光と影のほとり
日差しが弱くなる頃、夕子を連れて夕涼みに外へ出た。
海辺を歩きながら、打ち捨てられた斜長石採掘場の赤茶けた風力発電の風車を横目に永久影を目指す。思えば生まれてこの方、夏というものは早く過ぎれば良い、といつも願って生きてきたように感じる。しかし、夏が過ぎるとそれはそれで寂しくなるものというのも同時に感じてきた。この夏も幾年か過ぎ去った夏と同じで、終わることを願いつつ、終わることへの寂しさを感じていた。
永久影まで行くとくっきりと日の当たるところと、そうでないところで分かれている。月の創成期から続く永遠に日の当たらない場所、つまり月の裏側だ。暑い昼には暑い風が永久影へと吸い込まれ、涼しくなってくると逆に冷たい風が日の当たる場所へ流れていった。その影と光のほとりには空気草が生えていた。空気草は日の当たる場所では背が高くなり、逆に永久影に向かって低くなっている。そしてその奥の方ではまるで何も生えない岩場が続くばかりであった。それは地球上のどんな深海よりも無機的で腐敗すら超えた圧倒的な死のにおいが漂ってくるようだった。その光と影のほとりを歩くと人の生死も同じようなものだと気付かされる。壁一枚隔てたところに常に死は横たわっているのだ。いや壁というよりこの足元にある境界線のようなものかもしれない。これだけ近いのに一度でも死の領域へ入るともう姿が見えなくなってしまう。声も届かない。残った記憶も霞んでゆく。ふと居間に転がった花束と花瓶を思い出す。あれはどういう名の花だったか。どんな色の花だったのか。もう思い出すことができない。全ては色褪せ、消えてゆく。
「お話をしましょう」
共に歩いていた夕子が話しかけてきた。
「どんな話がいい」
私は影と光の境界線を踏みながら答えた。
「できれば明るい話がいいです。昔の心に残っている良い想い出とか」
「想い出というのは良いも悪いもないよ。良い事も悪い事も全て繋がっている。今思い出すことと言ったら妻のことだ。あれには若い頃迷惑をかけた。私はこれでも文筆家でそこそこの地位を得ていた。文筆家と言っても、どちらかと言えば売文家だ。どう書けばそれが売れるかだけ考え、その道に精通していた。名声もあり、金も幾許かあり、少々天狗になっていたかもしれない。
妻とは恋愛感情で結婚したはずなんだが、天狗になっていた私はいつの間にか私は女を作って遊んでいた。馬鹿だろ。妻には決してバレないと思っていた。それどころかバレるか、バレないかという状況を楽しんでいたかもしれない」
ふと妻の顔が脳裏をよぎった。それと名も顔も思い出すことのできない恋人がこちらを見て泣いていた。妻は言った。私たちの間に子どもできていれば、こうこともなかったのではないですか、と。見当違いの話だった。ただ私が間違っていただけだ。自分というものの価値が限りなく高く、全ては許されるか、都合の悪い事は時間をかければ何事もなく消え失せると思っていただけだ。妻は私だけを責めればいいのに自分自身も責めていた。
「妻には迷惑をかけた。全てはお見通しだったのだ。それは尾を引いた。若気の至りで済まされることではない。そのことで私たちは決定的に損なわれてしまった。私と妻の間には埋まることのない亀裂ができた。お互いを思う特別な感情は常にあったのにその亀裂がお互いを阻んでいた」
「奥様とは離婚されたのですか」
「いや、離婚はしなかった。三年前に死んだ」
「お悔やみ申し上げます」
お悔やみ申し上げます。その言葉に腹が立った。悔やんでも悔やみきれないのは当たり前のことだ。私は妻の人生の上で汚点でしかない。それどころか病気で苦しむ妻に何もしてやれなかった。ただ傍らでひっそりと死ぬ時を待っていたようなものだ。そもそもあの時、妻が離婚を口にすれば私はそれに従っただろう。結局妻はそれは口にしなかった。昔は何を考え、何をしたら喜ぶのか分かっていた。些細なことも全て共に分ち合うことできた。それなのに一番近くにいるばずなのに何を考えているのかまるで分からなくなってしまった。この機械が私の過去を再び思い出させた。あの時の怒りが胸の内に湧き上がり私は踵を返して早足に帰り道を歩き始めた。
「すみません」
私が怒ったことに気が付いた夕子が言った。その後におそらく何か気に障ることでも言ったのでしょうか、という言葉が続くはずだったのだろう。しかしこの賢い機械はその言葉を飲み込んだ。
私は怒りに任せて歩いた。永久影から吹く冷涼な風を背に受け、眼の前に赤茶けた風車越しに夕焼けに染まった海を見た。そしてその海と空との間に地球がぽっかりと浮かんでいた。
この胸の内の怒り、それは誰に向けての怒りか。私自身に対しての怒りではなかったのか。私は立ち止まり夕子に言った。
「夕子、少し想い出話をしよう」
夕子は私から視線を外し、眉目を垂れ悔いている表情を作った。
「昔、少年時代に晶という男の子のような名を持った少女がいた。まだ十四、五の頃か。いやもう少し下だったかもしれない。スカートを穿いているのを見たことがなく活発な子だった。浅黒く元気に走り回っているのが常だった。なんとなく彼女を見るたびに私の心ははそわそわしたものだ。その子には兄がいた。もの静かで年の頃のわりに酷く落ち着いた美少年だった。そして晶の下にはもう一人いた。これは綺麗な顔立ちと言えず、酷く自尊心が強く、上の兄と姉を軽んじているようだった。そして兄と姉はどこかその妹を遠ざけていた、と言えばその子らの家庭環境は大体見当がつくだろう。
夏休みの頃だ。家の裏の石垣でできた用水に私は蛍を採りによくそこにいた。用水であるから流れは早い。そんな中、ゆっくり飛び交う蛍の光が点々と舞う姿は非常に美しいものだった。私は虫取り網を持って蛍を二、三匹採り部屋に放って眺めようとしていた。そこへ後ろから晶が現れた。物も言わず、ただ目の辺りを赤く晴らし、口をへの字に歪ませて立っていた。普段、心をそわつかせながらも一切話したことのない彼女に私はどう言っていいのか分からずただ一言、蛍を採ってあげよう、とだけ言った。それに対し、晶は震えた声で、ありがとう、と返事したのだ。今でも彼女のその声が私の耳に残っている。
何がどうということはない。ただの想い出話だ」
辺りに夜闇が迫ってきていた。まるで永久影から影が這い出してきているようにも感じられた。
夕子は一言「ありがとうございます」と言った。
胸につかえた怒りは常に悔いへと変わる。思えば私の半生はいつもその繰り返しだった。




