ビー玉
夜中にぽつりと眼が覚めた。
じっとりと汗が滲むほど暑苦しい部屋の中。いずれ夢寐の間に戻るであろうと、青白い光差す窓をじっと見てその時を待っていた。しかし、その光を見ているうちに私は意識がはっきりと覚醒し、眠りにつくまで時間がかかりそうなことに気付いた。起き上がり足音静かに冷蔵庫へ向かう。この家の住人は私だけで隣の家まで数キロと離れている。大きな音を出しても一向に構わないはずなのだ。けれど夜は静かに行動しなければならない、という今まで意識せずに半生守り続けた習慣は中々抜けない。そしてやはり冷蔵庫を静かに開け、ラムネを取り出した。こういう時はアルコール飲料が最適なのかもしれないが、私の身体は生まれてこの方、アルコールを受け付けない。いつも飲むとなればこの果糖と炭酸を混ぜ合わした時代錯誤な清涼飲料水だった。
私はラムネのビンを片手に外へ出た。
玄関から真っ直ぐに町への道が伸びており、電燈が青白く道を照らしていた。
今夜は暑く、月海からの風が心地よい。私はその海風に導かれるように家の裏の浜辺へ降た。砂というより礫に近い浜辺で腰掛けるに丁度いい岩を見つけるとそこに腰掛け、夜空に大きく青く煌く地球を見た。地球はどこまでも青く輝き、その大洋を鏡にして、この月面を青く照らしている。私はラムネの蓋を開け、甘い炭酸の清涼感を楽しむ。
ビンを口につけようと、傾けるたびにカラカラとビンの中でビー玉が踊る。子どもの頃このラムネのビー玉が欲しくてたまらなかったことを思い出し、私はラムネを飲み干した後、ビー玉を取り出すべくビンの蓋を思いっきり回した。プラスチック製の蓋は思ったより簡単にとれ、勢い余ってビー玉は浜へとぽろりと落ち、かつん、かつんと小石に当たった。私は罅でも入ってないかと慌ててビー玉を拾い、手の平で転した後、覗き見た。だがそこには地球光に照らされ一層青白く光る硝子玉があるばかりで、罅は入っておらず、ただ青々と輝くばかりだった。
子どもの頃の私は一体このガラス製の球体の何に執着していたのだろう。この煌めきに何を見ていたのだろう。今の私には昔あったはずの執着も視界もなく、そのビー玉はあくまで硝子製の玉で何の感慨も起こらない。そんな自分自身を静かに眺めていた。
ビー玉に見飽きるとポケットにしまい、私は辺りを見渡した。地球光に青く照らされ、静かにたゆたう月の海、夜空には星々の光を打ち消して大きな地球がこちらを見ている。遠く浜辺の向こうの崖には巨大で錆び付いた風車が地球光に照らされた海からの風にゆっくりと回っていた。その地中の奥底では今でも斜長岩を虚しく掻いているのだろうか。そしてその崖の向こうではこの月の創生期以来、光の当たらぬ月の裏の永久影が黒い壁を作っていた。
ここでは何もかもが終わっていた。
資源は掘りつくされ、太陽系諸惑星の地球化計画の実験台となった後は訪れる人も滅多にいない。いるのはかつてこの月へ永住をした人たちの末裔……それは私のような老人ばかりで、それ以外は月で細々と研究を続けている陰気な科学者くらいだ。
そして地球化の維持管理ももはや何の利益にもならないという理由で年々外され、後数十年でもとの大気のない白い沙漠となるらしい。
余命あと僅かな私にとって、全てを終えるには丁度いい場所だった。