第4話:絶望の砦と、昇る黒陽
雨など何ヶ月も降っていない荒野にあって、最前線の『黒角の砦』は、常に泥濘の中にあった。
それは雨水ではない。数千の兵士たちの血と、魔物の脂、そして腐敗した肉片が、何層にもわたって土に染み込んでいるからだ。
「……矢は尽きたか」
「はい。熱湯も、石も、もはや何も……」
崩れかけた石壁の上で、全身に包帯を巻いた守将が虚ろな声でつぶやく。
砦を包囲する魔王軍の軍勢は、ざっと数万。地平線を漆黒の染みのように埋め尽くす異形の群れに対し、生き残っている防衛兵はもはや数百にも満たない。
誰もが泥と血にまみれ、兜の奥の瞳からは完全に光が失われていた。濃厚な死臭と、押し潰されそうな絶望のテクスチャが、砦全体にねっとりとへばりついている。
『――ブォォォォォォォォ……ッ!!』
耳障りな地鳴りのような角笛が、荒野を震わせた。
魔王軍の総攻撃の合図。同時に、分厚い鋼の城門が内側へひしゃげ、凄まじい轟音と共に吹き飛ばされた。
土砂崩れのように雪崩れ込んでくる、漆黒の獣と刃を持った上位魔族たち。
「……これまでか。総員、剣を抜け!! せめて人類の盾として、誇り高く死ねェッ!!」
守将が血を吐きながら絶叫し、兵士たちが悲鳴交じりの雄叫びを上げて突撃しようとした、まさにその時だった。
――ピィィィィィンッ!!!
空気を切り裂くような、甲高く澄んだ金属音。
砦に殺到していた魔物の群れの最後尾が、不自然にパカン、と左右に割れたのだ。
いや、違う。銀色の閃光が、狂ったような速度で漆黒の群れを「貫通」してきたのだ。
「そこを退け、泥虫どもッ!!」
怒号と共に姿を現したのは、戦火の煤に汚れた白銀の軽鎧を纏う少女騎士、エレンだった。
彼女の細剣が乱反射する光の束となって魔族の急所を的確に穿ち、分厚い軍勢のど真ん中に、細く、だが決定的な「道」をこじ開ける。
そして、彼女の背後。
跳躍した「何か」が、鉛色の空を遮って、空中に巨大な影を落とした。
「――伏せろォォォッ!!」
腹の底を震わせるような、若く荒々しい咆哮。
ボロボロの青い外套を羽織ったその男は、宙に浮いたまま、巨大な両刃の大剣を上段に構えていた。
だが、兵士たちの視線を釘付けにしたのは剣ではない。男の右腕だ。
肘から先を覆う禍々しい黒がねの籠手から、直視できないほどに暴力的で、極太の黄金の火柱が噴き出していたのだ。
命を薪にして引き出された極限の熱量。
男は顔を苦痛に歪めながらも、その巨大な熱を大剣の刃に無理やり圧縮し、城門に群がる魔族のど真ん中へと叩き落とした。
――ズガァァァァァァァァァァァンッ!!!!
世界が、白く飛んだ。
爆発音すら遅れて届くほどの、圧倒的な光と熱の奔流。
大剣が泥に突き刺さった瞬間、大地を這うように放射状に広がった黄金の炎が、城門前の魔族の群れを数千体まとめて蒸発させた。
悲鳴すら上がらない。ただ、肉が炭化し、灰となって空に舞い上がる音だけが響いた。
「な……、あ……?」
熱波に吹き飛ばされ、泥の上に尻餅をついた兵士たちは、ただ呆然と目の前の光景を見上げていた。
舞い上がる黒煙と、オレンジ色に焼けた土。
そのクレーターの中心で、赤熱した大剣を杖にしてゆっくりと立ち上がる男の背中。
右腕の籠手からゆらゆらと陽炎を立ち昇らせるその後ろ姿と、なびく青い外套の円卓の紋章が、逆光の中で強烈なシルエットとなって浮かび上がる。
「……太陽の、騎士様……?」
「ガ、ガウェイン様だ……! ガウェイン様が、来てくださったぞォォッ!!」
死を覚悟していた兵士たちの目から、泥水のような涙がポロポロとこぼれ落ちた。
絶望という厚い雲を力ずくで引き裂き、彼らの前に降臨した、本物の希望の光。砦全体が狂乱にも似た歓喜の渦に包まれる。
だが、その歓声の中心で。
英雄としてひざまずかれるアッシュは、必死に歯を食いしばっていた。
(痛ぇ……ッ!! 死ぬ、腕が中まで完全に焼けてる……ッ!!)
強引に出力を引き上げた代償で、右腕の血管という血管から煙が上がっている。今すぐ泥の中を転げ回って泣き叫びたいほどの激痛。
限界を迎え、ふらりと膝が折れそうになったアッシュの背中に、いつの間にか背後に立っていたエレンの手が、ガシッと食い込んだ。
「(……持ち堪えろ、泥人形。ここからが本番だ)」
笑顔で兵士たちに手を振りながら、エレンが地獄の底から響くような小声で囁く。
「(胸を張れ。痛い顔をするな。……あの数の残党を前に、ここで貴様が倒れれば、こいつら全員が絶望して死ぬぞ)」
「(無茶言うな……ッ、もう一回あれを撃ったら、俺の右腕が消し飛ぶ……ッ!)」
歓喜に沸く兵士たちの前で繰り広げられる、誰にも見えない血みどろの駆け引き。
前線基地を包囲する魔王軍は、まだ半数以上が残っている。
圧倒的な武威を見せつけた「偽りの英雄」と、彼を背中から支える「共犯者」の、文字通り命を削る防衛戦が、今まさに幕を開けようとしていた。




