十三、目覚め
ここは――水の中だろうか。たゆたう意識は、自身の肉体を認識させなかった。
水上で声がする。水面に影が落ちる。揺らめいて、震える。
「……危ないところ……」
「……時間……なかっ……」
いつの日か聞いたような声だ。もう一つは全く聞き覚えのないもの。ときははまどろみの中に居た。あたたかいという感触はないが冷たさも感じない。目眩を起こす一寸手前に居るような、気が遠くなるような感覚。
全てが遠ざかってゆく。
最後に見た光景――何が起こったのか忘れてしまいそうになる。自分が誰で、何者か、名前は何か。
遠ざかる。見えていたはずのものが点になって、遥か彼方に消えた。
まるで大雨の中、荒れ狂う海原を進む船の中にいるかのようだった。ときはは自分に四肢があるのも忘れていたが、喉を競りあがる焦燥に、自分の肉体がある事を思い出した。
いきなりの衝撃にときははうめき声を上げた。膝から地面に飛び込んだようだ。支える手がなければそのまま頭まで地にひれ伏していたかもしれない。頭が上手く働かないせいで瞼を開く事も出来ない。強制的に気絶させられそうになったような、性急さを感じる頭の鈍さだ。気分が悪い。吐き気がするかもしれない。ときはは意識せず自分の口元に手をやった。自覚すると、それはどんどんと悪化していった。
気がつくと嘔吐していた。ときはは体の中心から何かを搾り出そうとしているようだった。
何も考えられず、視界さえ開けていない世界の中で彼女は吐いた。それから意識がなくなったのにも気づかずに昏倒した。
数えるような余裕はなくとも、幾度もそれを繰り返したのは覚えている。ときはは、こんな苦しみはもう要らないと何度も何度も抗ったのだから。朝か夜かも分からない時間に、屋内か屋外かも判別出来ない場所で、幾度目かも知らぬ目覚めと眠りを重ねた。高熱を持つ自覚はなく、嘔吐している意識はなく、一番に自分を苛む傷すらどこにあるのか理解してない少女は、うなされながら寝起きを繰り返した。
悪夢を見ている事すら知らないときはは、誰かが自分のうめき声に顔をしかめているのも知らずに、短い目覚めの間すらまともな意識を保てず、瞼を伏せたままだった――。
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陽が差して、薄い薄い黄檗色の光が天井や壁を染め上げているのが目に入った。ときはは、自分に眼球が二つあるのを思い出していた。それから、それに繋がる頭、体、手足があって、その持ち主はときはだという事も。
目を覚ましたら、見知らぬ房の天井が見えた。少女は上半身を起こすと、意外にも簡単に体が自分の意思通りになる事を知った。まだ胸のむかつきがあるが、気分の悪さは軽減していた。辺りに目をやると、視線が高いのが分かる。彼女は寝台の上に寝かされていた。開け放たれた窓からは光が差し込んでおり、昼間のようだという事がよく分かる。ただこの場所からは窓の外の景色は見えない。
狭い房だ。ときはの座す寝台の他、小さな机があるだけで、後は何もない。広い邸で育ったときはには狭い室内と思われたが、寝台があと五つほどは入るだろう程度の広さはある。壁も床もきれいに手入れされており、陽の差す床はあたたかそうにも見えるのだが、ときははそこに降り立つ事が出来なかった。ここがどこだか分からないから出歩く気にはなれなかったのだ。それ以前にまだ体調が悪い自覚があった。
「体を動かせるようになったか」
低いが耳朶によく馴染む声に顔を回すと、背の高い男が顔を見せた。入り口から離れ室内へと進んでくる男は大陸風の服を着ている。「気分はどうだ」そう続ける彼は一体何だったかな、とぼんやりした頭で思うときはは返事をする。
「あんまり、よくない……」
寝台の真横にやって来て、男はじっとときはを眺めた。彼は精悍な顔に穏やかないたわりの眼差しを見せる。突然に会ったようなもので彼を警戒しているときはだったが、相手が自分を気遣ってくれている様子だけは分かった。
今更ながら、ときはは自分の身支度が整っているかどうかが気がかりになった。頭を撫でると、髪は結われておらず、少女は慌てる。
「……大丈夫か」
「え……」
ときはの狼狽も知らずに、男は彼女の体調を気遣うような事を口にした。
「まだ、気分はよくないのだろう。楽にしていて構わない」
言われて、ときはは自分が背筋をぴんと伸ばしている事を知った。ほとんど立ち上がろうとしていた事も。彼女がくつろいだ姿勢にならないと彼は口を利きそうになかったので、ときはは足を寝台の中に引っ込めた。男は、まだ口を動かさない。いっそ横になればいいのだろうかと、ときはは気だるさも手伝って、ほとんど体を横たえさせた。
だからというのではないだろうが、体力が普段通りに戻っていない少女は瞼が重くなっていった。
あの男性は誰なのだろう。そしてここはどこなのだろう。ときはは、どうなったのだろう。最後に見たのは恐ろしいまでに哀しい顔をした少女だった気がするけれど、それすら今では遠い出来事――。
彼に聞かなくてはいけない事がたくさんある。佳耶はどうしたのだろうか、眠りに落ちる前にときはは一度だけ、あの面の少年の事を思い出した。素顔を見たはずなのに、未だにあの迦楼羅面を被った姿こそが、佳耶なのだと思わせる、不思議な少年――。
今度もまた、明るい時分にときはは意識を取り戻した。しばらく天井を見上げて、人の気配がする事を知りながらも声を上げたりしなかった。誰かが足音を立てている。誰だろうか、気になってときはが首を動かすと、案外簡単にその音の持ち主を見つける事が出来た。
女性がいる。三十か四十ほどの年齢だろうが、どこか年齢の枠を超えた――年齢不詳とでもいうような、何かを超越した容姿の女性だった。顔立ちは至って十人並み、美しいというほどでもないが、醜いのでもない。けれど、彼女が小さく微笑むと人好きのする表情にときはは安堵させられた。
「ちょっと待っていてね。征涯さんを呼んでくるから」
自身の事は何も語らず、女性はときはの元を去ってゆく。入れ替わり立ち代り、ときはの居るところへは、見知らぬ顔がやって来るのか。少女はにわかに体を起こす。女性が誰かを呼びに行ったのは分かるが、待ってもすぐにはやって来ないと知ると、今度は床の上に時分の足の裏をくっつけた。ときはは想像していたよりもひんやりとして冷たい床に出会った。
窓からの日差しは明るいというのに、床をあたためるほどではないようだ。二本の足を床につけたはいいが、次の一歩でまたこの冷たさに触れなければいけないと思うと、ときはは足を動かす気になれない。
立ったままの少女の耳に、人が歩いてくる音が届く。この房の向こう側がどうなっているのかは知らないが、廊下のようなものがあるのだろう。
扉はなく、長方形の入り口があるのみの房。ときははそこを凝視した。大柄の男性が、彼に比べれば小柄な少年を伴って全貌を現す。やっと知っている顔に会えた。小柄な少年――佳耶だ。迦楼羅面など装着せずに、生意気げなつり上がった目と眉を見せている。今度こそ全く見知らぬ顔ではなかったと、ときはは無意識の内に安心感を胸に寄せていた。しかし彼はときはと目が合うとすぐに他所を向いてしまう。まるで何かを避けるように。どこか気まずそうだったというのに、ときはは気づけない。
佳耶の脇にいる背の高い男性の方も今初めて見る顔ではない。一度顔を見た程度だが、その時見せてくれた穏やかな眼差しは変わらなかった。
「具合はどうだ」
ときはは床に足をつけたまま寝台に腰を乗せ、体重をかけた。前回のように、すぐに眠ってしまう自信はなかった。しばらく体を動かしていなかったから、何か活動をしてないと逆に気分が悪くなりそうだった。胸のむかつきもほとんどない。走り出したいほどではないが、歩いてみたい。けれど、今はこの男性の前で無理をしたら心配してしまうだろう。ときはは彼の事を何も知らないのにそう思っていた。
「だいぶ、いいです」
「また楽にしていて構わないし、疲れたら眠ってしまってもいい」
はいと頷いて、ときははもう一度この男の事を伺った。髪の短い佳耶よりも更に短い髪は鉛色。やや彫りの深い目元に刻まれたしわ。年は四十ほどだろうか――しかし、その眼差しは生気に満ちて彼を若く見せている。もしかすると外見よりはずっと若いのかもしれない。
「……短くはない話に付き合ってもらいたいのだが、良いかな?」
彼の言う“話”に見当がつかなくて、ときははすぐには頷く気になれなかった。彼女は何も知らないのだから、話が聞けるならすぐに聞くべきだと知っているのに。ふと、知らないといえばこの男性の名前すら聞いていないと気づいた。
「あの……お名前は……?」
征涯が眉を持ち上げて意外そうにしたのとは対照的に、佳耶が不満げに眉を寄せたのを、ときはは知らない。彼はときはと顔を合わせないように首を捻っていたからだ。
「これは失礼した……わしは征涯という。以後お見知りおきを」
「あ、あたしは、ときはです」
「存じている」
え、とときはは口を閉じれぬようになった。
まただ。佳耶も、ときはが名のった途端に知っていると応えた。佳耶と征涯は最初から知り合いだったのだ。彼らは共通した何かを介して、ときはを調べていたのだろう。警戒心がときはのところへ戻って来る。自分だけ知らないが相手は知っているという状況は幾度繰り返しても嬉しいものではない。少女の枯茶の瞳が揺らいだ理由を征涯は察したのか、彼は眉を寄せる。
「……まず、君には大変申し訳ない事をしたと思っている。許してくれ」
そして上半身を倒したのだ。大の大人に頭を下げられた事のないときはは顔をのけぞらせて目を剥いた。
「ちょ、ちょっと、止めてください!」
そこまでしてもらう謂われはないと口にしかけて、ときはは唇を閉じる。そんな謝罪より、聞きたい事はたくさんある――。
「それより……ここはどこ?」
室内を見回しても、何も見つからない。この房の外に一体何があるのか。どうして、自分はこの見知らぬ房に居るのか。何があってこうなったのか。全て、この一言に詰め込んだ。
少女の瞳はかすかに怯え、警戒を抱き、そして好奇心を潜ませていた。
体を起こした征涯は知っていた。この少女が期待するような言葉はかけてやれないと。むしろ、彼が説明をすれば彼女の混乱は増すばかりだろうと。彫りの深い男の表情は険しくなり、寄せられた眉間は彼を気難しい男に見せた。
ときはは不安に襲われかける――大人が言いよどむ事があるなら、それはきっと深刻な事なのだろうと判断して。
征涯は瞳を伏せた。眉のしわは伸びないまま。その瞼の下に一体何を思い浮かべているのか。
ときはに推測出来るのは、ときはが怪我した故に佳耶がこの男性のところに連れてきた、という事。征涯が何者かはともかく、ときはが助かったのは彼のお陰だろう。けれど、そもそもときははどうして怪我をしたのだろうか。今はもう傷口の位置すら思い出せない。それを探すかのように、胸の前に右手を彷徨わせた。
ときはの意識が他所へ向かいかけたところで――征涯は瞼を持ち上げていた。音もなく息を吸い込むと、それを吐き出すかのように一息に告げた。
「……ここは、冥府だ」
言われた事の意味どころか、いつ征涯が目を開け、いつ口を利いたのかもときはには分からなかった。
「へ……?」
簡単にその言葉がときはの脳髄まで行き渡るような事はなかった。