欠陥品
生活の大半は家事をして過ごした。掃除洗濯をしたと思えば、買い物に出かけた。それを夕子にさせることもあったが大抵のことは自分でやっていた。まだ身体の動くうちは自分でやらなければならないような気がしていたからだ。そのせいで手持ち無沙汰になった夕子が部屋々々を周り、何か仕事がないか探している姿は原始的な電子算譜からなる直情的な機械の動きに見える。それはまるで子どもが親の手伝いをしようと何か自分にできることを探しているようであり微笑ましくもあった。
そして家事の最中には時代遅れのステレオからドビュッシーの月光やブラームス交響曲第四番などが無作為に流れていた。夜は椅子、またはソファに腰掛け、主に日本古典を読んだり、私がまだ若い頃によく観た映画を再び観たりした。人間、年を取ると見たり聞いたりしたことを長く記憶を脳にとどめて置くことができない。これは生活上、不自由だが、本や映画になると話はまた別だ。大抵のことは忘れてしまうので、昔見た本や映画など細部を完全に忘れてしまって、再び見るとまた新しく見たもののような新鮮味を失わないのだ。
その後に執筆に取り掛かる。現役時代から執筆は夜だった。
現役時代から比べるとその執筆速度は遅かった。上古の羅馬人が砂利や石材を用いて手作業で長い長い道を作るようにゆっくりと慎重に書いていた。誰に見せるわけでもない。自らのための物語だ。私以外誰も待っていない。急かされる事もなければ、必要とされることもない。時折、筆を止め休憩を取る。その時、夕子がそっと静かに関節の歯車の音を立ながら私の横へ珈琲を置いた。私はそれを飲む。いつもはブラックなのに今日はミルクと砂糖が入れてあった。こんなことは始めてだったが、その時、私はこのことを夕子の気遣いだと思い、ゆっくりと味わった。
○
翌日の朝、せわしなく窓を小叩く音がするのでカーテンをめくり窓を見ると霰が降っていた。窓から見える空気草の草原はもはや枯れ野となり薄茶色の茎が霰に打たれ、静かに地に伏せていた。
秋の終わりに空気草の黄色の花が風に散ってゆく様はそれは美しいものがあった。たまに玄関先の水溜りに小さい花びらなどが浮いている様もまた別な趣があったものだ。しかし、季節が過ぎ行くのは早いものだ。もうあの時の風景は過去のものとなり、今はあの日、見たもは全てが地に伏せていた。空気草の花がつけた種子はこの草原の地表で同じように霰に打たれながらも春の夢を見ながらまどろんでいる。
雲は早くながれ、霰は降ったり止んだりと繰り返しながら、遂には完全にその姿を消し、雲の割れ目から光が差し込んできた。ふいに葉の落ちきった大気樹の根元に一匹の黄色い蝶がいるのに気が付いた。まるで空気草の花を思わせる黄色の羽根で上羽根の上部に黒い紋が現れている。その羽根を広げたり、閉じたりとまるで目をしばたくように動かしていた。まるで寒さに震えているようにも見えた。季節外れの蝶に何か夢のような光景を見ている気分になった。暫し、目を閉じると少し眠ってしまったのだろうか。目を開けた頃にはもう蝶はどこかに消え去っていた。
戸を叩く音が聞こえた。私は入ってくれ、と言うと夕子が「おはようございます」とお盆を持って現れた。そのお盆の上には私が戸棚に永らくしまっていたティーポットと愛用の珈琲カップが載せられていた。あたりに紅茶のいい香りが漂う。相変わらずの無表情で夕子はティーポットから紅茶を珈琲カップに注いだ。そして「ご主人、どうぞ。……そうそう生憎、茶葉を切らしていまして、即席のものしかありませんでしたけれど」と私に紅茶を勧めた。
私は呆気に取られつつもそれを受け取ると夕子の顔を覗き込んだ。そこにはいつもと変わらない夕子がいた。理知的な黒い瞳も造形的で整った顔もいつもと変わらない。しかしおそらく紅茶は私に出されたものではない。前の主人に対して出しているのだ。夕子は静かに壊れ始めていた。
その感情を表さない白磁の仮面に満たされることのない寂しい色合いが写った。