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涙色

モズは地中で気だるく横たわった。苦しみや痛みは依然、身中を駆け巡っているがその痛みを逃すためにのたうつ体力も気力も残されていない。冬虫夏草が身体を蝕む行為にモズは抵抗する術はなく、ただ身を任せる他ない。この自分に対して理不尽で無関心なこの世を恨む気持ちも心の奥底に沈殿し、ただ心は身中の痛みを虚ろに見つめていた。そこに救いはあるのか、私が聞くと、無いとただ一言、答えた。救いが無いのならいっそ舌を噛んで果てれば、あるいはもう少し楽になれるのではないのか、私は再び聞くと、それではこの冬虫夏草が可愛そうではないですか、と苦しそうに口の動きだけで私に伝えた。


思考にもやが立ち込めている。心情とか、身体とか、顔とか、風景とか、おおよそ文章に表すことができないものが靄となって文章の中に立ちこめてモズを掻き消してゆく。この靄のせいで書き続けられなくなるが、この靄を心の中に留めているとある時期にこの靄がはっきりと形作られ、ぴたりと小説の中に組み込まれてゆくことがある。この靄の正体を探る時間というものが必要らしい。はっとした閃きのようなものは小説の中に簡単に作用してくれるが、その閃きは文章の中では彩色は淡い。けれど靄が時間をかけて形作られるとその性質は深度を増し、色合いも鮮やかになる。今は靄の中へモズは消えていった。しかしこのまま永遠に消え去りはしないだろう。彼は戻ってくる。その時、彼は私に語ってくれるはずだ。


モズは冬虫夏草を愛さなくてはならない。



  ○



ノートパソコンを閉じるのと珈琲が運ばれてきたのと同時だった。私と同じ目線で夕子がいた。「珈琲をお持ちいたしました」丁寧なお辞儀だった。機械のそれでもなく、人のそれでもない丁度、中間に位置するお辞儀。このお辞儀はいつもの夕子のものだ。しかし声には雑音ノイズが常に漏れるようになっていた。夕子はいつまでこのお辞儀をし、いつまで珈琲を運び続けてくれるのだろう。私は夕子から視線を外し、受け取った珈琲を飲んだ。いつもなら私が何も言わなければそっと立ち去る機微を見せる夕子が今日はどういうわけか立ち去る気配も見せずそのまま黙って立っていた。

「どうした」と私の声に「私は役に立っているのでしょうか」と夕子は私を真っ直ぐに見つめて答えた。

「立っているさ」

「そうですか。けれどご主人はお年を召しています。いつか足腰が立たなくなります。その時のために私と私が今、使用している車椅子を購入されたのですよね」

私は夕子から視線を外し、珈琲を飲んだ。私の頭の中で様々な考えが浮かび、消えてゆく。初期化をして夕子の性能が戻ったとして、全てまっさらになったアンドロイドは果たして夕子だろうか。彼女から全てを失わせることは私にはできない。けれどそれを夕子が望んでいることだったならばどうだろう。そんな思考は言葉として形作れることなく虚しく時は過ぎて行った。私はついに夕子と話すことを放棄し、そのまま黙ってしまった。その間、夕子は黙ってそこにいたが、私が何もこれ以上言わないと悟ったのか、場を外して台所で晩御飯の用意をし始めた。


ふとこの答えの出ない思考の内からまるっきり新しいもう一つの選択肢が出てきた。

それは枯れた花束の景色と共に私の思考からふいに浮上してきた選択肢だった。


夕子を終わらせてあげよう。

彼女の後頭部の髪をかき上げ、そこに隠された操作盤コントロールパネルを出し、スイッチをオフにしてあげればいい。そして永遠にスイッチを入れなければいいのだ。そうすれば彼女は前の主人の記憶と共に永遠にそのままの姿でいられる。私が死に、この月が人類に放棄されて再び元のレゴリスの沙漠となっても彼女は夕子のままでいられる。


珈琲を飲んでいる時に口の中のできものが爆ぜていた。皮がめくれていて、舌で触れると染みるような痛みを伴った。老いて薄くなった粘膜は容易に細菌類の侵入を許してしまう。私も衰えつつある。衰えを感じるとその衰えがどこに行き着くのか考えた。私ももうすぐ居なくなるのだ。一切が終わってしまう。私がいなくなった後の夕子のことを考えた。誰もいなくなったこの部屋でこの場所に毎日、珈琲を持ってくる夕子の姿を思い描いた時、その心の内に映った残酷な景色を見て思わず目から涙が流れ落ちた。私は決意した。





冬は終わり、風は日増しに温くなっていった。空気草の草原には確かに生命の息吹が感じられた。いつか見た蝶はもう何の躊躇いも無くこの草原を飛びまわっているのかもしれない。その陽気と静かにたゆたう海を眺めているとこの春がいつまでも続けば良いと無責任に思ってしまう。

「いい陽気だから外へ散歩へ行こう」

私の誘いに夕子は相変わらずの無表情のまま頷く。私は夕子の車椅子を押して海へと出かけた。

見晴らしの良い場所へと立って海を眺めた。風は海から吹いていたが寒さはもう抜けており、海辺の草花もその風に揺られ、静かに首を振っていた。空は冬雲を吹き飛ばし青を深く濃く染めあげ、その向こうにはさらに青みの増した地球が半球となって海からぽっかりと顔を覗かせている。

「そういえば私がどうして月に着たのか話していなかったな」

「そうですね。どうしてここに来られたのですか。皆さん去って行きますのに。それにあと十数年でこの月は放棄される予定ですよ」


「それだから来たのだ。私はここで全てを終わらせる。

ここに来る前、私は妻と暮らしていた。いい夫婦とはいえなかったかもしれない。どこか常に亀裂があった。お互い気持ちは通じていたと思うのだが、その亀裂が何かお互いの思いを阻んでいるようだった。君の前の主人と同じだ。それはねじれにも似た関係だった。素直に受け取るべき言葉を受け取れないような、それでいて私は妻を思っていた。妻はどうだろう。分からない」


話している内に過去の記憶が戻ってきた。老人は過去のことばかり話すというが、この年になって何故か分かった。未来が無いからだ。未来が無ければ必然的に過去のことを話す。未来へは行けない。過去には戻れる。そんな私の回顧など気にせず現在は春の陽気に包まれていた。


「その関係は過去に由来する。私のあやまちだ。悔いても悔い切れない思いに駆られて生きてきた。私たちの間に子供はいなかった。そのせいもあるかもしれない。だが本当のところは分からない。さっきから『分からない』としか言ってないな、私は。しかし本当に分からない。妻は病気で死んでしまった。しかもその病気を私に隠して」


死んだ妻を抱き上げると酷く軽く感じた。その軽さは病気により消耗し、削り取られつくした身体の重さに感じた。その妻の下には百合の花の白を映えさせる多くの色とりどりの花々が鮮やかに落ちていた。


「遺書はなかった。妻の死後、私は抜け殻だった。そして私は妻に何をしたのだろう、と思ってばかりいた。妻にとって私は過ちを犯し、亀裂を作り、信じられない夫だったのだろうか。それなのに離れもせず一緒にいてくれたのは何故だ。何もかもが嫌になった。あの時……」


卓袱台に乗せた骨壷を入れた桐の箱に向かって私はどれだけのことを話したのだろう。

お茶が冷め、とりとめもなく桐の箱の中の妻に向かって話し続け、辺りが暗くなり、どうして妻から返事が無いのか不思議だった。暫くしてそのことを思い出した。私は呆然とし、そのまま寝床へついた寝床へついても眠りにつけず、部屋の壁を見つめていた。どれだけ時間が過ぎたのだろう。次第に朝日に照らされて明るくなってゆく壁をじっと見つめていた。


「せめて雨でも降ってくれたら。妻が死んだ時の空の青さは今も目に染みて残っている。雲一つないさわやかな青空だった。まるで腕の中の妻の死など無関心で、何事もなかったように青く澄み渡っていた。妻の死後、何事もなく、妻が存在したことすら忘れ去って過ぎてゆくこの世界。それが嫌になってここに来た。ここから地球を見下ろしてやった。ふいに涙がこぼれた。今まで悲しいのに涙すら出なかった。ここに来て始めて泣いた。……地球も宇宙も私の涙色に染まってくれた。

そして、ここに来てから病に倒れた。私の身体は妻と同じ病が巣食っている。もう私も長くはない。世界はまるっきり無関心ではなかった」


夕子は無表情なまま私の声に耳を傾けていた。

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