第1話 勇者にも魔王にも興味はない
宇宙の外側には、何があるのだろう。子供の頃から、ずっと考えていた。
夜空を見上げるたびに、誰もが星を綺麗だと言った。星座を探し、月の形を話し、明日の天気を気にした。けれど、俺だけは違った。
星の向こうに宇宙がある。なら、その宇宙の向こうには何がある? 何もない? では、その「何もない」はどこに存在している? 空間がないというなら、空間がない状態とは何だ。時間がないというなら、時間がないことを誰が観測する。そんなことばかり考えていた。
大学では物理を学んだ。時空、重力、エネルギー、情報、宇宙論。興味は尽きなかった。
教授にはよく言われた。
「神崎、お前はもう少し現実的な研究をしろ」
現実的。その言葉の意味が、俺にはよく分からなかった。目の前にある世界だけを見ることが現実的なのか。見えないものを考えることは、非現実なのか。俺はそうは思わなかった。
世界があるなら、その構造を知りたい。宇宙があるなら、その外側を知りたい。それだけだった。
そして俺は、死んだ。
あまりにもあっけなく。横断歩道。雨上がりのアスファルト。青信号。誰かの悲鳴。大型車のブレーキ音。最後に見たのは、やけに白い空だった。
次に目を開けた時、俺は白い空間に立っていた。いや、立っているという表現が正しいのかも分からない。上下がない。奥行きがない。地平線もない。ただ、どこまでも白い。空間というより、まだ何も定義されていない場所。そんな印象だった。
「目覚めましたか」
声がした。振り向くと、そこに一人の女がいた。白い衣。銀に近い長い髪。背には薄く光る翼のようなもの。人間に見える。だが、人間ではない。存在の輪郭が妙に曖昧だった。まるで、こちらの認識に合わせて形を取っているような。
「あなたは死亡しました」
女は静かに言った。俺は自分の手を見る。手はある。だが、肉体の感覚は薄い。なるほど。
「死後の意識、ですか」
女はわずかに目を細めた。
「混乱しないのですね」
「混乱しています。ただ、観察する方が先なので」
「……そうですか」
女は少しだけ沈黙した。変な反応だった。普通、ここで泣いたり叫んだりするものなのだろうか。まあ、そうかもしれない。だが俺には、それより先に確認すべきことがあった。
「質問してもいいですか」
「ええ」
「ここは、地球の死後領域ですか。それとも、別の世界への中継地点ですか」
女の表情が変わった。
「……なぜ、そう思うのです?」
「あなたが“死亡しました”と言ったからです。死後の処理があるなら、魂または意識情報を扱う構造が存在する。その構造が地球内部のものなのか、世界を越えたものなのかで意味が変わります」
「…………」
「それと、あなたは神ですか」
女はしばらく俺を見ていた。そして、ゆっくりと答えた。
「あなた方の言葉で言うなら、神に近い存在です」
「近い?」
「正確には、魂の循環を管理する者です」
「管理者……創造主ではなく?」
女はまた黙った。その沈黙だけで十分だった。神は全能ではない。少なくとも、目の前の存在はそうだ。俺は少しだけ笑っていたらしい。女が怪訝そうにこちらを見る。
「何がおかしいのですか」
「いえ。死んで最初に得た情報としては、かなり面白いと思いまして」
「……あなたは本当に変わっていますね」
「よく言われました」
女は小さく息を吐いた。
「あなたには、別世界への転生権が与えられています」
その言葉を聞いた瞬間、思考が止まった。別世界。今、この存在は確かにそう言った。地球とは別の世界。つまり、世界は一つではない。
胸の奥で、何かが震えた。恐怖ではない。驚きでもない。歓喜だった。
長年、頭の中だけで考えていた問い。宇宙の外側には何があるのか。世界は一つなのか。その問いに、今、初めて答えが出た。少なくとも、地球以外の世界は存在する。そして魂、あるいは意識情報は、世界を越えて移動できる。ならば、再現できる可能性がある。
「……素晴らしい」
思わず声が漏れた。女が眉をひそめる。
「普通は、転生できることを喜ぶものですが」
「喜んでいます」
「その割には、少し意味が違うように見えます」
「ええ。かなり違うと思います」
俺は女を見た。
「転生先の世界には、魔法がありますか」
女は一瞬、言葉を失った。
「……あります」
その瞬間、俺の中で全てがつながった。別世界。魂の移動。魔法。未知の法則。地球では観測できなかった領域。
もし魔法があるなら、それはただの奇跡ではない。何らかの法則があるはずだ。魔力とは何か。どこから来るのか。エネルギーなのか。情報なのか。空間に干渉するのか。時間に作用するのか。魂と接続しているのか。魔法が存在する世界なら、世界の構造そのものを解明できるかもしれない。そして、最終的には、世界と世界を移動する方法に届くかもしれない。
「転生します」
即答だった。
「決断が早いですね」
「判断材料は十分です」
「まだ、転生先の身分も能力も説明していません」
「重要ではありません」
「重要ではない?」
「魔法が存在するなら、それで十分です」
女は、初めて明確に困惑した顔をした。
「あなたには、勇者候補として召喚される可能性があります」
「勇者」
「はい。転生先の世界には魔王が存在し、人間国家と魔族領の対立があります。あなたはその世界で、勇者として期待されるでしょう」
「勇者になる必要がありますか」
「多くの場合、それを望む者が多いです。名誉、力、加護、王国からの支援、仲間、使命――」
「必要ありません」
女の言葉を遮った。
「……はい?」
「勇者にはなりません」
「理由を聞いても?」
「面倒だからです」
女が完全に固まった。いや、そんなに変なことを言っただろうか。
「勇者になれば、王族と関わることになりますよね」
「……そうですね」
「貴族とも関わりますよね」
「はい」
「政治もありますよね」
「あります」
「魔王討伐を求められますよね」
「当然です」
「なら嫌です」
俺は即答した。
「国王、皇帝、貴族、騎士団、教会、魔王軍。そういったものに興味はありません」
「世界を救いたいとは思わないのですか」
「世界を救うという言葉は曖昧です」
「曖昧?」
「誰にとっての世界ですか。王国ですか。人間社会ですか。魔族を含みますか。魔物は含みますか。神の秩序は含みますか」
「…………」
「それに、俺はまだその世界を知りません。知りもしない世界を救うと誓うのは、不誠実です」
女は黙った。俺は続ける。
「俺がやりたいのは、魔王を倒すことではありません」
「では、何を望むのです」
その問いに迷いはなかった。
「魔法を研究したい」
白い空間に、自分の声が響いた。
「魔力を調べたい。魔法陣を解析したい。魔物の構造を知りたい。異種族の文化を知りたい。魂があるなら、その性質を調べたい。空間魔法があるなら、座標の概念を知りたい。時間魔法があるなら、因果との関係を知りたい」
言葉が止まらなかった。
「そして、もし可能なら」
俺は笑っていた。
「その世界の外側へ行きたい」
女の表情が変わった。困惑ではない。驚きでもない。わずかな警戒。いや、恐れ。
「……なぜ、外側へ?」
「世界が一つではないと分かったからです」
「転生先の世界で生きたいとは思わないのですか」
「生きます。観測します。学びます。理解します」
「そして?」
「理解したら、次を見たい」
女は何も言わなかった。俺は続ける。
「一つの世界しか知らずに終わるのは、もったいない。地球があり、別世界があるなら、他にもある可能性が高い。なら、行けるところまで行きたい」
「それは危険な思想です」
「危険かどうかは、理解してから判断します」
「理解できないものもあります」
「だから知りたい」
女の瞳が、わずかに揺れた。長い沈黙。この白い空間に、時間という概念があるのかは分からない。だが、その沈黙は妙に長く感じた。
やがて女は言った。
「あなたは、力を求めないのですね」
「力は必要なら得ます」
「支配は?」
「興味ありません」
「名誉は?」
「不要です」
「愛は?」
少しだけ考えた。
「否定はしません。ただ、今の俺にはまだ研究対象です」
「……そうですか」
女は、どこか疲れたように目を伏せた。
「あなたのような魂は、稀です」
「褒め言葉ですか」
「警告です」
女の声が低くなった。
「知ることは、時に世界を傷つけます」
「知識そのものが傷つけるのではありません。扱い方の問題です」
「そう言って滅びた文明があります」
その言葉に、俺は反応した。
「滅びた文明?」
女は答えなかった。代わりに、右手を軽く上げる。白い空間に、光の輪が生まれた。
輪の向こうに、見知らぬ景色が映る。石造りの城。広大な平原。森。山脈。空を飛ぶ巨大な影。ドラゴン、だろうか。そして、淡く輝く川のようなものが世界全体に流れている。
魔力。見た瞬間、直感した。あの世界には、地球とは違う法則がある。俺は息を呑んだ。美しいと思った。だがそれ以上に、知りたいと思った。
「最後に確認します」
女が言った。
「あなたは勇者になる道を望みませんか」
「望みません」
「王国に仕える気は?」
「ありません」
「魔王と戦う気は?」
「必要があれば。研究の邪魔をされれば対応します」
「魔王軍に誘われたら?」
「研究環境次第で話は聞きます。所属はしません」
「神に従う気は?」
俺は女を見た。
「神が正しいことを言うなら聞きます」
「正しくないなら?」
「質問します」
「それでも答えがなければ?」
「自分で調べます」
女は、初めて少しだけ笑った。悲しそうな笑みだった。
「本当に、よく似ています」
「誰にですか」
「今はまだ、知らなくていいことです」
「それは知りたくなる言い方ですね」
「でしょうね」
光の輪が広がる。視界が白く染まっていく。意識が薄れていく。転生が始まるのだと分かった。
最後に、女の声が聞こえた。
「神崎悠真」
「はい」
「あなたはきっと、あの世界でも多くのものを知るでしょう」
「そのつもりです」
「けれど忘れないでください」
女の声が、遠くなる。
「世界は、理解されるためだけに存在しているわけではありません」
俺は答えようとした。だが声が出なかった。白い光の中で、最後に女が呟く。
「……また、あなたのような存在が現れるとは」
また。その言葉の意味を考える間もなく、意識は落ちた。
次に目を覚ました時、俺は石造りの広間に倒れていた。
周囲には、鎧を着た兵士。ローブ姿の魔導士。豪奢な服を着た老人。そして、玉座。いかにも王城だった。
広間の中央には、複雑な魔法陣が輝いている。
俺はゆっくりと上体を起こした。身体が重い。呼吸がある。心臓が動いている。肉体だ。新しい肉体。
周囲の魔導士たちがざわめく。
「成功だ……」
「異世界より勇者を召喚したぞ……!」
玉座の老人が立ち上がった。王冠。なるほど。国王か。
「異世界より来たりし勇者よ。我が名はルミナス王国国王、アルベルト・ルミナス。そなたには、この世界を脅かす魔王を討つ使命が――」
「すみません」
俺は片手を上げた。広間が静まり返る。国王が眉をひそめた。
「何だ」
「その話の前に、いくつか確認したいことがあります」
「確認?」
「はい」
俺は国王ではなく、足元の魔法陣を見下ろした。
床に刻まれた術式。円環。収束線。中央へ向かう魔力の流れ。対象を固定するための拘束式らしき線。外部から何かを引き寄せるための誘導式。
素晴らしい。見たことのない構造だ。心臓が高鳴る。だが、同時に違和感もあった。
呼び出す線はある。固定する線もある。維持する線もある。だが、戻すための線がない。召喚陣というより、片道の取得装置に近い。あまり良い設計ではない。
「まず確認します」
俺は顔を上げた。
「俺は、この召喚を拒否できますか?」
広間の空気が凍った。
「……何?」
国王が聞き返す。
「この世界へ来ることを、俺は事前に承認していません。今からでも拒否できるのかを確認しています」
魔導士たちがざわめいた。
「拒否……?」
「勇者が……?」
「そんな記録は……」
なるほど。拒否欄はないらしい。俺は再び魔法陣へ視線を落とした。
「もう一つ」
「ま、待て。そなたには使命が――」
「その使命は、依頼ですか。命令ですか」
国王が言葉に詰まった。
「俺はまだ、この世界の状況を知りません。知りもしない世界を救うと誓うのは、不誠実です」
「…………」
「それと」
俺は床に膝をつき、刻まれた術式を覗き込んだ。
魔力の流れが見える。いや、正確には感じる。地球にはなかった感覚。世界そのものに、別の層が重なっている。
魔力は単なる光ではない。床の術式を媒介にして、空間のどこか別の層へ接続している。発光は副次現象だ。本質は、対象情報の固定と座標変換。いや、違う。座標変換だけではない。魂、あるいは存在情報の牽引も含まれている。
「……面白い」
思わず声が漏れた。国王も、魔導士も、兵士も。全員が、異物を見るような目で俺を見ていた。
その反応を見て、俺は理解した。どうやら、ここでも最初の質問を間違えたらしい。だが仕方ない。勇者だの魔王だのより、目の前の魔法陣の方が重要だった。
俺は顔を上げ、できるだけ冷静に尋ねた。
「この魔法陣、分解して調べてもいいですか?」
誰も答えなかった。広間全体が、完全に沈黙した。
こうして、俺――神崎悠真の、二度目の人生が始まった。
勇者としてではない。救世主としてでもない。世界を支配する者としてでもない。ただ、世界を知りたい一人の探究者として。
そしてこの時の俺は、まだ知らなかった。魔法を調べるだけのつもりだった自分が、やがて勇者にも魔王にも神々にも危険視され、世界そのものから忘れられながら、それでも世界の外側へ至る門を開くことになるなど。まだ、何一つ知らなかった。




