が顔を背けたのが気配で伝わってきた。彼が聞きたくない話でもあるのだろうか。佳耶の態度が気にかかったが、征涯の瞳が真摯であるためにそちらの彼に向き直った。

「普通、冥府には死後赴くのだから肉体は伴う事が出来ない。しかし君は肉体を共にしてここに居る」

 死後の世界に、そんなもの持ち込めるのだろうか。

「ここでは肉体を持つ者は歓迎されない事もある――これを肌身離さず常に持っているように」

 征涯の大きな手から差し出されたのは、手首を彩るための輪が二つ。単純な造りではあるがこれも装身具のうちに入るのだろう。丸まった薄紅色の勾玉がくっ付いたものと、もう一つは青い球体のぶら下がるものだった。雨粒のような(たま)は、目を凝らせば中に何かが見えそうだった。それを見つけようとしたが、征涯の声がかかる。

「この二つを常に携えていれば、君が肉体を持つ存在だとは誰にも分からない。肌身離さず持っていてほしい」

「二つも?」

 意外な事に質問をしたのは佳耶だった。ときはも聞きたい事ではあったが、何故それを佳耶が尋ねるのかとまじまじと彼を見つめてしまう。そういえば佳耶が口を利くのは久しぶりな気がする。ときはの視線に佳耶は目だけで彼女を一瞥するが、口を挟んでおきながら彼はときはに興味がなさそうに他所を向く。

「佳耶、まだ病み上がりで疲れてるだろう娘の前では静かに、と言ったのを律義に守る必要はないんだ。今頃になってやっと口を開くとは」

「別に、言う事なんてなかったから」

 諭すような口調の征涯に、佳耶は眉を寄せた。しようのないやつだ、と言うような征涯の眼差しからは、この二人が信頼し合っているのが見て取れた。というより、ときはには、この二人は似てない親子かのように見えたのだ。

「……二人は、親子なんですか?」

 つい聞いてしまって、ときはは少しばかり後悔した。征涯はまるで顔色を変えなかったが、佳耶は何故か気まずげにを表情を硬くしたのだから。

「……いいや。佳耶はわしが面倒を見ていて、閻魔王様にはいずれわしの後継者に、とは言われている」

 佳耶は一度だけ強くときはを睨みつけると、後は気まずげに視線を他所にやった。征涯の言う、彼の後継者とは何を示すのだろうか。彼の仕事を佳耶が受け継ぐ予定である、という事か。そういえば、彼は何を生業(なりわい)にしているのだろうか。冥府の仕事――なかなか想像のし辛いものがあるが。

「こいつに、変な事言わないでくださいよ」

 居心地が悪そうに、佳耶は口をもごもごさせた。征涯はふっと口元を緩める。

「何もおかしな事は言ってないだろう」

「今後の話。あんまりおれの話はしなくていいです」

「佳耶、今からそんなでどうする」

 諭すような征涯の言葉は、佳耶が今後任された任務を思えば納得がいくものだったが――ときははまた彼らが彼らにしか分からない話題を広げたとしか思えなかった。

 結局佳耶と征涯は親子みたいだがどこか違うのだとは、ときはにも分かった。

「とにかく、二つとも持ち歩いてほしい」

 今一度征涯が告げるので、ときはは先ほどの話に戻ったのだと知る。征涯に手渡された勾玉付きの細い腕輪と球体の付属した手首飾りを、両方とも普段から身につけていればいいのだ。容易い事だ。

「分かりました」

 瑠璃の手首飾り――ときはは、兄が形態していたそれを思い出して、我知らず微笑みそうになっていた。懐かしい魚の形をした手首飾りは、今は遠い世界のもの。清人の顔を見れる日はいつになるのか。兄はときはを心配してくれているだろうか。家族らしい家族といえば彼しかいない。兼直も藤も、何を考えているのか露ほども分からない。以前なら断言出来ただろうが、浅葱の事ももう――分からない。

 人道に早く戻りたい。その気持ちに偽りはないが、戻った時ときはを優しく迎えてくれる者はいるのだろうか……? そもそも彼女は“天の火”の盗人にされていたのだ――戻ったところで、良い事など待っているはずがない。(なまく)らが付けた傷が、また痛みはじめる。やっぱり、人道には帰りたくない――そう思わせるには充分だった。

「あとは、そうだな。何か聞きたい事はないか」

 低い声に、ときはは没頭していた自身の思考から離れた。聞きたい事などと急に言われてもすぐには思いつけない。それに征涯は、まだ告げる事が出来ない内容がいくつかあると口にし、既にときはの質問を遮っていたではないか。彼女が首を左右に振ると、征涯は椅子から立ち上がる。

「すまんがそろそろ席を外さねばならん。君の事も、また詳しく聞いてこよう。上手くいけば事態が変わっていくかもしれん」

 おもむろに征崖はときはの肩に大きな手の平をのせる。服越しだからだろうか――征涯の手からは体温を感じられなかった。これが冥府の住人だという証拠なのだろうか……? 思わず顔を上げると、微笑みにも似た征崖の顔がそこにあった。胸の辺りが奇妙な緊張に近い感情でちりちりとする。すぐに征涯の手は離れて行く。最後まであたたかみの感じ取れない手の平であった。

 ときはは自身の両手を重ねると、確かめるように手を握った。暖をとれるほどではないが、ぬくもりが自分の肌に伝わってきた。自分は肉体を伴って冥府にいるのだ。人道――人の世では当たり前の事でも、この冥府ではおかしな事。

 ここは人の住むところではないのだ。少なくとも、本来人道にて使われる肉体というものを伴った人間の居場所ではないのだと理解した。ときはには、人道に戻りたいが戻れない理由がある。人道に帰ったとしても彼女に何があろう。けれども、冥府にいたとして、ここは元来彼女のいるべき場所ではない――。

 完全に、ときはの寄る辺は失われてしまったのだ。

 ときはの僅かな様子の変化に気づかない征崖は「長居をしてしまった。しばらくゆっくり休むといい」と、踵を返して部屋を出た。慌ててそれを追おうとした佳耶は、一度だけ少女を見やって、征崖に続いて歩いて房からいなくなった。

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