白鷺
月に住んでから真夏を三回ほど経験したが今朝のような濃い霧を見たのは始めてだった。
窓を開けるとどこまでも白い霧が世界を覆いつくしている。私はその情景を見ながら珈琲を淹れた。月に気の利いた銘柄の珈琲はない。店の方でも珈琲売り場には二、三銘柄の安いインスタントが申し訳なさそうに置いてあるばかりだった。一応全ての銘柄を試したがそのどれもあまり代わり映えはなかった。お湯を沸かしてお気に入りの珈琲カップに注ぎ、眠気覚ましに一杯を飲んだ。
珈琲自体はただの安物の即席物だが、珈琲を飲むという行為はただ珈琲を飲むだけではない。そこには風景があり、においがあり、心象が横切るものだ。それらを引き立たせてくれるのが私にとってお気に入りの珈琲カップだった。
この珈琲カップはまだ私が若い頃、中古品として購入したもので白磁に薔薇の花と蔦が描かれたものだったが、今ではその薔薇の花も赤くはなくどこか赤茶色に枯れた色合いになり、白磁の底は長年珈琲カップとして使い続けてきたため薄くセピア色に染まっていた。そのさびれた様子が逆に私の心を惹いて止まない。他人の目にはこのカップは古びたカップに見えるかもしれない。しかし、私にとってこのカップに描かれているものは少年時代に美しいと心に刻まれた薔薇の花だった。あの時見た花も蔦も私の心の過去に残っている風景と同じく今この手の中に色あせ掠れて残っているのだ。
外の霧を眺めながら珈琲を飲み、時折カップを持った手に色あせた薔薇を感じる。そこには独自のサビとにおいがあった。サビとにおいを追い求めるのが茶道や俳道の奥底らしい。知識としてそれらは存在していたが、それを心底楽しむ作法を学ぶことなく今にいたる。しかし、このサビとにおいは私に安らぎをもたらしてくれている。そもそもそういった作法や学問を学び、その道の深遠を見てしまったら、こんな安物のサビとにおいでは満足できなくなっていたかもしれない。結局、私はどういうものでもいいから私自身にあったものがあればそれでよいのだ。飽きずに私が感じる事のできる価値があればそれでいい。即席の珈琲と中古の白磁、それに飽きが来ないし、充分に生きた価値をもっている。
ふと外を見ると家の隣にある潟とも池とも呼べない水溜りに一羽の白鷺がゆっくりと深い霧の中から現れた。そして辺りを見渡しながら何か忘れ物でも探るように水の中へくちばしを刺していた。その様子を私は見ながら珈琲を飲み終わった。ふと、この高原の朝の澄んだ空気を思わせる霧を遮断している窓硝子が厭わしくなり白鷺を脅さないようにゆっくりと開けた。しかし、窓は軋んだ音を立て、その音に驚き白鷺は濃霧の大気を鷲掴むように大きく翼を羽ばたかせ、再び霧の中へ消えていった。
○
私は作家だった。
作家というには語弊があるかもしれない。作家というより売文家と言った方があっている。ただ文章を売り物にしていた。常に文章を前に考える事といえば、この文章をどうしたら人は読んでくれるのか、また手に取った人をどう楽しませるか。それだけだった。若かりし頃は情熱を持って書いていた。私は今の世相を鋭く切り取りった小説を書き、読んだ人の中に感動を呼び起こし、読者に自らの盲目を気付かせ、心を啓かせ、この世を変えるだけのものを書くのだと。しかし、職業として物書きとなると文学というものには程遠く、ただ生活のために、いかに売れるかしか考えなくなっていった。職業として書くのだ。当たり前のことといえば、当たり前のことだろう。しかし、ある時一抹の情熱すらなくなっている自分を発見した。しかし私はその発見により落胆するわけでもなく、ただその現実を眺め「仕方ない」と割り切れた。その時はそのまま過ぎていったが、よくよく考えればそれが転機だったのかもしれない。その時私は最後に再び情熱を持って文に望む最後の機会を失い、ただ売るための文を書くことになったのだ。
そうして今、月に来て年金暮らしをするようになってから再び筆を執った。
今は誰に読ませるわけでもなくただ自らのために執筆をしている。朝食が終わるとテーブルにノートパソコンを置き執筆を開始した。書いている物語は冬虫夏草を身に宿したモズ(蝉の幼虫)の話だ。
モズは幼い時に冬虫夏草に寄生されていた。自らが成長する度に身体の中から冬虫夏草の菌糸が張り巡らされていく音を聴く。モズはその音が好きなのだ。自らは蝉となり夏の降り注ぐ太陽の下で歌を歌うことはできないと悟り、その冬虫夏草を愛する。