冬虫夏草
身体の中でから聴こえる音は日増しに大きくなっていった。モズにはそれが何なのか分からなかった。時にそれは歌に聴こえ、モズは自らが飛び立つ日へと思いを馳せた。身体の中に歌が埋もれているのだ。きっと私は空へ飛び立ち、きっと歌を歌う。きっと空で歌そのものになるのだ。ほら、こんなにも身体の中に歌が溢れている。モズはうっとりとその胸に手を当て目を瞑る。鼓動に合わせて、まるで血と身体中の管や筋を楽器にぷちぷちと音が溢れていた。ふいに違和感を感じ胸を見やると胸骨と胸骨の間の皮膚を破り白い芽が顔を覗かせていた。
筆が止った。それが歌ではなく冬虫夏草だと知ったとき、彼は何を思うのだろう。暗い地中から出れず、歌を歌えず、冬虫夏草に自らの身体を栄養として搾取されていくと知ったとき何を感じるのだろう。恐怖だろうか。悲しみだろうか。あるいは絶望だろうか。
けれど彼は冬虫夏草を愛さなくてはいけない。
○
笑顔が作れない、と言ったのを思い出す。確かに夕子は笑顔が作れなかった。それは永年、笑顔を作らずにいたせいだと言っていた。いや、もしかしたら他の欠陥と何らかの因果関係があるかもしれない、とも言っていたと思う。始めてそれを聞いた時、どうと言う事のない欠陥と思った。欠陥ですらない。些細な、まるで借家の壁にあった染みのようなものだと。それは些細な失敗で汚してしまって、もうどうしても取れない染みだった。しかし気にしなければ生活するうえでは何ら支障のないものだと思った。それどころか味のあるものだとすら思い、ただの一風景として見逃していた。確かに生活する上ではその染みは何ら影響がない。しかし時を経て人の心理は一定ではない。壁の染みは時として不吉な兆候に見えることがあるように、夕子の表情も時として不吉なものに見えた。
笑顔が作れない。それは無表情に近く、そしてそれは私を責めているように写る。原因は分かっている。そして彼女は何ら私を責めてはいない。
しばらくノートパソコンの前で黙って目を瞑り自らの思考の中へ埋没した。そこには若いモズが地中で飴色の胸から這い出た青白く光る芽を不思議そうに見ている。あるいは居間に落ちている花束と花瓶、その脇で倒れている妻。月。地球。ビー玉。瀟洒な白い日傘を持ってベンチに座って地球の歌を歌っている老婆。あれはいつ見た光景だったか。ふと気付くと私の口の中にできものがあるのを知った。舌でそれを確認するとそれは僅かに熱を帯びていた。一つの兆候だ。想像の中の借家の壁についている染みのようなものかもしれない。悪いか悪くないか、聞かれたら大方の人は悪いというに違いない。けれど私にとっては願っていた兆候だった。不吉かもしれないが、その不吉さを願っていたのだ。少し気分が軽くなった。
目を瞑っている目蓋の暗闇の右の方からかすかな歯車の音が聞こえ、珈琲の匂いが漂ってきた。
「どうぞ」という夕子の声。その声も感情というものがあまりこもっていない。ある程度はあるように感じるが、そのある程度が私を責めているように感じた。私がそう感じるだけなのは分かっている。なぜなら機械は私を責めたりしない。しかし、この口調はどこか懐かしさを持って私の心に響く。そしてこの口調を和ませる方法を私は知っていた。
「なあ」何気ない言葉を発した。何気なく普段通りに話す。
責めていると感じるのは幻想だ。懐かしい口調が私に幻想を抱かせる。私は目を瞑ったままその幻想に向かって普段通りに話していた。幻想の正体は妻だ。まだ私たちの関係が損なわれる前、よくこんな口調で妻は私を責めた。同じように私も妻を責めたこともあったかもしれない。
「冬虫夏草を知っているか」
何気なく話し、雰囲気のコリをほぐす。ほぐれたら簡単だ。原因を聞けばいい。お互いのことを話し合えば大抵のことは解決したし、胸につかえた問題は常にたいした問題ではなかった。あの関係を思い出す。
「どうぞ」
続いて夕子が私の右手に手巾を渡した。なぜ手巾を私に渡すかわからず、彼女の顔を見ようとした。しかし景色は滲み何も見れなかった。私は亡き妻を思い出し、知らず知らずのうちに目に涙が溢れていた。
「すまない」私は手巾を夕子に戻し礼を言った。
「もう一度、最初、何を言ったのか教えてください。私の知っていることなら何でもお答えします」
何気なく話した。本当に何気なく。彼女の表情は私を責めていない。その顔を見て、もしかしたらと思う。そもそも妻は私を責めていなかったのではないか、私たちの損なわれたと思っていた関係は私がそう思っていただけなのでは、と。しかしそれを確かめる術もなく、こう思うことが亡くなってもはや話すこともできなくなった妻に対しての冒涜に思えた。感情が渦となって言葉が出てこない。つかえた胸を抑えるために大きなため息を吐き、外を眺めた。
空気草は夏の日差しを余すところなく受け入れ十分に生長し、今では小さな黄色の花たくさんつけていた。その黄色の花はそよ風になびき蜻蛉が二、三匹風に逆らって飛んでいた。
私はある程度落ち着きを取り戻して言った。
「冬虫夏草を知っているか」
しばらく夕子は考えて「それはどういった花を咲かせるのでしょうか」と言った。
夕子は菌類の冬虫夏草を言葉から考え、草だと思ったのか。
「花か」私は思わぬ拾い物をした気分で再びノートパソコンを開いた。
私はキーボードを走らせ「どういった花を咲かせると思う」私は夕子に聞いた。
「わかりません」
「憶測でいいのだ」
「冬に夏の言葉から寒さと暑さを感じます。どちらの気温にも感じられる色と言ったら、おそらくは白ではないでしょうか」
ふいに居間に落ちている花束にあった一番大きな花の色を思い出した。おそらくは白だ。それは確かに純白の百合だった。
彼は冬虫夏草を愛さなくてはならない。




