第6話 火属性は存在しないと思います
翌朝、身体中が痛かった。目を開けた瞬間、まず背中が痛い。次に右手。それから左腕。最後に、昨日まで意識していなかった細かい筋肉が一斉に抗議してきた。
角兎を運んだ。ゴブリンを解体した。床を洗った。森を歩いた。王城から落ちた。火魔法を暴発させた。並べてみると、昨日一日で身体にかけた負荷が明らかにおかしい。
俺は安宿の硬いベッドの上で、天井を見つめながら呟いた。
「……身体能力の強化が急務ですね」
魔法の研究。魔物の解体。冒険者活動。王国からの逃亡。どれを取っても、今の肉体では不安が大きい。知識があっても身体が動かなければ死ぬ。昨日、角兎とゴブリンから学んだばかりだ。
だが、今日やるべきことは決まっている。文字の習得。魔法入門書の入手。そして、魔力制御の基礎訓練。
俺は身体を起こし、机の上の紙束を見る。昨夜、日本語で書いた研究記録。この世界では誰にも読めない文字。記録としては使える。だが、情報交換には使えない。依頼票も読めない。看板も読めない。魔法書も読めない。これは致命的だ。魔法のある世界に来て、魔法書が読めない。これほどもどかしいことはない。
俺は宿の簡単な朝食を取り、ガルドに教えられた市場へ向かった。
宿の食事は、硬いパンと豆のスープだった。パンはかなり硬い。だが、スープには薬草に似た香りがあり、微弱な魔力が含まれていた。この世界の食事は、ほとんどが魔力を含んでいるらしい。つまり、人間も日常的に魔力を摂取している。体内魔力は、自力生成だけでなく、外部摂取と大気吸収の複合で維持されている可能性が高い。食文化と魔力適性の関係も調べたい。だが、今日はまず文字だ。
ルーベルの市場は朝から賑わっていた。野菜。肉。布。道具。薬草。魔物素材。小さな魔石。魔道具の部品。通りの端では、古本らしきものを並べている露店もある。俺は迷わずそこへ向かった。
露店の主人は、痩せた中年の男だった。眼鏡のようなものをかけている。ただし、レンズはガラスではなく薄い魔石板のように見える。視力補正の魔道具だろうか。興味深い。
「いらっしゃい。古本かい?」
「はい。文字の入門書と、魔法の入門書を探しています」
「文字の入門書?」
店主が俺を見る。
「兄ちゃん、字が読めないのか?」
「この国の文字はまだ読めません」
「まだ?」
「今から覚えます」
「変な言い方だな」
最近、変だと言われる頻度が高い。おそらく事実なのだろう。
店主は木箱の中を探り、薄い本を二冊取り出した。
「文字ならこれだ。子供向けの読み書き帳。こっちは数字と簡単な計算。魔法書は……安いやつならこれだな」
彼はさらに一冊、赤い表紙の本を出した。表紙には読めない文字が書かれている。ただ、火の絵がある。炎。杖。子供向けの魔法入門書のように見えた。
「これは?」
「『はじめての火属性魔法』だ。見習い魔法使い向けの本だな。古いし書き込みもあるから安い」
「買います」
「値段聞かないのか?」
「買います」
「まあ、いいけどよ」
俺は昨日の報酬袋を取り出した。ボルグが少し多めに入れてくれたとはいえ、手持ちは少ない。文字帳。数字帳。火属性魔法入門書。さらに紙と炭筆。買えば、手持ちの大半が消える。宿代も必要だ。食費も必要。解体場で稼げるとはいえ、余裕はない。だが、魔法書は必要だ。知識への投資は優先度が高い。
俺は必要な硬貨を渡した。店主は本をまとめながら言う。
「魔法書を買うなら、魔導院に通うか、師匠についた方がいいぞ。独学は危ない」
「昨日、火魔法を独学で試して暴発しました」
「試す前に言え!」
「いえ、昨日は本を買う前でしたので」
「そういう問題じゃねえ」
店主は眉間を押さえた。
「兄ちゃん、火属性は危ねえぞ。初心者はまず魔力感知と制御からだ」
「やはり制御が重要ですか」
「当たり前だ。火を出すだけなら才能でできるやつもいる。だが止められねえやつは魔法使いじゃねえ。放火魔だ」
「的確ですね」
「感心してる場合か」
店主は棚の奥から、薄い冊子をもう一つ出した。
「ほら。これは魔力制御の練習帳だ。表紙が破れてるから安くしとく」
「買います」
「金、足りるのか?」
足りた。ただし、手持ちはほぼ消えた。
俺は四冊の本を抱え、市場の隅にある小さな広場へ移動した。石のベンチに座る。まず文字帳を開く。当然、読めない。だが、絵がある。子供向けだからだろう。文字と物の絵が対応している。リンゴのような果物。家。水。火。人。剣。単語帳としては優秀だ。
この世界の文字は表音文字と表意文字の中間に見える。一文字が音を表す場合もあれば、意味を持つ記号として使われている箇所もある。数式や術式に転用されやすい構造かもしれない。魔法陣の記号との共通性も調べる必要がある。
俺は文字帳の最初のページを眺め、炭筆で紙に写し始めた。まず形を覚える。発音は後で誰かに確認する。音と文字の対応が分かれば、あとは早い。幸い、言語自体は理解できている。転生時に言語理解が付与されているのだろう。なら、音声言語と文字言語を対応させれば読めるようになるはずだ。
しばらく書き写していると、背後から声がした。
「何してるんだ、お前」
振り返ると、ガルドが立っていた。革鎧を着て、腰には剣。どうやら朝から依頼に出るところらしい。
「文字の学習です」
「市場のベンチでか?」
「場所はどこでも構いません」
「宿でやれよ」
「朝の市場を観察したかったので」
「ついでに文字を覚えてるわけか」
「はい」
ガルドは俺の横に座り、紙を見る。
「……お前、字が汚いな」
「初日なので」
「まあ、そりゃそうか」
「この文字は何と読みますか」
「それは火だな」
「火」
俺は文字の横に、日本語で「火」と書いた。次に、この世界の発音を片仮名で記録する。火。水。土。風。人。魔力。剣。獣。家。少しずつ対応が増えていく。
ガルドは最初こそ面倒そうだったが、途中から諦めたように付き合ってくれた。
「お前、本当に覚えるの早いな」
「構造が分かれば覚えやすいです」
「俺なんか子供の頃、字を覚えるのに何年もかかったぞ」
「音声言語はすでに理解できていますから」
「それも変な話だよな。異世界から来たとか言ってるくせに、話は普通に通じる」
「転生時に言語理解が付与された可能性が高いです。ただし文字は対象外だった」
「神様も中途半端だな」
「同感です」
魂の管理者。あの女。彼女は言語理解を付与したのか。それともこの世界側の召喚陣が、魂情報に翻訳術式を組み込んだのか。もし後者なら、勇者召喚陣には言語変換術式が含まれていたことになる。あの魔法陣、やはり調べたい。ただし、王城に戻るのは危険だ。召喚陣はしばらく諦めるしかない。
俺は次に、赤い表紙の魔法入門書を開いた。まだ文字は完全には読めない。だが、図がある。杖。手。炎。魔力の流れを示すらしき線。そして詠唱文らしき短い文章。
ガルドが横から覗く。
「火属性の入門書か」
「はい」
「魔法使いになる気か?」
「魔法研究者になりたいです」
「冒険者登録したばっかだろ」
「研究のために冒険者になりました」
「普通と順番が逆だな」
俺はページをめくる。火属性の説明。おそらくこう書いてある。火の精霊に祈り、魔力を捧げ、炎を生む。火属性適性のある者は、赤い魔力反応を示す。詠唱によって炎を安定させる。初心者は小さな灯火から始めるべき。
内容は、昨日王城の魔導士が言っていたものに近い。伝統的な属性理解。火は火属性。炎の精霊。燃やす力。だが、図の魔力線を見る限り、やはり変換過程がある。魔力が手元に集まり、圧縮され、発火点で熱へ変換されている。火そのものを呼び出しているようには見えない。
「ガルドさん」
「あ?」
「火属性は存在しないと思います」
ガルドは数秒黙った。
「朝から何言ってんだ」
「昨日の火魔法と、この本の図を見た限り、火属性という分類は現象を表面的にまとめたものです。本質は魔力から熱への変換だと思います」
「火が出るなら火属性でいいだろ」
「結果だけ見ればそうです」
「それじゃ駄目なのか?」
「駄目ではありません。ただ、それだと応用が限られます」
「応用?」
「火を出す、ではなく熱を操作すると考えれば、炎を出さずに対象内部だけ加熱できるかもしれません。逆に熱を奪えば冷却にもつながる。火属性と氷属性は別物ではなく、熱量操作の方向違いかもしれない」
ガルドは口を半開きにした。
「……火と氷が同じ?」
「現象の根は近い可能性があります」
「魔法使いが聞いたら怒りそうだな」
「でしょうね」
「分かってて言うのか」
「必要なら」
「お前、絶対そのうち魔導士に喧嘩売るぞ」
「喧嘩を売るつもりはありません。質問するだけです」
「質問が喧嘩になるんだよ、お前の場合」
なるほど。注意しよう。
だが、これは重要な仮説だ。属性という分類は便利だ。初心者に教えるには分かりやすい。火、水、風、土。感覚的に理解しやすい。だが、世界の構造を知るには浅い。
火ではなく熱。水ではなく流体。風ではなく圧力と気体流動。土ではなく鉱物構造。雷ではなく電位差。氷ではなく分子運動の低下。もしこの仮説が正しければ、魔法体系は大きく組み替えられる。少なくとも、俺の中では。
「試すなよ」
ガルドが言った。
「まだ何も言っていません」
「顔が試す顔だった」
「少しだけなら」
「駄目だ」
「広場の端で」
「駄目だ」
「蝋燭程度に」
「昨日暴発したやつが言うな」
正論だった。
俺は魔力制御練習帳を開く。表紙は破れているが、中の図は読める。基本姿勢。呼吸。体内魔力の感知。指先への移動。魔力を外へ出さず、体内で循環させる訓練。
なるほど。まず発火させる以前に、魔力を動かす練習が必要らしい。昨日の俺は、いきなり燃料タンクに火を入れたようなものか。無謀。非常に無謀。よく生きていた。
「ガルドさん、魔力制御はできますか」
「俺は魔法使いじゃねえが、身体強化くらいなら少し使える」
「身体強化」
「冒険者なら多少はな。魔力を腕や脚に回して動きを補助する」
「見せてもらえますか」
「ここでか?」
「はい」
ガルドは周囲を見て、小さくため息をついた。
「少しだけだぞ」
彼は右手を軽く握った。次の瞬間、腕の周囲に薄い魔力が流れた。火魔法とは違う。変換ではない。循環。筋肉と骨格に沿って、魔力が絡みつくように流れている。出力を外に出すのではなく、体内の動きを補助している。魔力による身体機能補助。これなら俺にも必要だ。
「なるほど。魔力を体内構造に沿って流しているんですね」
「難しいことは知らん。腕に力を入れる感じで魔力を乗せるだけだ」
「それで出力はどの程度上がりますか」
「人による。俺なら腕力が二割か三割増すくらいだ」
「十分大きいですね」
「ただ、やりすぎると筋を痛める。身体が追いつかねえからな」
「魔力出力と肉体耐久の差」
「たぶん、それだ」
身体強化。これは優先度が高い。戦闘のためだけではない。解体場の作業。森での移動。素材運搬。逃走。すべてに役立つ。しかも、火魔法のように外部へ出力しないため、暴発リスクが比較的低いかもしれない。
俺は右手を見た。火傷している。今日は火魔法を試すべきではない。ならば、体内魔力の循環から始める。
俺はベンチに座り直し、目を閉じた。呼吸。体内の魔力。胸の中心。腹。腕。指先。昨日は外の魔力を引き込んだ。今回は外へ出さない。体内で動かすだけ。細く。ゆっくり。右手は痛むので、左手へ。
魔力が少し動く。左腕の中を、温かいものが流れる感覚。成功。ただし、すぐに流れが乱れる。魔力が左手の指先に集まりすぎる。指先が熱い。いや、熱ではない。圧力。魔力圧。危険。分散。戻す。戻らない。
「……ん」
左手の指先から、ぱちりと小さな火花が散った。
ガルドが即座に立ち上がった。
「おい」
「外部出力するつもりはありませんでした」
「したぞ」
「はい。制御に失敗しました」
「市場で火花散らすな!」
「すみません」
幸い、火花は小さく、周囲には気づかれていない。いや、近くの露店主が少しこちらを見た。早めに移動した方がいい。
「訓練場はどこですか」
「ギルドにある。金を払えば使える」
「払います」
「今のお前、金ほとんどないだろ」
「解体場で稼ぎます」
「先に金を払うんだよ」
「では、今日も解体場で働いてから訓練場へ」
「怪我人が働きすぎだ」
「研究には資金が必要です」
「寝ることも必要だぞ」
ガルドは呆れていたが、最後にはギルドの訓練場について教えてくれた。夕方以降なら安く使える。魔法使用は申告制。初級魔法の練習は端の石壁前。暴発した場合は修理費自己負担。
非常に重要な情報だ。修理費は避けたい。制御練習はまず魔力循環だけにしよう。火は出さない。絶対に出さない。たぶん。
「不安だな」
ガルドが言った。
「何がですか」
「お前の“絶対に出さない”が信用できない」
「今日は火魔法を使いません」
「よし。その言葉、ミラにも言っとけ」
俺たちは市場を出て、ギルドへ向かった。途中、俺は買った本を何度も見た。文字帳。数字帳。魔力制御練習帳。火属性魔法入門書。どれも薄い。内容も初歩的だろう。だが、今の俺には宝の山だ。
世界を知るには、まず文字から。魔法を知るには、まず制御から。そして、常識を疑うには、まず常識を学ばなければならない。
ギルドに着くと、ミラが受付にいた。俺を見るなり、少し身構えた。
「ユーマさん」
「はい」
「今日はまだ問題を起こしていませんか?」
「小さな火花を出しました」
「起こしてますね」
「火魔法ではありません。魔力循環の失敗です」
「余計に不安です」
ガルドが横で笑っている。ミラは俺の抱えた本を見る。
「本を買ったんですか?」
「はい。文字と魔法の勉強用です」
「読み書きから始めるんですね」
「魔法書を読むために必要です」
「順番としては正しいです」
「火属性魔法の本も買いました」
「火属性?」
ミラの表情が少し険しくなる。
「ユーマさん、街中で火魔法は禁止です」
「今日は使いません」
「本当ですか?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「火花は?」
「できるだけ出しません」
「出さないでください」
「善処します」
「出さないでください」
「分かりました」
ミラは疲れたように息を吐いた。
「解体場へ行く前に、こちらへ来てください。ボルグ主任から伝言があります」
「何でしょう」
「昨日のゴブリン魔石の件で、魔道具屋の方が少し話を聞きたいそうです」
「魔道具屋」
俺は反射的に身を乗り出した。ミラが半歩下がる。
「食いつきがすごいですね」
「魔道具には非常に興味があります」
「ただ、まず解体場の仕事をしてください。その後です」
「分かりました」
魔道具屋。昨日のドワーフ老人だろうか。魔石の質を見ていた。低級魔石を粉にして触媒にする、と言っていた。魔道具。術式回路。魔石加工。生活魔法。また新しい扉が開きそうだ。
だが、焦ってはいけない。まず解体場。文字学習。魔力制御。そして魔道具。やることは多い。多すぎる。素晴らしい。
「ユーマさん」
ミラが俺を見る。
「楽しそうですね」
「はい」
「王都から危険人物として探されている自覚はありますか?」
「あります」
「怪我をしている自覚は?」
「あります」
「お金がない自覚は?」
「あります」
「なのに楽しそうなんですね」
「はい」
俺は本を抱え直した。
「知るべきことが多いので」
ミラは少しだけ黙った。呆れているようでもあり、少しだけ不思議そうでもあった。
「……変な人ですね」
「よく言われます」
「でしょうね」
解体場へ向かう途中、俺は火属性魔法入門書の表紙をもう一度見た。炎の絵。杖。赤い文字。この本は、きっと火属性を当然のものとして説明している。火の精霊。火の加護。火の適性。それがこの世界の常識なのだろう。
だが、俺はもう見てしまった。魔力が集まり、圧縮され、熱へ変換される瞬間を。なら、疑わずにはいられない。火属性とは何か。本当に存在するのか。存在するとして、それは現象なのか、概念なのか。精霊とは実在するのか、あるいは術者の認識補助なのか。
魔法は奇跡ではない。世界の仕組みに干渉する技術だ。そうであるなら、必ず解ける。
俺は胸の奥に、小さな熱が灯るのを感じた。今度は暴発ではない。ただの好奇心だ。
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研究記録 No.004
対象:火属性魔法入門書および魔力制御
観察結果:
火属性魔法は、一般には火の精霊、火の適性、火の加護として説明されている。しかし図解上の魔力流路は、魔力集中、圧縮、熱変換、発火の段階を示しているように見える。昨日の実演および自身の暴発結果とも一致。
仮説:
火属性とは独立した本質ではなく、魔力を熱エネルギーへ変換した現象群である。火属性と氷属性は、熱量操作という同一軸上にある可能性。
結論:
属性分類は初心者向けの便宜的体系。より深い分類として、現象魔法体系を検討する。
追記:
魔力循環訓練中に小さな火花が発生。街中での練習は危険。ミラさんからの信用がさらに低下した。
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その日の解体場には、昨日より多くのゴブリンが並んでいた。ボルグが俺を見るなり、顎をしゃくる。
「来たか、変な新人」
「来ました」
「今日は五体だ。魔石を割らずに取れたら、少し報酬を上乗せしてやる」
「了解しました」
「あと、魔道具屋の爺さんが後で来る。お前に聞きたいことがあるらしい」
「楽しみです」
「顔に出すぎだ」
俺は作業台の前に立つ。ゴブリンの死体。解体用の刃物。血の匂い。魔力の残滓。昨日なら、少し気圧されていた。今日は違う。まだ慣れたわけではない。吐き気もある。だが、手順は分かる。観察すべき場所も分かる。
俺は刃物を握り、静かに息を吸った。
世界を知るための二日目が始まる。勇者としてではなく。危険人物としてでもなく。Fランク冒険者兼、解体場補助として。今のところ、それが俺には一番合っていた。




