九、佳耶
少年を認識するなり開いたときはの口は閉じられないままだった。この面を見れば、もっと腹が立つはずだったのに、ときはに押し寄せる他の予想外の出来事によって忘れ去られてしまったらしい。最初に目にした時は不安に近いものを抱いた迦楼羅面。その感情ですら今は失われている。
何故、最刈の邸で迦楼羅面を見る事になっているのか。あの日、あまりにも唐突に現れた少年は制止する間もなくいなくなった。気がかりではありながら天の火の盗人扱いをされている今では、もう遠い日の記憶に変わっている。
「お前、なんでこんなところにいるんだ」
少しだけ低めの声で、少年は面の下で不満げな息を吐く。それはときはの台詞だったし、“いるんだろ”と居所を知って声をかけて来たのは彼方のはず。そもそも彼はどうしてときはの前に何度も現れるのか。それに、もっと穏やかな物言いは出来ないものなのだろうか。ときはの声が尖るのも、あちらの対応のせいだ。
「……あんたには関係ないでしょ」
「ああ、お前の事なんかどうでもいい。でもお前が関わっている事の一部は、こっちも知らなきゃなんないんだ」
面の下に感情も事情も隠し、少年は言う。彼の言葉は複雑ではないのに込み入って聞こえて、ときはは頭の中を一度整理しなければならなかった。要するに、ときはの友人になりたいからというのではなく、他に故あって彼女の居場所を突き止めたというのか。
「“こっち”って、何よ? あんたまるで自分は特別な存在みたいに言うじゃない」
「特殊なのは認める。お前の住んでる世界とは違うんだ」
「何それ、意味わかんない」
この間から、理解出来ない事ばかり。もうこれ以上、ときはを混乱させるような話はしないでほしかった。相手の顔すら見えないのに、彼の言う話題の中身が見えるはずがない。
幸いと言うべきか偶然と言おうか、ときはが閉じ込められている房は広い窓を有しており、手を伸ばせばすぐ外に立つ少年に届く。窓の外に手を出して引っ張りあげたのは、少年の被る迦楼羅面。
「何すんだよ!」
地面に転がったお面をどうにかするより早く、少年はときはを睨み上げる。
そこにはきちんと、人の子がいた。迦楼羅と同じ嘴もない。目も鼻も口も耳も、人のものと同じ。面に覆われてない体が人のものなのだから当たり前だろうが、こうして顕になるまでは僅か疑っていたのだ。
迦楼羅面の下には、ときはと同じ年くらいの子どもがいるだけだった。つり上がった瞳に、不満そうな眉。鉄紺の髪は短く切りそろえられている。ずっと尊大な態度と不機嫌な声をしていたが、それらから見ればまだ幼い顔立ち。
「見てんじゃねえよ」
凄んでみせた声に、あまりにも鋭い瞳の少年。だが、ときはと同じまだまだ成長途中の子どもにすぎず、先日大の男を二人も地面に転がした人物には見えない。
ずっと隠されていたものの中身を見せられたからだろうか、ついときはは少年の顔ばかりに目がいっていた。それを自分に与えられた最悪の罵倒だとでも思っているのかのように、彼はしかめっ面をする。ときはは自分の視線を他所へ移す事を思い出した。
「だって、なんでそんな変な面してるのよ」
彼がそうして最初から面のない顔でいれば、ときはだって珍しくもない顔をまじまじと見つめたりしなかったのに。
「いちいちうるせえな。別に面被りたくて被ってたんじゃねえよ」
「はあ? じゃあなんで被ってたのよ」
「お前ほんっと、うるさい。ちょっと黙れ」
質問には答えないあまりか、口を閉じろというのか。ときはの中で反発の思いが増殖する。今度は何を言ったらこの少年に勝てるのかと、ときはは唇を噛む。
「そっちの事情はどうでもいいんだ。問題は……」
仕切り直すかのように少年は口を開いたが、途中で首を持ち上げると、ときはを検分するかの如く見つめた。
「……ちょっとややこしい事になったな」
最初に会った時からそうではあったが、本当にときはの言い分も聞かず、あちらの事情だけで何かを考え行動に移そうとしている。あちらが全てを語らなくとも、口を挟まずにはいられない。ときはは、苦いものを食べたような顔をして、少年を睨み付ける。
「……あんたね」
「偉そうな呼び方してんじゃねえよ」
「そっちが名乗らないのが悪いんでしょ!」
偉そうとはどういった意味か。知らないものは呼べない、ただそれだけだというのに。
「お前だって名乗ってねえだろ」
「はあ?!」
その暇さえ与えずに、常に彼の速度で話を進めてときはが何かを言えば“うるさい”と一蹴してきた癖に、何を言うか。
ときはは、頬をひくひくとひきつらせながら、一度目を伏せる。自分が相手に名も知られずお前と呼ばれ続けるのも気分が悪いと思う事にして、苛立ちを抑えようと心がける。瞼を持ち上げて少年を見ると、変わらぬ不満顔。
「……別に、無理矢理は聞くつもりないわ。でもあたしは、名乗れもしない無礼者って思われたくないから名乗っとく。あたしは、陵ときは」
「知ってる」
嫌味な言い方だと目を剥いたが、その内容が問題だと気づいて大きく目を見開いた。
「は、知ってるう?!」
「あーもう、うるっせえな、調べたんだよ」
少年は、まとわりつく虫でも払うかのように手を振って、残った手で耳をふさいでみせた。逐一好感を持てない態度である。
それにしても、“調べた”とはどういう事か。様々な可能性が考えられるが、自分は気づいていないのに、相手は自分の背中を見つめて背後からついて来られているような嫌な感覚に囚われる。奇妙どころか、気味が悪い。ときはの顔は、駄々をこねる小さな子どものように分かり易くしかめられていた。
「……気持ち悪い」
「ああ? こっちだって別にお前に興味があって調べたんじゃねーよ! 事情があって仕方なく、だ!」
少年は更に怒気を込めた声で言い放つ。一体何の“事情”があるというのか。彼には何か目的があるらしいのは、ときはにも何となく推測出来る。もしかしたらではあるが、誰かと行動を共にしている事もあるかもしれない。それなりの事情があるならと、ときはが一歩引いて大人になってやってもよいが――やはり、気に食わない。
にわかに、子どもたちの睨み合いがはじまった。お互いに、如何にして顔だけで不満を表現出来るかを競うかのように、目を眇める。
ときはが名乗るより先に名を知る少年は、普段最刈の邸にいないのに、彼女の居場所すら見つけてみせた。ならば彼は他に何を知っているというのか。ときはが誰かについて素性を調べようと思った事など一度もないが、他者について名前や家族について探求するなら、それはどんな場合だというのか。ときはが、何か間違った行いでもしたというのか。
『何言ってんだ、お前。天の火を盗もうとしているくせに』
やっと思い至るのは、全くはじめて顔を会わせるというのに、この少年が突きつけてきた言葉。
彼も、ときはが天の火を盗んだと見てここまでやって来たというのか。いや、少年と会ったのは天の火がなくなったという騒動より前だったはず。だから昨日の詮議でときはがこの少年の事を話した時に、時期が合わないとあまり取り沙汰されなかったのだ。
この少年は、一体何なのか?
行く末に起こる出来事を見通す力でもあるというのか。ときはの背を、目に見えぬざらざらしたものが這い上がる。それでもときはは、天の火など盗んではいない。安置されている場所すら知らなかったのだから奪いようがない。
天の火の存在を知っているからといって、神名火守の人間にも思えない。神名火守はその総勢が少ないが故に、顔と名前までは一致せずともどの年齢の人間がいるかくらいなら、ときはも把握しているのだ。神名火守にときはと同い年ほどの子どもはいないはずなのだ。この少年は、何から何までおかしい。
もう、一人考えるのには焦れてきた。ときはが少年から意識を逸らそうとするより一瞬だけ早く、少年は視線を他所へやった。黙っているのに飽きたかのように、鼻息だかため息だか判別し辛いものを吐く。
「佳耶」
突然もらされた単語に、ときははすぐには対応出来ず「え?」と間抜けな声を上げてしまった。少年は視界の端のときはの様子が気に入らなかったのか、体の脇で小さく拳を握ったが、もう一度口を開く。
「名前」
文章にすらなっていない単語を二つ並べられても簡単につなげる事は難しい。しかし先ほどからの話題で、この少年の名前が“佳耶”というのだと、名乗られたと考えられ――。
「なんか女の子みたいな名前ね」
思った言葉をそのまま口にすれば、当然相手――ときはにしてみれば女の子みたいな名前の――佳耶は機嫌がよくなるはずもなく、低い声で唸った。
「てめえぶん殴る」
ときはが窓の外に手を伸ばせたのと同様に、佳耶の手も屋内にある彼女の間近に迫ってくる。咄嗟に避けると、ほとんど身を乗り出してきた。
「ちょっと、本当に叩くつもり?」
「当たり前だ、おれは嘘は好かん。顔寄越せ」
「本当にしなくても別に嘘にはならないでしょ!」
しばし、窓越しに叩くだの叩かないだのと攻防が繰り広げられる。ときははその気になればすぐに少年から離れられるのだが、窓の外から手を伸ばすのにも限界があると知っていたから、少し離れただけでいた。
それにしても、やっとこの少年――佳耶の人間らしいところを見られた気がする。素顔の見えぬ面を被っていたり、訳の分からぬあちらの事情ばかり話されるより、名前が女みたいだと言われて怒る子どもの方が、ずっといい。瞳には怒りがあり相変わらず鋭い目付きではあるが、名前の事を気にしたりするのかと、笑えてしまう。
少年はとうとう諦めたようで動くのを止めた。また次に余計な事を言えばすぐにでも手を出す、とでもいうかのように手は窓の縁に載せたままだったが。
「そういえば、あんたどこから来たのよ」
ときはにしてみれば、当たり障りのない話題を選んだつもりだった。これまで感じた疑念や不安が少しだけ薄れたため、つい気さくに話しかけてしまったと、後悔するまではあと少し。
「……どこだっていいだろ」
突き放した物言い。どうしたって、ときはもそれに倣ってしまいそうになる。先手を取るかのように、佳耶は続けた。
「お前に話すことなんかない」
「ときは、って言ったでしょ」
名前で呼ばれたいというのではないが、ときはは折角名乗ったというのに、また“お前”扱いだ。やはりまた相手を威嚇するように互いに睨み合う事しか彼らには出来なかった。
痺れを切らしたのは佳耶が先で、唐突にこんな事を言った。
「……ここを出たくないか」
「出たいに決まってるでしょ!」
反射的に答えたような何て事ないときはの返事。佳耶は小さく顎を持ち上げて、挑発するかのように目を細めた。
「じゃあ、出してやるよ」
「……は?」
これまでにこの少年が言ってきた言葉は、どれも耳を疑いたくなるような失礼なものや訳の分からぬものばかりだったが、これが一番ときはを混乱させた。確かにときはは、自分の意に沿わぬ場所にほとんど閉じ込められるようにして押し込められている。この邸を出られたらと願った事も一度や二度ではない。だからといって、会って二度目の少年に手助けを申し出られて、喜んでと従う事は出来ない。そもそも佳耶には何か彼の事情があって行動しており、ときはを嫌っているようですらある。
すぐには彼を信じられる気分になれなかった。だが、ここから出たいという思いは偽れなかった。一言口を利くのもはばかられる。簡単な事は言えない。
「……でも今はまだ時期じゃない。備えが必要だ。だからお前はしばらくそこに閉じこもってるんだな」
佳耶は口の端を上げた。本当に、今度という今度は理解出来ない。最刈の邸から“出してやる”と言った端から“しばらく閉じこもっていろ”とは。
「何なの、あんた。ほんとに訳分かんない……」
どうしたら真実を告げてくれるのか。叶わぬ事と知りながら、ときはは佳耶へ何と問うべきか言葉を探した。
二度、戸を叩く音がしたのはこの時だ。振り返ったときはは、一瞬で自分が今どういう状況にいるのかを思い出す。佳耶という少年の訪れで頭の隅に追いやられてしまったが、ここは彼女の家ではない。周りは誰も信用出来ない、神名火守宗家の邸。先日はときはを咎人とみなすような瞳にばかりお目にかかった。
再び、戸が音を立てる。そちらに意識を集中させていたときはは、佳耶の存在をどうするかと、窓の外に視線を戻す。少年の姿は見当たらない。思わず窓の外まで顔を出すと、ときはが取り落とした迦楼羅面すら見当たらず、佳耶はどこにもいなかった。まただ、はじめて彼に会った時と同じように、忽然として消えてしまった。
「……開けるよ」
少年の消失にうろたえるときはの前に、容赦なく声は告げた。現れたのは清人だった。
兄の声を、この房の前で聞くのははじめてのように思える。実際初のものだったが、こうして間近で清人と話をするのは本当に久しぶりで、これまでに陵の家であってもちゃんと向き合って話をした気になれなかった。清人は相も変わらず涼やかな目をして、隙のない様子で立っている。彼の背後には誰もいないようだ。
「君の言ってた彼だけど……ここに来る事になった。もう連れられている頃かもしれない」
「何? 誰のこと?」
「あさぎ、と言ったっけ。君が気になって仕方がない少年だよ、ときは」
お前の事ならなんでも知っている、そう言われたような気がした。この兄の恐ろしいところは、これだ。興味のない素振りをしておいて事情だけには通じている。羞恥だか憤怒か分からない顔の熱さは、今は置いておくべきなのだろうが、俯いてしまう。
「あ、浅葱がどうしたっていうのよ」
「お前の詮議に加わる事になった。ある程度、覚悟しておいた方がいいと思ってね」
ときはが顔を上げると清人は他所を向いていた。
「覚悟って、何の……」
まさか神名火守の本拠地で浅葱と顔を合わせる事になるとは考えられもしなかった。だが、浅葱と会うだけなら何の気構えが必要あろう? ときはの疑いを晴らすためには、浅葱の話を聞く必要がある。それがこの邸で行われるというだけの事。清人はおかしな事を言う。口の端が持ち上がってしまうときはだが、兄は彼女を振り返らなかった。
清人は離れ、代わりに別の最刈の人間が現れて、ときはに出ろと命じる。先に清人は行ってしまった。傍を歩いてはくれないらしい。そうして欲しかったのではないが、全くの他人に両脇を囲まれるのは嫌だった。
詮議のための場に連れられると、先回見た年嵩の男たちの中に、たった一人小さな影があった。浅葱だ。一瞬ときはを見つめた瞳は周囲に警戒して焦慮に揺らぎ、小さな怯えが見え隠れした。大人たちの言葉が彼にも聞こえているのだろう。下町の事を見下した言葉、ほとんど罪人でも見るような瞳、顔を顰める者ばかり。
「あさぎ……」
何を言って声をかければいいのか。どうやって彼と話をしていたか忘れてしまった。自分のせいで――そう、ときはが彼の事を口にしたから浅葱はここまで連れてこられたのだ。困惑の極みにあるだろう。ときはだって未だ自分の身に迫っている事を理解しきっていないのだ。浅葱の瞳は、狼狽しながらもときはを疑っているのではないか? どうしたら彼女の潔白を証明出来るだろうか。
「静かに」
広成が声を上げる。三々五々と、神名火守たちは自分たちの座る場所へと戻って行く。浅葱はそのままときはを見ずに、座った。立ち尽くしていたのはときはばかりで、近くの者に手を引かれ、やっと彼女も腰を下ろす事が出来た。
「では、その者の話を聞こうではないか」
真っ直ぐに浅葱を見据えた広成が、不正を許さぬ顔つきで詮議の開始を告げた。
ときはの無実を証明してくれるはずの相手が訪れたのだ、喜んでいいはずが、そうできなかった。何故だか、胸が焼けるような焦燥が彼女を支配した。