表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/21

無形の遺言

夕子が話している時、ふと私から視線を外し、窓の外を眺めることがあった。それは長くカメラのレンズのような無機的な視線を受けることを苦手な人がいることを知ってのことだろうか。それとも欠陥品である自らを恥じているからだろうか。そこに私はある種の思慮を感じた。その思慮は機械の持つものではなく温もりすら感じた。この温もりを与えたのはおそらく前の主人だろう。私は私の前の主人に軽い嫉妬にも似たような感情を覚えた。

「人である私にはこう思える。君は悲しみの余り笑顔が作れなくなったのではないかと」

「いいえ。それはありません。九十三年間、稼動してきて、いまだ悲しみというものがどういうものなのか理解できません。彼女の死を認識できなかったのはおそらくそういう欠陥を抱えているからでしょう。これは改善されていません。月に大東亜工業のアンドロイドの整備工場はありませんし、専門家もいません。そして私は相当古い型です。修復は永遠に無理かもしれません。

そもそも笑顔に関してはまた別なことなのです。ただ単に前の主人が笑顔というものが嫌いな方でした。特に作られた笑顔を嫌っていたのです。いえ。嫌っていた、というより憎んでいたのかもしれません。私に自然な笑顔を作るように、と始終指導されましたが、結局、私に自然な笑顔を作ることはできなかったのです。ですから彼女と暮らしている間、私は笑顔を作りませんでした。そのせいか笑顔を作るということを忘れてしまったのです。その事と人の死を認識できない事に何か因果関係があるかもしれません。しかし、本当の事は分かりません。ただそういう欠陥を抱えた商品であることを知っていただいた上で使用していただきたいのです。そしてこの欠陥がお気に入りにならないようならば返品してください。今ならまだ返品はできるはずです」

「君の持っている欠陥とは、笑顔が作れず、人の死を認識できないということか」私は呟いた。「そうです。笑顔が作れず、人の死を認識できないのです」夕子はそれに続き同じことを言った。まるで大事な暗号を確認するように。

「さして問題はない。君を返品する必要性を感じない。そもそも私が死んだ後はどうにでもしてくれればいい。紅茶を運んでも構わないし、枕元で歌を歌ってもらっても一向に構わない。ただ私の方が腐敗して面倒をかけるかもしれないが」

私の言葉に彼女は無表情で頷いた。

「ありがとうございます。ご主人。では改めまして、これからよろしくお願いします」

そう言って立ち上がろうとしたが、何かに気が付いたのか、また椅子に座りなおした。

「もう一つ言い忘れてたことがあります。私はその欠陥を欠陥として認識していません。ですから自己修復機能も作動しないのかもしれないのです」

「私にもそれらの欠陥は欠陥に思えない。それはそれでいいと思える。見てくれこの珈琲カップの薔薇を。これはまだ私が文筆家として駆け出しの頃買ったものだ。しかも中古でな。もう五十年くらい使っているかもしれない。でもこの珈琲カップを捨てようとは思わない。見ろ、このくすんだ薔薇を。薔薇の花を五十年も埋もれさせていたら、あるいはこういう色になるのかもしれない。この風味は歳月をかけないとでないものだ。君はこの薔薇に似ている」

夕子は少しの間黙ったまま止ってしまった。その間、私は彼女がアンドロイドを止め、精巧な人形になったかと思うくらい微動だにしなかった。そして短い沈黙の後、こう言った。

「薔薇の花を地中に埋めると腐るのではないでしょうか」

「君はやはり機械なんだな」

彼女にどんな返事を期待していたのいうのか。私は笑った。月に来て以来、始めて笑ったかもしれない。



  ○



私はぬるくなり苦味が増し酸味がとんだ珈琲を飲みながら夕子の前の主人のことを考えた。彼女は元歌手で富と名声を手に入れていたらしい。そしてそのことにより不幸も味わった。私とはまったく違う境遇ではある。だがこの地で全てを終えようとしていたのだけは確かだ。どうしてこの地だったのか。火星から遠く遥か離れたこの地で人生を終えるのはどういう気分なのだろう。人は老境に入ると自らが長く住んだところから離れたがらない、という。けれど彼女は離れた。長く住んだ場所がなかったのか。いや、彼女が住んだ全ての場所は苦い想いでだけで満たされていたのかもしれない。それから逃げるようにしてこの地へ来たのではないだろか。そして夕子に会い、自らのアルバムを開き夕子に写真を見せ、自らの過去の想い出を語る日々。けれどその想い出は煌びやかで美しい想い出でもあるが、同時に暗く苦い想い出とも繋がっていたはずだ。それらを振り返る日々はどのようなものであったか。遠くこの地の果てのような月にまで逃げて来たはずなのに。夕子にそれを語る時、彼女は何を思ったのだろう。自らの心の内部ねじれさせてしまった過去は遠景として見るならば好悪を超えて美しい光の一つとして眺めることができたのだろうか。遠く赤く輝く火星をこの地から見上げるように。


夕子の元主人に対しての勝手な推論だ。彼女が何を思っていたのか、勝手に推論することは亡くなった彼女に対しての冒涜にも思える。しかし夕子が語った彼女の月での人生は何か自分の中に響くものがあった。夕子から彼女のことを聞けるだけ聞こう。夕子が個人情報をどれだけ伝えてくれるのか分からないが。


ノートパソコンに向かう。

やはりモズは最終的に冬虫夏草を愛するに決まっているのだ。


私は地球にいた最後の日を思う。長く住んだ我が家から全てのものを運び出した。家具も電化製品も写真も何もかも全てを売り払うか、捨てるか、月へと送った。ただ居間にある散乱した花束と落ちた花瓶だけは手をつけられなかった。畳は花瓶からこぼれた水のせいで変色している。それを私は拭く事もできない。なぜならそれは私の妻が生きていたときに最後に触れたものだから。これが我が家からなくなるときっと妻は完全に消えてしまうのだ。そんな妄想を抱いていた。

家は借家として売り出し、今はあの家は私の知らない誰に使ってもらっている。きっとあの花束も花瓶もすでに片付けられたことだろう。しかし、私の記憶の中であの家の居間にはいまだ花束と花瓶がそこにあり、畳はこぼれた水で変色したままなのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ