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夕子の手を引いて車に乗り急いで町へと向かう。車に乗るといきなり雨脚は強くなり、遠く秋雷が聞こえた。私はワイパーが車窓の雨水を切るのを忌々しげに睨んだ。夕子は助手席で黙って座っている。こめかみに右の手の中指と人差し指を触れるか触れないかの位置で止めて目を伏せていた。前の主人に指導されたという熟考する時のしぐさだった。雨音が車の中に響かなければ彼女からかすかな機械音が漏れているに違いない。なぜこうも熟考しなければならないのか分からない。彼女に聞いたことはただ「私の名前が分かるか」の一言なのだ。


町へと車を走らせる中、雨音にまぎれて搾り出すような夕子の声が私の名を言い当てた。私はその声を空耳かもしれないと疑ったくらいか細い声だった。夕子はこめかみに触れていた手をゆっくりと腿の付け根へと下ろし、目を車窓へと向けた。その視線の先には雨に叩かれた硝子窓があるだけだ。しかし、彼女の視線の先には雨に叩かれる窓以外の何かがあった。無表情の彼女からは何も推し量れない。ただ、しばらく私の名を口にした後、彼女は黙り込んだ後「何故、こんなにも単純で深刻な失敗をしてしまったのでしょうか」と私に聞いてきた。私は「君のような複雑な機械にはたまにあるものだ。しかも複雑な経験もしている。複雑でない単純な失敗でよかったではないか。でも一応心配だ。君を買った店へ点検してもらおうと思う。何も無いと思うが」と平静を装って答えた。この言葉に励まされたわけではないだろうが彼女は「町へ行くのですか。それならば」と普段通りに家に今不足している物を買足そうとごく普通に私に提案し、私はその話題に乗った後、「紅茶の茶葉も買足そう。今朝の紅茶は即席ものだが美味しかった。毎朝、飲むことにしたい」と言った。彼女は「分かりました」とただ頷いた。


無表情が恨めしかった。

もし笑顔の一つでもあればいいと思う。よくよく考えれば彼女は機械で感情を持たない存在だ。けれど彼女の表情の無い顔の中に感情らしきものを感じる時があった。複雑な電子算譜プログラムの雑音のようなものかもしれないが、それは私の目に確かに感情として映った。それは常にかすかな寂しさのようなものであった。僅かな喜びも含んでいる時も感じられる時もあった。しかしその全ては彼女の過去に深く結びついているように感じられた。その彼女の持つ寂しさと同様のものを私は自らの心の内に持っている。


車を運転しながら心配になって横目で一瞬、彼女の横顔を見た。その顔は妻の顔と似ていた。造形的な玲瓏さをもった容姿と年老いた妻とは似ても似つかないが、その常に帯びている気質とか感情のようなものが酷似しているように感じられた。運転のためにまた前を向いて運転する。雨脚は弱まり、しとしとと弱く小さい水滴が車窓を濡らしていた。その水滴とそれを切り流すワイパーを見ている内に夕子の横顔と妻の横顔が重なって見えた。あの時、妻の横顔が思い出された。



  ○



妻が夜中、青白い顔で病院へ連れて行って、と私を起こした。具合が悪いらしい。確かに最近妻は発熱することが多く、身体が弱っていた。風邪を悪化させたらしいと聞いていた。私は慌てて電話をするとすぐに受話器に受付の人が出て、容体を聞いてきたので、私は妻にどんな容体かを聞いた。しかし、妻は私から電話を奪うと何やら小さな声で主治医の名を出し、今から緊急外来の方へ行きます。と言い半ば一方的に電話を切った。お互い寝間着のまま、妻にはコートを羽織らせ、一刻でも早く、と車に乗り込んだ。私の家は総合病院から近く、歩いて五分のところに位置してた。それでも青くなった妻の顔をみると気が焦った。道を急ぐと病院までたった二つの信号というのにその一つに足止めされた。私は妻の容体が気になり横目で妻を見た。信号機の赤い電灯が彼女の顔を赤く染めていた。その赤く染まり何の感情も表してない顔が何か不安感を煽らせた。「大丈夫か」私の声に「ええ」と一言答えたきり、他は何も言わなかった。


病院へ着くと緊急外来は私たちの他に咳き込む赤ちゃんを連れ、心配そうに話あっている夫婦と死人のように青い顔の男。そして椅子に座りじっとリノリウムの床を凝視し、忙しなく貧乏ゆすりをして何かを待っている男がいた。妻は受付の人に自分の名を出した。受付は全てをは了解しているらしく妻は待たずに病院の非常口の緑の光が照っているだけの暗い通路の奥へと案内されていった。その時は妻が昔、この病院の事務職をしていたので融通がきいたので待たなくてもいいのでは、と暢気に思っていた。私は椅子に座って妻の帰りを待った。

他の人たちも次々呼ばれて何か薬や応急処置をしてもらって帰って行った。ただ私と床を凝視している男とが残された。やがて一つの部屋の扉が開いた。マスクをした医師が出てきた。それと同時に先ほどまで床を凝視していた男が飛び上がらんばかりに医師の方へ歩む。医師の目は躊躇っていた。明らかな戸惑いと後悔を目に写しながらマスクを取って「残念ですが」とうな垂れながら言った。一瞬時間が止った。私ですらその意味することが分かった。「奥様は交通事故で」医師も言葉が続かない。言葉も時間も人もここに存在した全てが立ち止まった。その全てが止ってしまった空間で最初に動いたのはやはり医師だった。言葉もなくそこにいながら抜け殻のようになってしまった男を部屋の奥へ促す。医師と私は目が合った。私はただ頭を垂れた。医師も軽く目を伏せた。


その時、妻が薬袋を持って暗い通路から戻って「何があったの」と聞いてきた。私は「ちょっと容体の悪化した人がいたみたいだ。よくなるといいけど」と言った。何か不穏な出来事を具合の悪い妻の耳に入れたくはなかった。妻も「そう」と一言言ったきり何も言わなかった。「それより具合は」と私が問いかけると「点滴してもらったから大丈夫。後は家でゆっくり休む」と気だるそうにしていた。


その三日後、妻は居間で倒れた。何故か花束を買ってきて花瓶に入れる途中だった。花束も花瓶も妻も畳の上に転がって一緒に動かなくなっていた。思わず妻を抱き上げた時、何もかもが止ってしまった妻の身体の感触が今でもこの腕の中にあった。

私は妻が深刻な大病を背負っていることなど知らなかった。そして妻は遺書すら私に残してくれなかった。



  ○



「君は」私は夕子に言いかけた言葉を飲み込んだ。

「どうしたのです」聞き返してきた夕子に私は「なんでもない」と取り繕った。

君はどうしてそんな顔をしているのだ、と聞いても返ってくる言葉は想像できた。彼女は人ではない機械なのだ。妻のあの顔を思い出す。どこか夕子と繋がっているような表情だった。もし夕子に感情があればきっと妻と同じことを思っているに違いない。


一体君たちは何がそんなに悲しいのだ、と心の中で夕子に聞いてみた。

夕子は九十三年稼動してきましたが悲しみという感情をいまだ知りません、と答えた。

そう答えて欲しくは無い。だから聞かないのだ。

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