十一、鏡
ゆるい山形の眉、小さな鼻に比べれば大きな枯茶の瞳。唇は大きくもなく小さくもない。ときはの顔立ちは、生き生きとした瞳以外にはとりわけ言及すべき特徴はない顔といっていいのかもしれなかった。それなのにこうも同じ要素を持つ人間がいるとは。ときははただただ驚いて、眦を擦れば目の錯覚が消えるのではないかと試みるが、効果などなく、ただ涙が払われるのみ。ときはの顔をした少女は消えはしない。
兄弟や家族であれば人の顔は似るが、ここまで酷似している二人は稀だ。この少女が、黒檀の髪をときはと同じように束ねていたら、衣服を同じものにしていたら、ときはとの区別はつかなかっただろう。
ときはにそっくりな少女がいるだけだというに、大きな鏡でも置かれたかのようだった。あまりにも似過ぎている。奇妙な胸騒ぎがする程に。佳耶は、少女の気配を感じ取った時から変わらぬ顰めた眉を、更に深くした。
「――お前」
一瞬で彼の頭の中に、種々の推測が駆け巡る。一つの可能性に辿り着いて、少年は目を見張る。
「まさか」
すぐには推測を音に出来なかった佳耶。少女は、ずっとときはを見つめて、佳耶の事など視界に入っていないかのようだった。
「どうしよう、笑いが、止まらないわ」
ざり、ざり、ざり。塵や小石を踏みつけながら、その少女は佳耶とときはのところまで歩を進めてくる。思わず佳耶は腰の黒色の得物に手を伸ばしていた。佳耶には、少女の脈動するような禍々しい気配を肌で感じとっていた。
あと一歩ほども進めば、ときはに触れられる場所に来て、少女は立ち止まった。
本当に鏡のようだった。
篝火の作る金茶の明かりが、少女の頬を照らす。ここまで近づいても、ときはと少女の顔の造作には違いなどないと改めて思わされた。異なるのは、その表情だけ。狼狽えるときはに対し、楽しげに笑う少女。
その双眸には常人には見られぬほどの強い感情が込められている。暗闇で輝く炎のような、闇に潜む狂気のような、森にひそむ獣の双眸のような瞳。
少女は目を見開いて、眉を八の字にして、頬を盛り上げる。眦は下がり、持ち上がった口角の脇にはしわが入り、白い歯を覗かせた。顔は微笑みを作っているのに、楽しんで笑っているのだとは到底思えない笑みだった。まるで、表情を貼り付けたお面のよう。
ここに至っても、ときはが口にすべき事が何なのか、一つとして浮かんでこない。少女の浮かべる表情の意味にさえ気がついていなかった。
「……こんなに似てるなんて、思いもしなかったわ」
すとんと物を落としたかのように、少女の表情は一気に変わった。無表情に近い、かすかに疲れたような、呆けたような、口を半開きにした少女。佳耶はゆっくりと足を動かしときはの真横にくっついて、少女から視線を逸らさないままに松明をときはに押し付ける。
少女は頬を震わせるように引きつらせると、一瞬だけ、疲労しきった、泣き顔の一歩手前の顔を作った。そしてまた、あの作り物めいた貼り付けた笑みを浮かべる。
「ねえ……何も知らない神名火守の、見習い娘さん……?」
あはははは……、少女は声を上げて笑った。本当に、可笑しい事があったかのように笑うのだ。だのに、この少女の声は空々しく、乾いていて、どこか哀しかった。
「離れろ」
少年が一人、二人の少女の間に身を滑らせた。漆黒の太刀を手にした佳耶の一喝に、少女が怯んだ様子はない。表情を消して、無価値の存在を見下す目で佳耶を一瞥するだけで、またときはに視線を戻す。
「おかしな話だと思わない? おんなじ顔をした二人の間に立つ少年。一方を守って、一方に刃を向けるのですって。おぉんなじ顔なのにね」
ほんの微かに八の字に近い眉で、知己にするようにときはに微笑を向ける。ときはにもやっと分かった。この少女は先ほどからほとんどの間、笑顔を見せてはいるけれど、心から笑っている時は一度もないのだと。
「邪魔よ。わたしたちの間にある因縁を知らずに生意気な口を利かないで」
少女は佳耶に硬質な声で命じる。よくよく見れば、あちらの少女の方がときはより僅かに大人びているようだった。身長もあちらの方が少しだけ上だ。
「あんた……だれ……?」
ときはは、やっと口を開く事が出来た。見開かれたままの目とは対照的に、口元は少し開いている程度。小さな声だけがもれる。
「あんた、あたしの何なの……?」
姉か何かかと思ったのだ。父がときはに告げていない事など、それこそ山ほどあるだろう。その内の一つ――全く有り得ない話ではなかった。俄かには信じ難いが、それでも信じられる内容だ。
「まあ、おかしな話! 反対でしょう? あなたこそ、わたしの何なの?」
今度の少女の笑みは、先ほどまでと比べたらよっぽど自然なものだった。最後に信じられないものを見たかのように、ぎょろりと目を大きく見開く。
「……は?」
「どうしてあなたはわたしの顔を持っているの? ねえ、それは、わたしのものよ?」
ひゅっと伸びてきた少女の指は、ときはの頬をつまんで引っ張った。
「痛い!」
稚児のするような仕草でも、強い力で抓られればそれなりに痛みを伴う。すぐにときはは、相手の手を払う。頬は解放されたが少女の手はまだ持ち上げられたまま。音もなくその手がときはの首元に近づいて行く。
「どけ」
佳耶の声が響く。冷えた目を細めて、少女は佳耶を眺める。
「何、あなた、お姫様の守り手ってわけ? いいわねえ、高貴な育ちのお姫様には、護衛がいるのね」
けれど佳耶に視線をやっても、それはすぐにときはに戻ってくる。彼女の興味はときはだけにあるのだ。
少女はときはから離れて、ときはの周囲を歩きはじめた。一歩一歩、大きく足を踏み出しながら、視線をときはに与え続ける。
「なぁんでも持ってるのね、あなたは。広い邸、おいしいご飯、素敵な家族」
ときはは自分の背に回った少女を目で追うが、相手はまたすぐときはの目の前にやって来た。
「それから、あなたを必死で守る男の子。足りないものなんて、何もないのね?」
佳耶はときはの護衛などではない。それだけは違うが、ときはが家も食事も家族も持っているのは確かなのだ。家族については思うところあれど――彼女はどうしてときはの事をそうも知っているのだろうか。
「なに、言って」
佳耶が二人の間に入る。
「ぐだぐだ勝手なこと言ってんじゃねえ」
鞘から抜かれた状態の太刀は黒く、切っ先を少女に向けていた。それを持つのは佳耶だ。
「邪魔だと言ったでしょう」
少女が佳耶の肩に手をのべて触れると、彼の体は一気に空を舞った。まるで何かに弾かれたように飛んで行ったのだ。松明の明かりの届かないところへ消えてしまった佳耶。何かにぶつかるような音がして、そう遠くない場所に佳耶は落ちたらしいと分かる。けれど、もう松明の明かりの届かない場所に佳耶は行ってしまった。それも、一瞬で。
ときはは目を見開いて、信じられない顔になる。いつかどこかで見た光景だと、頭の隅で気になったが、戻って来ない佳耶が気がかりだ。
「ちょっと!」
佳耶のところへ駆け寄るつもりが、ときはは少女に胸倉を掴まれる。
「ねえ、分かる? あなたへの、おもいが、とまらないの……」
ときはの服を掴む少女の手は震えているようだった。気味が悪い。胸の中でどくどくと、警鐘のような脈拍が速くなっていくのが分かる。走れ、ここから。この少女から逃げるのだと、心臓が警告をしている。ときははどんどんとこの少女の奇妙な様子に恐ろしささえ覚えるようになった。
「はなして! あんた一体……何なの?」
「何なの? 何なの、ですって? 陵ときは。あなたのことは、何でも知ってる」
少女は目を見開いて笑った。
「あなたがどんな人間かも」
――知ってる。ときはと同じ形同じ長さ同じ色をした少女の瞳は、濁りながらもときはを強い力で射抜く。ときはの常々感じている神名火守の仕事への悩みも、周囲の人間への思いも、“天の火”の盗人扱いされている事すらこの少女は知っている――そう錯覚してしまう瞳だった。
「それなのにあなたは、桃緋なんていう名前、知らないんでしょうね」
嘲りを含んだ少女の笑み。
「それがあんたの名前なの?」
“桃緋”――ときはにはそれがこの少女の本当の名前なのだと感じられた。きっと間違っていない、それなのに彼方は名を呼ばれた事を厭わしく思うのか、顔を般若のように変える。
「しゃべるな」
少女――桃緋はときはの服から手を離すと、今度はときはの両肩を掴んだ。
これではまるで、佳耶の時と同じだ。彼方の事情ばかりを口にされ、ときはの意思は必要とないと発言を遮断される。ときはは苛立ちを思い出していた。
「……なんでよ! 知らないわよ、あんたのことなんか! だったら何だっていうの、だって、知らないものは、仕方がないじゃない!」
教えてもらっていないのだ。知らないのだから、どうする事も出来ないではないか。“天の火”だって天の御堂にあったなんて知らなかったから、ときはが関われるはずがなかった。神名火守の事だって天の火だって仔細も知らないのに、一体ときはに何が出来る?
この少女の事だって、ときはと顔が同じという事ぐらいしか、名前が桃緋というらしいとしか、分かっていないのに――何故、何も知らないときはに全てぶつけてくるのか。
知らない事が――浅葱の考えが分からない事が思い出された――もどかしくて、こんなにも腹立たしい事だなんて。ときはは、ほとんど彼に突き付けたい思いを爆発させた。
「だってしょうがないでしょ、知らないんだもの! 教えてよ、言えばいいでしょ! あなたは何なの!」
どうしてときはを知らないなんて言ったのか――教えてほしい。本当はこの少女に言いたいのではない言葉を連ねたのに、桃緋は気づいたのだろうか。
「うるさい……」
それとも、ときはが何を言おうと煙たく思うのか。
桃緋の顔はもう笑っていなかった。目の下から鼻の先まで醜いしわを集めて、桃緋は叫んだ。
「うるさいいぃっ!」
ときはを突き飛ばすと、桃緋は自分の顔にこびりついた泥でも落とそうとするかの如く、顔を両手で覆った。
「お前がいるから……お前がいるから……わたしは……」
小さな幼子が顔の筋肉全てを使って泣こうとするのに似た顔で、桃緋は彼女の全感情を放出した。
「……うああああああああああっ!!」
桃緋は叫んだ。まるで何かに抗うように、両手で頭を抱える。
「なんなの……」
本当に理解出来ない。ときはは、これ以上彼女に関わりたくなくなった。夢生にするのと同じように、見て見ぬ振りをしなければ。
そしてやっと佳耶の事を思い出せたときはは、彼は未だ地面のどこかに転がっているのだろうかと心配になる。桃緋から距離を取るように後退り、背を向けた。
「待ちなさい、陵ときは!」
背後から肩を掴まれ、振り向かされたときはの目には、憤怒の形相をしながらも、頬に涙を流す少女が映っていた――。
襲い来る少女は、正気の顔をしていなかった。
「……へ?」
桃緋は何か小さな物を持っていた。そう認識した瞬間にそれは訪れた。
佳耶は町の壁に背中を打ち付け、四肢を地面に投げ打っていた。その足元に迦楼羅面が転がっている。彼はしばし気を失っていたようで、背中の痛みと共に目を覚ました。一瞬で空を飛ぶ事になったのは覚えている。今ではあれが何を示すのか分かった。佳耶も同じ事が出来るが、誰にでも出来る事ではない。あの少女が持つ気配は、佳耶の知る誰かに似ている気がした。それが誰かまでは思い出せなくて、顔をしかめる。
思案している場合ではないと思い出し身を起こすと、松明を手にするときはが少し先に見つかった。佳耶の姿を照らすほど松明が近くにはないので、ときはは彼の居場所に気づいていないらしい。
口論する少女たち――。あの、ときはと同じ顔をした少女は一体何者なのか。ただの人でない事は確かだ。しかも佳耶と同じ力を持つなら、この漆黒の太刀は通用しないだろう。ふっ飛ばされてもかろうじて手放す事はなかった太刀を、佳耶は腰の鞘にしまう。
足音を立てないよう心がけ、佳耶はゆるゆるとときはと少女のいる場へと戻ろうとする。
ときはが、大きく息を呑んだのが佳耶にも分かった。もう五六歩進めば彼女の間近に迫れる場所にいて――“それ”を見つけた。
桃緋が、ときはに向かってもたれかかるように接近していた。桃緋の頭は俯いて、流れる髪で顔は隠れてしまっている。佳耶からは横顔しか見えないときはは、ぼんやりと口を開けたまま身動ぎ一つしない。
目を見張った佳耶には、ときはの体から流れる血が地面へとしたたるのが見えていた。その血の量が、ぼたぼたと増え続けていく事で、彼女の傷を浅いものではないと告げていた――。