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十二、分かたれた鏡

 多量の墨を流したような空の下、男が二人、夜の平城京を歩いていた。一人が松明を掲げて夜の京にゆらゆらとした朱色の明かりを流している。

 田尻八束(たじりやつか)には腑に落ちない一つの事象があった。複数人での任に当たる際に、八束と組になるのが、面倒事を進んで引き受ける古麿ばかりなのが不思議でならないのだ。この日も故あって夜の警邏(けいら)をする事になったが、またもや桐山古麿と行動を共にする事になってしまった。実際のところ古麿は種々の分野にやる気を持ちすぎであり、誰かに押しつけたいと思われている人物だ。八束は彼の相手をしてやっている訳ではないが、追い払うのも無視するのも面倒だと古麿を拒絶したりはしない。だから衛士仲間に古麿を押し付けられるのだろう。

「八束、何を悠長に歩いておるのだ」

 篝火を手に振り返る古麿にうるさいと言うのすら面倒だ。八束はほんの僅かだけ歩幅を大きくする。その時、遠くで何かがぶつかるような音がした。古麿はすぐに顔を上げると、よっぽどの事件があったかのように顔を真剣そのものに変える。

「今、妙な物音がしなかったか?」

「気のせいじゃないかな。自分には聞こえなかった」

 顔色を一々変えるのも面倒な八束は、ちょっとやそっとの事では表情を変化させない。故に彼の「聞こえなかった」というのは嘘ではないと信じる者もいるかもしれないが――古麿は違った。一つは、古麿自身を何より信じるために、もう一つは、八束の無精を少なからず知るために。

「嘘を申すな、今、物音が確かにしただろうが!」

「自信なさそうに聞いてきたのはそっち」

「質問のつもりで問いかけたのではなく、確認のためだ! ええい、もうよい。何があったか見に行くぞ!」

 篝火を持つ古麿が先を走る。また古麿が面倒事をはじめた――八束はうんざりした。しかし逐一古麿の行動に待ったをかけるのも骨が折れる。古麿は自分が正しい事をしていると信じてやまないのだ、そういう人間は力づくで止めても行動をやめない事が多い。どうせ言葉で言っても止めないのだ、八束は古麿の背中を早足になって追った。仕方がない、明かりを持った人間がいないのであればこの闇の中を歩くのは困難だ。だから八束は彼を追うのだ。今日もただの小動物が暴れたとか、外に出ている人間が転んだとかその程度だろうと見当づけて。


 確かに古麿には一種の才能があるのかもしれなかった。面倒事を嗅ぎつけるという、八束にしてみれば迷惑極まりない能力が。彼は、物音の源を見つけてしまったらしい。町の角に背中を張り付けて、首を角の向こう側へと向けている。何かが古麿の注意を引き付けているようだ。

「なあ、何が――」

 言葉を続けようとした八束の顔の目の前に、古麿の手が現れたので、それを避けようと一歩下がる。「声を荒げるな」と潜めた声で古麿に告げられ、大きな声など出していなかったのにと八束は内心呆れる。古麿は何かあれば物事を大きくしてしまう性質を持つから仕方がないし、そんな事をその都度気にしていたら切りがない。そして八束にとってはどうでもよい事だった。

 古麿は指で壁の向こう側を指すと、八束にも自分と同じものを見るように示した。そこには、少女が二人立っているだけだったのだ。古麿が声を潜めるべきと判断した大それた何かがあるようには、八束には思えない。しかしこの古麿の考える事だ、猫の影でも怪物と言い出してもおかしくはない。

「……何が問題なんだ」

「何? お主には感じられんのか、あの小娘が放つ……怖気(おぞけ)のする、妙な気配のようなものが」

 心なしか古麿の表情が硬いように見えた。八束は珍しい事もあるものだと感じただけだったが、改めて彼の言う少女を眺めた。

 八束の居る位置からは、二人の少女のうち一人しか顔を伺えない。夜なので顔の造作までは判別出来ないが、注目すべき点など見当たらない。八束は目を細めてよく少女たちを見据えようとする。しかし何も変わらない景色、古麿の言う“怖気”や“妙な気配”などは感じられない。

 遠目の彼らからは何が起こっているのか視認出来なかった。最初は、篝火を持つ少女の手からそれが滑り落ちた。地面に伏して尚、明かりはまだ消えないまま。少女のうち一人が離れると、残された一人が地面に崩れ落ちる。

「……なんだ……?」

 片方がもう一方に何かをしたのだろうか? だが精々触れた程度にしか見えなかった。怪訝に思う二人だったが、闇の向こうから飛んできた少年が血相を変えているので、やっと顔を見合わせた。少年が叫ぶ。

「お前……! 何した?!」


 桃緋は笑うだけ。佳耶はすぐにときはを抱き起こしたが、彼女の反応はなかった。目を伏せ、荒い息をしてぐったりとしている。ぬるりとした液体の感覚は、ときはを抱えている佳耶にもすぐ分かった。血だ。多量の血がときはの体の中から流れ出ている。

 彼女を貫いた刃はどこだと探す佳耶は、“何か”を感じてそこを探り当てた。ときはの胸の下、(へそ)がある辺りより上だろうか――そこから血が噴出している。

 だが、凶器は見つからない。ときはを貫いた少女が引き抜いたのだろうか。それにしたって、佳耶にはこの傷口がただの短剣による怪我に思えなかった。それが何故かまでは分からない。この傷はおかしいとだけ、分かる。

「しっかりしろ!」

 こんな事になるなんて――佳耶は首を小さく左右に振った。自分がここに来たのはこんな光景を見るためではなかったはずだ。何故だと、すぐになど理解出来ない。混乱する頭は、少年に取るべき行動を思い浮かばせなかった。まるで佳耶を我に返そうとするかのように、人の気配と声が近づいてくる。

「何があったのだ?」

 「あ、ばか」との声が続いて聞こえた。松明を手にした一人の男が出てくる。佳耶が顔を上げるとそこには、目尻の下がった二十代ほどの男性の姿があった。佳耶は彼の顔を記憶していなかったし、古麿と会った時に佳耶は面をしていたので古麿の方も気がついていない。佳耶は現れた第三者に意識を移すような余裕はなかった。すぐにときはの傷口を押さえて、止血に必要な布を探す。どこかから切り取るべきなのだとは知識では分かっているのに、この時の佳耶は狼狽していて思いつけなかった。古麿が近くまでやって来て声を上げたのでやっと佳耶は相手に注目をした。

「その娘……怪我をしておるのか?」

 この血だまりを見て怪我をしてないと思う方がおかしいだろ、と言いそうになって佳耶は一つの事を思い出す。彼が顔を面で隠していたのには理由があるのだ。人に佳耶の姿を見られては困る。

 古麿を追って、八束も顔を見せる。佳耶は慌てて、ときはの容態も桃緋の事も忘れて立ち上がった。少年は少女を無理矢理抱え込むと、古麿たちに背を向け小走りで去って行った。

「あ、待て! 何故(なにゆえ)急ぐ?!」

「そりゃあ、急ぐでしょう。同行者が怪我をしてたら。手当てに行かないと」

「しかしどうにも様子が……。そこの娘、一体何があったのだ?」

 後半は桃緋に向けられたものだったが、彼女は古麿になど気がついていないように振舞って笑い声を上げている。古麿も八束も思わず顔を顰めてしまうような――少女の奇怪な様子。古麿は、遠目で感じていた奇妙な気配が彼女のものだと実感し、我知らず足を後ろに下げていた。この少女、何かがおかしい――。古麿の顔には汗が噴き出す。

 ひとしきり笑った後、桃緋は返り血の染み付いた手で、髪をかき上げた。話相手を探すかのように周囲を見回す。

「あら……どこに行ったのかしら、あの子は」

 ときはの不在に気がつくと、小首を傾げて小さな子どもがするみたいに疑問を顔いっぱいに載せた。

「死骸の心配をする必要がなくなったと喜ぶべきかしら?」

 自身に問いかけているようではあるが、まるで誰かの返事を待つかのように間を置いて、ふんふんと頷いた。そして見えない誰かに微笑んで――古麿たちを総毛立たせるには十分の歪んだ笑みだった――最後に深く首を振った。

「そう? そうね。あの男の子が、命を永らえさせている可能性もあるわね」

 誰にともなくつぶやくと、彼女はときはを抱えた佳耶が去った方角へと歩き出した。

 取り残された古麿と八束は何が何だか全く理解出来なかった。古麿は、松明を掲げていた腕をゆっくりと下ろす。びゅう、と風が吹いた。それが地面に落ちていたもう一つの松明の、小さくなっていた火を消した。その煙で初めて、八束は地に落ちた松明が先ほど倒れた少女が手にしていたものだと気づく。

 何が起きたのだろうか。あの、狂気じみた少女は、何をしてもう一人の少女に大怪我をさせたのだろうか。八束はもう、平素のやる気のなさそうな気だるげな表情をしていなかった。

「……なんなのだ? この古麿を無視するとは……。いや、しかし」

 古麿が常通りの自己顕示欲の強さをにじませるのを聞いて、八束は大きく息を吐き出した。触らぬ神になんとやら――八束はおかしな事だらけのこの事件に、関わるべきではないと判断した。

「……まあ、いいじゃん。きっとあっちも怪我を療養するためにどこかで休んでいるさ」

「お主は、どうしてそう覇気がないのだ? おかしいではないか、こんな夜更けに子供だけで……一人は大怪我をしていた。どう考えても、どちらかが危害を加えたに決まっておる」

 やめようよ、余計な事は。八束は思ったが、口にしてもきっと意味がないのだろう。何しろ古麿は、自分の関係ない事に積極的に首を突っ込んでは、物事をややこしくする天才なのだから。

 風だ。風が吹いている。微風程度ではなかった。どんどんと、強くなっているような不可視のそれに、八束は目を細めて、睨みつけるように空を見上げた。いつの間に雲が出ていたのだろう。月の明かりは消えていて、全てを塗りつぶす黒は、闇は、夜は、目が見えなくなったのではないかと八束に錯覚させた――。




 笑い声が聞こえる。誰のものか。聞いた事ないはずが、耳慣れないというのではなかった。それはいつか聞いた誰かのものに似ていた。

 体が冷たい。自分の四肢の感覚がない。髪の毛の先から、足の爪まで冷えた雨にでも打たれて、凍ってしまったかのようだった。

「くそっ、どうしたら……」

 誰かの声が聞こえる。笑い声の持ち主ではないとは分かるような気がするが、どちらも誰だか分からない。

「……征涯(せいがい)さん……!」

 ほんの僅かだけ、自分が何かに触れているというのが分かった。

 ときはは、ゆるやかに意識を手放していった。そして落ちて行く。

 落ちて、落ちて――少しだけ、腕を引かれている感覚が戻ってくる。大人の男の持つような、力強さを感じたが――

「……わけが…………同じ顔した……」

「とにかく……は……」

「……どうにか」

「……さまなら、……手立てを……」

 また、ときはは上も下も分からない、光も闇もない、意識すら朧な場所へと戻ってゆく。

 生まれてからの十三年、これまでときはに起こった事は全て幻だというように、輪郭は解けて、形も色も体温も何もかも消えた世界へ。

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