歌
夕子が来てから部屋は丁寧にかつ効率よく片付けられていった。そもそもこの家にあるものは私の生活に必要最小限な物ばかりで、そんなに散らかっているというものではなかったが、そこはやはり専門家。しかもアンドロイドともなれば普通の人の目とは違うものを持っているらしい。私の所有している物は彼女のイメージする本来あるべき場所に移動され、見易いように分類され、かつすぐに手が届き、片付け易い所に配置さた。家具も私の好みを聞きながら動かされ、日当たり、風向きを考え、素早く結論を出す。その行動は小間使いのそれより洗練され、軍隊の特殊部隊の動きに近かったかもしれない。彼女は考える時、少しの間立ち止まり、顔を斜め下に床を見て、その細い顎に右手の親指と人差し指を軽くはさみ、軽く握る。そして右手の肘を左手が軽く支え身体の内側に少し寄せた。その姿勢は考えるという動作というよりも駅の大きな広告で見かける女性向けのファッション広告のモデルを思わせた。
「それは前の主人の指導か」と私は彼女が全ての仕事を終えると冗談交じりに言った。
夕子は「そうです」と文字通り機械的に頷いた。
その機械的な生真面目さと、前の主人と夕子とのやり取りを想像すると微笑ましい。それはまるで母と娘の姿を私に連想させた。様々な人生を歩み月へと来た前の主人を思うと、幾分寂しさを感じさせる。微笑ましさはその寂しさとあいまって清涼感にも似た感覚を私に与えた。
「前の主人はどんな人だったのか教えてくれないか」思わず出た私の言葉に「それはできません」と夕子は即答した。
「個人情報はお伝えする事はできませんので」
「しかし君の欠陥の事を話したとき前の主人に関して話していたではないか」
「私の欠陥の説明をする際にどうしても前の主人の話を交えなければならなかったので仕方なく話ました。けれどそれは嘘を交えています。三回の結婚と離婚を繰り返したと言いましたが、もしかしたら四回かもしれないし、一回かもしれない。そもそも結婚してなかったかもしれない。そして歌を歌っていたのは火星かもしれないし、エウロパかもしれないし、地球のレニングラードかもしれないし、ウズベキスタンかもしれない。もしかしたらブエノスアイレスかもしれない」
「でも歌手というのは嘘ではないのだな」
「そうです。それは個人情報ですが確かにお伝えしなければなりません」
「何故」
「私は前の主人から歌を習い、その歌を歌ってもいいと言われました。そして歌手だったこと言ってもいい、と」
「その歌から個人が割り出されるのではないのか」
「いいえ、月に着てから作った彼女が個人的に作った歌です。個人は割り出されることはないでしょう」
「そうか」私は椅子に座った。整理と掃除で疲れていた。
私が言葉を切ると夕子は台所へと向かう。彼女は私が何もいわなくても私が飲みたいものを知っていた。ふと窓を見ると輝かしい日差しが窓の脇にある大気樹の葉を緑というより黒に近いくらいの色に照らしていた。外は猛暑で空調が利いているこの部屋からは一歩も出たくないくらいだった。
その風景を見ながら頭の中で今は亡き夕子の主人のことを思った。アンドロイドは個人情報は一切言えない。けれど前の主人は夕子に歌を教え、自らが歌手であったことを教えても構わないと承諾した。歌手であったことと、月で作った歌を夕子に残し、その他の詳細な情報を消し去った。自らを寂しさと幾分の優しさの残り香を漂わせて。
ほどなく夕子が台所から冷たい珈琲を持って来た。
「では歌は歌ってくれるか。前の主人が作ったという歌を聴きたい」
「それはいいですよ。待っていてください」
やや、伏せ眼がちに、立ったまま押し黙った。電脳の中の歌の情報を探しているのだろう。
珈琲を飲みながらしばらく待つとハミングが夕子の口からこぼれ、次第に歌声となり部屋に響いた。
歌詞は日本語でも英語でもフランス語でもロシア語でもなかった。もしかしたらスウェーデン語かもしれないしラドビア語かもしれない。ようは私の耳に馴染みのない言葉で歌われていた。歌詞の意味するところはまったく分からない。しかし一つ確かなことがあった。この歌は私の心に響いた。それは夏の薄月の夜に薫るように木々をへだてかすかに聞こえる歌のように、もしくは冬の木枯らしに研がれて尚、優しい姿を失わないつばきの蕾のように、私の心の琴線に触れた。
私は思った。
もしかしたら彼女は死後、歌そのものになりたかったのかもしれない。