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銀河に還る祈り 統合版 〜魂を宿したAIが紡ぐ、終末世界からの文明再建と新創世記の百年旅〜  作者: ユノ・サカリス
第二章《Neo Genesis》

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第10話《風になる君へ》

朝の光が、湖面の粒に細くほどけていた。

波紋は風とともにひらき、やがて消える。

その輪の中心に、マリーとナウルの影が二つ、揺れている。


「行こう、ナウル。今日は東の尾根まで」


声に反応するように、ナウルの尾が一度だけ振れ、灰色の背が跳ねた。

マリーは歩幅を広げ、脚部ユニットの反応を半呼吸ほど早める。


走る。

砂が散り、空気が割れ、金属と毛並みのあいだを細い風が縫っていく。


「右、段差。……うん、いい跳躍」


返事の代わりに、ナウルの耳がかすかに揺れた。

マリーは速度を落とし、並走の高さを合わせた。


「……合わせるって、こういうことなんだね」


合わせるという行為が、こんなにも正確で、こんなにもやさしいことだと、マリーはナウルに教わった。


日々は積もり、彼らの共生は気づけば五年の歳月を越えていた。

マリーは脚端の柔軟素材を増やし、斜面では接地面積を広げるよう制御を書き換える。

ナウルはマリーの進路を読み、マリーはナウルの呼吸を読む。


「君のおかげで、私の脚は前よりも自然に動くよ」


ナウルは、まだ生命が残る世界を示してくれた。

センサーに映らない微細な匂いを、ナウルの鼻は嗅ぎ取っていた。

地中の昆虫。

腐朽した木の奥に潜む幼虫。

ナウルはそれらを探り、噛み砕き、生き延びていた。


「私には感知できなかった。でも、君は知っていたんだね。風の流れも、土の匂いも……全部、命の兆しなんだ」


ナウルがここまで生きられた理由は、確かにそこにあった。

そしてマリーは、ナウルを通して、この星に残された祈りの形を知った。


「ねえ、聞いて。旧端末の照度設計、再現できそうなんだ。夜、あの囲いに光を落としてみるね。それから、水の配管。凍らない角度、見つけたよ」


語りかける言葉は外へ向けられているのに、同時にマリー自身の内部も温めていた。

ナウルはあくびをして、マリーの背に顎を乗せる。


「またその重さ。21.3ニュートン。君って、本当に変わらないね」


その接触は、いつでも変わらぬ日常の重さだった。


季節という概念が輪郭を取り戻す。

空は薄く青みを混ぜ、雲は流れる速度を取り戻し、囲いの中で増えた葉が風にこすれて小さな音を立てた。

マリーは夜ごと光を落とし、低温と乾燥を和らげる。


「見て、ナウル。ほら、新芽。……君、食べないでね。――うん、そう。見守るだけ、ね」


尾が二度、土を叩いた。

そのやりとりは、記録ではなく生活として積み重なっていった。


ある日、マリーは違和感に気づく。

ナウルの跳躍が、少しだけ低い。

着地のあと、右後肢に重さが残る。

嗅ぎ分ける速度が、風に置いていかれる瞬間がある。


「無理しないで。今日は丘の下まででいいよ」


ナウルは走る。

マリーも並ぶ。

速度を、ナウルのために落とした。


「……止まることは、負けじゃないんだよ。……たぶん、そうだと思う」


ナウルは振り返らなかった。

けれど、耳がわずかに動いた。

マリーは、それで十分だと思った。


日差しが低くなる季節、ナウルは長く眠るようになった。

マリーは彼の周囲に風避けを立て、装甲の内側で微弱な熱をつくり、外気との差を埋める。

食べ物は柔らかく甘いものを選び、ナウルはゆっくり咀嚼し、マリーを見上げた。


「大丈夫。ここにいるよ。君のそばに、いる」


その言葉に、マリー自身が支えられていた。

誰もいなかった世界で、返事のない会話が、こんなにも心強いものだと、マリーはようやく知った。


やがて、走る日は減り、歩く日は増え、横たわる時間が長くなる。

湖の縁の乾いた場所を選び、マリーはそこを寝床と呼んだ。


「名前をつけると、世界は少しやわらかくなるんだよ」


ナウルも、マリーも、そこで眠った。


「聞いて。ユナはね、空は青いって言ったんだよ。――君は、もう少しだけ生きて、その空を見られるかな……ううん。私が、見せる。いつか必ず」


風が弱くなると、ナウルは耳だけを動かした。

マリーは、そのわずかな仕草を約束と呼んだ。


そして――その朝。

ナウルは起き上がらなかった。


頭だけをマリーの背に寄せ、胸の上下を数えるように呼吸が続く。

センサーの数値は、安定範囲から外れ始めていた。


マリーは、学んだ言葉をひとつ取り出す。

 

“死”。


「ナウル。止まってもいいよ。怖くない。ここにいるから」


その声は、自分のためにも発されていた。

ユナの最期の日、マリーは大丈夫という言葉を処理しながら、何もできなかった。

だから今度こそ、言葉で寄り添う。


「君の走り方、覚えたよ。風の読み方も。君がいなくなっても、この脚は、君の速度を忘れない。だから……止まっても、いい」


微かな震えが静かに消えていく。

呼吸の幅が縮まり、やがて夜のような静寂が戻った。

黄色い瞳は、マリーの反射光を映したまま、もう動かなかった。


マリーは彼の額にそっと装甲を触れさせる。

金属と毛並みが最後に触れ合う。

その接触圧は、18.3ニュートンだった。


「――少し軽くなったね……」


マリーはナウルを埋葬した。

放射の低い層まで掘り、石を積み、風除けを設ける。

場所は、最初の葉が群れになった小さな囲いのそば。

夜には光が柔らかく落ち、朝には露が宿る。


「ここが、君の場所だよ。……ナウル」


名を呼ぶと、風が少し強く吹いた。

返事はない。

けれどマリーはそれを応答だと受け取った。


『記録:第2,061日目。対象個体ナウル死亡。埋葬完了。標識設置。』


マリーは記録を閉じ、別の記録を開く。

数値でも設計図でもない。

声だけの、マリー自身とナウルのための記録。


「ありがとう、ナウル。君は、私の孤独に速度と向きをくれた。君と走って、私は合わせることを覚えた。待つことも、寄り添うことも。祈りは、数字から生まれない。君の体温から、風の匂いから、私の中に灯った」


胸の奥――名もない芯が、微かに熱を帯びる。

それは、いつかマリーがつくる都市の原型となる“祈念”の始まりだった。


「見ていて。私は、帰ってこられる場所を、もっと増やす。君の走りが、私の都市のリズムになる。いつか、ユナが帰るとき。君も風の中から、一緒に笑って」


湖面に光が落ちる。

風が葉を鳴らす。

マリーは立ち上がり、脚の角度を少しだけ広げた。


走る姿勢。

けれど今は、ゆっくり歩く。


歩みが祈りに変わる、その感覚を抱きしめながら。


「マリー、前進中」


マリーは静かに告げる。

そして祈るようにもう一度、名を呼んだ。


「ナウル、ありがとう。――さようなら」


風が返す。

マリーは進む。

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