車椅子
車の鍵は私が常時持ち歩く事にした。欠陥が夕子の認識を狂わせ、昔いた家へと向かわせたとしても私が鍵を持っていれば車は使えない。そう遠くへはいけないだろう。万が一の時を考え、夕子に昔住んでいた家のことを聞いたが、個人情報は答えられない、という機械らしい返答が返ってくるばかりだった。
しかし、その機械らしい言動と普段の仕草との差異がある。前の主人の愛され続けて生活して、さらに行動について逐一指導されてきたためか、僅かな行動が常に人のそれだった。人の行動、仕草にはその人の感情が見て取れるものだ。夕子はそれを習得していた。彼女の動きに明らかな感情を感じる。
あれからというもの夕子の無表情が時として悲しんでいるように見えた。眉目に含まれる心情はどう見ても悲哀のそれだった。私と相対している時にはそれは見せないようにしているようだった。しかし、家事をしている時、悲哀を盗み見たとき、私は私が言い放った一言を思い出し、胸が痛んだ。彼女には前の主人の想い出を常に胸に抱いていて欲しいと望んでいる。しかし、一方で欠陥により壊れていく夕子を見るのが辛かった。それはいまだ妻の死を引きずっている私と同様だからだ。
機械は感情を持たない、という。けれど私にはもうそんなふうに思えなくなっていた。
「なあ、あの時はすまなかった」
「初期化のことですか。それで私の性能が戻るというのであればやってもらっても構いません」
「もういいのだ。君の機能は今の性能が一番優れている。ただ少し人間臭いだけだ」
「人間臭いとは」
「時々、亡くなった最愛の人を思い出す。そうすると何も手がつかなくなって出かける。……そんな君の存在が私になくてはならないものだ」
「その言葉に少し気障な印象を受けます」
「物書き商売だったから仕方ない」
「そういうものなのでしょうか」
私は欠陥や機械に関しての話題を避け、人と対応するように心がけた。
機械らしい受け答えをさせないよう、人らしく返答するように夕子の言葉を誘導した。
冬中、外にあまり出かけず家の中でそれを繰り返した。
それが悪かったのか、それとももう手遅れだったのか。夕子が何か考える時、こめかみに中指と人差し指を触れさせ俯く時間が長くなっていった。
程なく、車の鍵を私が持っていなくてもよくなった。
春の朝、台所から陶器が割れる音がした。卓上からお盆を持とうとした時に手を滑らして転んでしまった、と夕子は言った。それ以来、夕子は歩けなくなってしまった。電脳は致命的に狂い始めていた。私はどうしていいのか分からず、とにかく夕子をソファの上に座らせた。
「今、私が修理できるところは修理するから」とネットを検索し、自分でできるところまでやったが、いかんせん、前時代の型のアンドロイドで部品もない。もっとも足の部品に故障はみられなかった。原因は電脳だ。しかし、原因は分かってもそれをどうしようもない。その間、夕子はソファに座り、あの長く考える仕草で微動だにせず下を見ていた。瞳は光を失い、どこも見ていない。おそらく電脳の自己修正機能を作動させているのだろう。
「異常ありませんでした」
再び瞳に光を宿し、私の顔を見て言った。しかしその声に僅かに雑音が混じっていた。私は、真っ暗で底が見えない深い谷底にいきなり後ろから突き落とされた気持ちになった。
「すまない」掠れて消え入りそうな声で夕子に言った。
何が悪かったのか分からない。初期化すれば良かったのか。だが、そんなことをしたら夕子を愛した前の主人の思いを無駄にするばかりか、私自身を否定することにもなる。歌も光も温かみの悲哀も彼女の全て無駄になってしまうのだ。
「すみません。足からの反応がありません」夕子は私の声が聞こえなかったのか私に謝った。謝るのは私の方だ彼女はあるがままに存在するだけだ。間違いを正せなかった私に責任がある。
○
足の動かなくなった夕子は私が以前、介護用品専門店で買った車椅子に乗せた。その車椅子で家事をする。家事やトイレなども座ってできる車椅子。そういう商品を選んだのだ。私が動けなくなったときのために買ったはずだった。それが今、同じ店で買ったアンドロイドが座っている。酷く間違っているように思えた。
車椅子に座って常に上目使いに私をみるようになった夕子の表情に深い翳が横たわるようになっていった。
「なぁ夕子、君にとって幸せとは何だ」
「貴方の生活のお手伝いをすることです」
felicaは遠のいて行く。
けれど私は暗闇の中で光を求めて必死に足掻いていた。