桐の箱
夕闇はとうに過ぎ、窓からは硝子越しに冬の寒空に星が煌いていた。寒気が家を覆い、壁と暖房の温かな空気越しにも冬の寒気を感じる。その中で一向に帰らぬ夕子のことを考えた。あの白く冷たい指がこの寒気の中で更に冷たくなる。身体の末端からやがて深部へ。彼女は全く意に介さないだろう。
私は年老いた。私の時間はもう残り僅かだというのに、何故かこんなにも時間が多く感じてしまう。時間が間延びし、全てがゆっくりと進んでゆく。時計の針は急に鈍く感じられた。ついこの瞬間にも玄関の扉が開く妄想を抱いてしまう。
夕子がどこへ行ったのか分かる。けれどそれがどこなのか分からない。
「笑顔が作れず、人の死を認識できないのです」彼女が大事な暗号を確認するように言った言葉を思い出す。そうだ。彼女は「人の死を認識できない」のだ。彼女はまた壊れた。唐突に何の前触れもなく。きっと今、私の名を忘れ、前の主人の家にいるのだ。きっとそこは誰も暮らさなくなった廃屋だろう。そこに着いた夕子は廃屋の掃除をするのだ。どうしてこんなにも埃にまみれているのか考えもせずにいつものように無表情で仕事をこなす。そして晩御飯の時間になると台所へ向かい、料理を始める。しかしそこに食材も調理道具もないことを知る。彼女はその時、前の主人に習った仕草で中指と人差し指をこめかみに触れるか触れないかの位置に置き、うつむき考える。長い時間をかけて電脳の隅々から情報を取り出し、整理してゆく。その時、私の名を思い出してくれるだろうか。それともそのままじっと動かなくなって、この寒空の下の廃屋の中で氷の彫像のように停止してしまうのだろうか。
寒気が身に染みてこないように上着を羽織った。
夕子のことはあくまで想像だ。本当のところは分からない。事故だろうか。事故なら連絡があっても良さそうだが、電話は音を立てず、ただ古びた置物のように卓上を飾っていた。警察に連絡をしようか、とも考えた。しかし、もし万が一夕子に欠陥があるのがばれたらどうなるだろうか、と考えると連絡する気にもならない。警察は認識能力が低く、主人の名を間違えるようなアンドロイドは完全に直すように指導するに決まっている。彼女のことを何も知らず、初期化させ、それでも直らない場合は容赦なく破棄させるに違いない。今はただ待とう、と思った。夜が空けてから探しに行こう。私は立ち上がり珈琲を淹れた。どうせ今夜は眠れない。
椅子の背もたれに深々と腰を下ろした。本を読んでも集中できず、音楽もただ耳障りな音に聴こえるばかりで何の慰めにもならない。ただ無感動に白い壁を見つめ、私にとって重要なものがまた致命的に損なわれてしまうかもしれない状況を想像した。いつもそうだ。何も分からずじまいで何もかも終わってゆく。
何故、花束だったのか。遺書も残さずに。
私は妻と一体何年共に過ごしてきたのだろう。間違いでできた亀裂はどこまで深かったのだろう。分かり合えていると感じていた時間は妄想だったのだろうか。何も分からず、ただ傍にいた。それは夫婦生活といえるものなのだろうか。未知の相手と生活を共同し、枕を並べて眠る人生は、ただ単にお互いが傍にいて、そのまま年老いただけの人生だったのだろうか。
白い壁を長く見つめていたためか目が疲れたので、深く目を瞑った。花束と花瓶が居間の床に転がっている。畳は花瓶から漏れた水で変色していた。妻は私の腕の中で何もかも終わらせていた。
私は思わず立ち上がってクローゼットから勢い任せにコートを引っ張り出すとそれを上着の上から羽織った。そして玄関へ来た時に玄関の戸が開いて、夕子があらわれた。
「馬鹿野郎」
開けっ放しの玄関の向こうの空気草の枯れ野まで私の声は響いた。その後何を言ったのか分からない。ただ怒鳴っていた。冷たい空気が玄関を満たし、その空気が私の肺に入ってきて咳き込むまでずっと怒鳴っていた。夕子はその声にやはり無表情に俯き、私の怒声が止むのをじっと待っていた。
「いたか」
私は肩で息をしつつ、夕子に聞いた。その声はしわがれていて、喉が痛んだ。また私は少し咳き込んだ。
「いませんでした。どうしたのでしょう。どこにもいないのです。こんな寒い時に一体、どこへ」
「君の前の主人は死んだ。死んで全てが無くなったのだ。寒さなんぞもう感じない。お前の最愛の人はもういない」
自分の言葉に花束と花瓶が落ちている居間を思い出した。その花はもう枯れ果てていた。家の家具は売るか新居に運ぶ手続きをした。家の中は私が慣れ親しんだ雰囲気を僅かに残して、新しい住人の訪問を待っているようでもあった。しかし、枯れた花があるその一角だけは妻の最後の証として手付かずに残っている。
「何故泣いているのですか」
妻は私が片手で抱こうと思えば抱けるくらいに軽くなって帰宅した。もう私に病気を隠す必要もなければ、苦しむ必要も無い。「お茶でも飲もうか」と私は卓袱台に座り、妻に言った。そして湯のみにお茶を入れ妻の前に出す。私はお茶をゆっくりと味わって飲みながら想い出話を話した。時間が過ぎゆくのを忘れて。話終わっても妻の前に出されたお茶は一向になくならない。「どうした。お茶、冷めたぞ」私は桐の箱の中で骨だけになった妻に話しかけていた。
夕子の言葉に思考が鈍る。夕子の前の主人を思い慕う姿を見るたびに昔の自分を見ているような気がしてきた。心が散り々々になり、眩暈すら覚えるほど均衡を失い、言葉が口から出てた。
「君の欠陥を直す方法がある。初期化だ。今までの記憶が無くなり、前の主人の記憶も歌も無くなるがどうする」
「ええ、それで欠陥が改善されるのであれば……」
「言うな。お願いだ。それ以上言わないでくれ」
私は夕子を抱きしめ、縋るように泣いた。
また人を傷つけた。決定的に。その傷はそのまま私の胸を裂いていた。