モズ
蛙は晴れ渡った空に悲哀を感じさせる曇天の気配を感じると、ふいにかいかい、と鳴いた。この声はたった一つの意味を持っている。「私はここにいます。貴女に会いたい」ただその一言だった。けれどその声の意味するところより、むしろ彼らは己の声に聞き惚れることがしばしばあった。しかも己と友輩の声をごっちゃにして聞き惚れた。隣に濡れた新緑ような肌を持つ女が通ったとしても、その歌声を止めることなく友輩と共に歌を楽しむ暢気な善良さを持ち合わせていた。
モズは地中の中でその声を聴き澄ませ、彼らの柔らかな手足が水にふわりと浮き、喉を動かせ超然と歌う声がその青い背の遥か彼方の遊雲に消える様を思い浮かべた。ふいに雨脚が強くなるとその声はいっそう濡れた美しい歌声として響いた。その彼らの歌声にモズは未来の自己の姿を写し胸躍る期待感を感じた。
その雨は夜間降り続き夜が明ける頃にようやくあがった。蛙の歌声も朝日が昇り晴天の気配を察して、次第に消た。どこか肌の乾かぬ水辺のねぐらに戻り惰眠を貪るのだろう。モズも想像の彼らの姿と自らを重ね合わせ、そっと目蓋を閉じた。その目蓋の裏の暗闇の中、身体の奥の方で何かが芽吹く音を聴いた。
○
私が執筆していると夕子が横から珈琲を差し入れた。私の執筆の邪魔にならない角度を考え、かつ珈琲が欲しい時を察してそっと置く。その気配りはとても機械の行為とは思えなかった。仮に珈琲が傍に置かれる時に彼女の関節から細やかな歯車の音が聴こえなかったらそれは人の行為とさして変わらなかった。そして新しいアンドロイドのように常時、人の傍らにいて指示を待つのではなく、常に小間使いとして私と一定の距離を保って家事や掃除をしていた。
珈琲が置かれると私は老眼鏡を外し、疲れた目を閉じた後、外を見た。窓からは空気草の草原が海からの風に青くそよいでいるのが見えた。
「ご主人、今日はいい天気です。車を洗ってもいいでしょうか」と夕子が私に言ってきた。
そういえば車を長く洗ってない。私は「洗ってくれ」と承諾した。
だが夕子は「分かりました」と言ったはいいが、すぐに外には出ずに私の向かいに座った。
「少しお話をしてもよろしいでしょうか」
「いいよ」
全ての動作が本物の人であるかの動きだが、そこには人でないものが存在した。最初、それに違和感を持ったが慣れてくると、造形美的な容姿も動きも気楽に会話をするための機微が含まれていることに驚いた。製作者の意図と長く人と付き合った人工知能の合わさったせいだろうか。
「あの車はいい車です。よい選択をしたと思います」
「君と同じ大東亜工業製だからか」
「そうです。自社製品ですし、私もあの車ももはや製造されていない古い型ですので、何か親近感のようなものを感じます。どうしてあの車をお選びになったのか聞かせてくれませんか」
「ただ燃費がよく走りがいい。銀色は少々の汚れは目立たない。そして車内が広めに設計されているのが気に入った。それだけだ」
「十分です。それが私たちの本来の選び方だと思います。よい買い物をなされました」
私たち、その言葉が私には違和感を感じさせた。車と彼女とは私にとって同一線上にないものだったからだ。しかし彼女は同じものだと思っている。こんなにも人に近い自らをただの機械だと、卑下でもなく実際にそう思っているのだ。無表情に語るその姿と感情を持たない声が何か悲哀のようなものを感じた。
「では」と椅子から立ちあがろうとした彼女に私は「待て、もう少し話をしよう」と呼び止めた。
「君は笑顔が作れないという欠陥があるそうだが。それはいつからだ」
「笑顔が作れないだけではありません。店員から何も聞いてないのですか。今ならまだ返品もできます」
「少々の欠陥があるかもしれないと聞いている」
「あるかも、ではなく、あるのです。確かにさして重要な欠陥ではないかもしれません。ですが私を使用なさる方なら絶対に耳に入れておくべきです。今からお話しますからよく聞いてそれから返品するかこのまま使用するか決めてください」