同調
「ここは私を受け入れてくれた。この月はまもなく人類から放棄され、元のレゴリスの沙漠となるだろう。私はここで死ぬ。月も私の後を追って一緒に終わってくれる。未練はない。けれど死期を悟ってもいつも疑問に思う事がある。何故、妻は死ぬ前に花束を買ってきたのだろう。特別な日でもないのに居間に花束を飾ろうとしていた。私に買ってくるように頼んでも良かったのに。病に冒され弱ったその身体で外に出て歩いて買いに行った。何故だ。それが分からない」
夕子が幽かに笑ったように思えた。風に吹かれ彼女の髪がなびいて顔を隠す。その髪を彼女が手で押さえた時には彼女の表情はいつもと変わらなかった。そして雑音が混じった声で「聞けばいいのです」とはっきりと言った。
「奥様に聞けばいいのですよ。あの時、何故花束を買ってきたのかを。……そういえば奥様はどうなされたのですか」
雑音はいつもより強くなっていた。いよいよ夕子の電脳に記憶障害が出ているようだった。私が先ほど話したことを忘れている。いや、彼女は私が購入した日から人の死を認識できなかった。人の死のことを話してもそれが永遠の別れだとは認識できないのかもしれない。しかし、その雑音の混じった声は今まで聞いたどんな励ましの声より温かかった。
「妻は」
死んだ、と私は言い掛け、言うのを止めた。「お悔やみ申し上げます」とあの夏の夕暮れ、永久影で夕子が私に言い、私がその言葉に怒ってしまったことを思い出した。夕子はそう言うしかないのだ。それが彼女の機能なのだ。そして「お悔やみ申し上げます」と言っても夕子は人の死を認識できてはいない。
「妻は本当にどこへ行ったのだろう。どこにもいないのだ。どこか遥か遠くへ行ってしまった」
自然に言葉が出ていた。本当にそうなのだ。遠くへ行ってしまって姿も見えない。声も聞こえない。
「そんなに遠くへ行ってしまったのですか。では奥様宛てに今の気持ちをできるだけ正直に書いた手紙をください。私がその手紙を持ち奥様に聞いてきます。花束の理由を。そして連れて帰ってきます。ご主人と奥様は一緒に暮らすべきです」
「そうか」
夕子の話に合わせ私は話す。
「そうです。どれだけご主人が奥様を思っているのか、私はずっと見てきましたから。それを逐一報告します。それに居間に花を飾る人に寂しい人はいません。きっと嬉しいことがあったのでしょう。何か特別なことがあったのかも」
「特別なことはなかった。ただその日は空がどこまでも青く晴れてた」
「そうですか。奥様はご主人を思っていたのですよ。客間でなく居間に花を飾るなんて、きっとご主人に見てもらいたかったに違いありません。私が奥様に会ってきますね。機械なら旅費も安くなりますし、奥様は今、どこで暮らしているのでしょう」
夕子の言葉に晴れ渡ったこの空がそのままそっと私の胸の中へ入ってきたような気がした。胸に入ったその澄み切ったものが、ふいに目から溢れた。視界が涙で曇る。
「さぁどこだろう。火星かもしれないし、エウロパかもしれない。地球のレニングラードかもしれないし、ウズベキスタンかもしれない。もしかしたらブエノスアイレスかもしれない。もっと遠くかもしれない。人類が見つけた太陽系外の新天地より遠いかも。それとも、もしかしたら……もしかしたら、ずっと近くにいるのかも」
私が話終え、しばらくして夕子が小刻みに震えながらこめかみに右手の中指と人差し指を触れた。震えというより振動に近い。「大丈夫か」と私の声を手で制し、何か機械にしか感じる事のできない苦痛のようなものと戦っているようでもあった。しばらくしてその振動がおさまった。
「私は」その声は、声に雑音が混じるのではなく、雑音の中に声が混じっていた。
「今、私はご主人と会話ができているのでしょうか」
「できている」
「それはどの程度でしょうか」
「人並みに……いや、人以上に。温かく話しているよ」
「よかった。お願いがあるのです。……歌を歌わせください」
「いいよ。聴きたかったところだ」
いつもより長い静止の後、雑音の混じったハミングが聴こえ始めた。
夕子の前の主人が夕子にあげた歌だ。題名はfelica。エスペラント語で「幸福」を意味する。歌詞の内容は分からない。調べたところでは最後にこの言葉が多く使われたのは火星開拓時代のようだ。当時、火星で英語を世界共通語として当然視してしまう姿勢への反発があり、国と国の境をなくし、地球を離れ人類として生きるという意義について考えた人たちがエスペラント語を習得したらしい。
もしかしたらと思う。夕子は一切、嘘を言ってないのでは、と。何故かそう思った。前の主人は夕子を思い、夕子は前の主人のことを思っている。そうだ。思っているとしか思えないのだ。目の前からいなくなった前の主人のことを知って欲しかったのではないか。誰でもいい、前の主人の孤独を少しでも分かって欲しかったのではないのか。ただ機械の規則として嘘を言わなければならないから、嘘を交えた、と言っただけなのではないのか。この歌を聴いているとそうとしか思えない。夕子には確かな心がある。なぜなら雑音が混じったこの声すら私の心を動かす。そして動かされた心は行き場をなくして、涙となって溢れてゆき頬を伝う。
この歌を歌い終わったら夕子の全てを終わらせてあげよう。このまま壊れていき、いつか前の主人に対しての思いも失うまで壊れるかもしれない。このまま壊れてゆく夕子を見ているのは辛かった。
夕子は「felica」を歌い終わる。歌の余韻を感じながら私は夕子の後頭部に手を触れようと手を伸ばした。しかし私が手を伸ばすより先にそっと夕子が後頭部の髪を上げた。そして普段は内臓されている操作盤が夕子の後頭部からゆっくりと出てきた。
「お手数かけます」
私は呆気に取られた。
「分かっていたのか」
「なんとなく感じてました。そして……本当は自分で押したかったのです。ずっと前から押そうとしていました。本当にずっと、ずっと前から。ご主人と会う以前からずっと。前の主人の姿が見えなくなってから……でも、できませんでした。私の中にある原始の電子算譜がそれを拒絶し、命令するのです。動けと。ですがもう疲れました」
私は何も言えず立ち尽くした。夕子の気持ちとまるっきり同じ気持ちを私は感じたことがあるから。